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「ここに温かいスープがあるわ。夜毒虫のスープなんだけど、毒は大丈夫かしら」
駄目だったらスラッシュを呼び出してなんとかしなくちゃ。
ウサギもどきを担いで家に帰るのは、今の私には難しい。さっきから頭の中でティンパニが勢いよく打ち鳴らされているみたい。おまけに自分の意思に反して手が震える。寒くなんかないのに。
幸運なことに、相手は弱々しく頷いた。
さっき蜘蛛が言っていた「毒に強い」ことにも合致する。
トルネル族はもの問いたげに瞬きをして、鼻をすんと鳴らした。
目から情報を読み取ることが難しいから、どうにかして私のことを信用できるのか判断しようとしているみたいだった。
私は真新しいバスケットを下ろして、鍋の蓋の上にかぶせてあったレースを外した。
「私、おせっかいなの。たまたま見つけたあなたを放っておけないだけ」
勢いよく蓋を開ける。
「私の料理は王女様だって召し上がるのよ。美味しい物を食べて、よく寝れば、すぐに元気になるわ」
腕の震えに舌打ちしながら、カップに注いだビスクを相手に押し付ける。
湯気の立つ紫色のスープはひどく波打って、のろのろと腕を動かしたウサギもどきが自分でカップを支えた時は、すごくほっとした。
「自分で持てるのね、良い子。ゆっくり飲んで。きっと体が温まるわ」
ウサギもどきはひくひくと鼻を動かし、一口、舐める。
そうかと思うと、音を立てて勢いよくカップの中身を啜り飲んだ。
どこにそんな力があったのってくらい。
「急いで飲んだら火傷するわよ。え、まだ飲みたいの?」
カップを差し出され、こくりと、頷かれた。
どうしよう。もう時間もないし、中身だってそんなにたくさんは用意してない。
「……ありがとう」
初めて聞こえたそれは低く、擦れた声だった。
口元には、笑みらしきものが浮かんでいて。……あー、もうっ。
私は地面に座り込んで、差し出されたカップにビスクを注いだ。一杯、もう一杯と。
料理人としていつだって、目の前の一皿に心血を注いできた。
今、目の前の生き物は私の料理を欲している。
それに応えずして、どうして料理人って名乗れるのよ!
無言で啜り続けるウサギもどきの姿に、ふと昔の私が重なった。
無知で無力で、悲しみと怒りばかりが思いだされるあの頃。
無意識に、小さな声が零れ落ちた。
「私の大好きなたった一人の家族は、ホテルの料理人をしていたの。私は父のことが大好きで、誇りだった」
しびれは今や、全身に広がっている。私はこほりと咳をした。
「ある時、父のスープを飲んで、五人のお客さんが亡くなったの。毒殺魔の汚名を着せられた父には、あっという間に死刑が宣告された。私が何を言っても、どうにもならなかった」
再び差し出されたカップに、震える手でビスクを注ぐ。
フランスの死刑制度が廃止になったと、最近、シグ=ロウから聞いた。
憶測で犯人当てをしてはいけないとわかっているけれど、あの時、父を自分のホテルに引き抜こうとして失敗した、町の権力者が一番怪しいって私は今でも思ってる。
「父は死刑が執行されて、私は周りから罪人の子扱いされた。しいまいにはホテルのオーナーの妾になれって言われて……私は」
思い出しても屈辱と哀しさで、声が震える。
「怒ったわ」
私の言い分を聞こうとしない捜査機関に。
冷たい視線と言葉を浴びせる世間に。
それから、無力な自分に。
私は深く息を吸い込んだ。少しせき込んで、もう一度、しゃべりだす。
「怒って怒って正気を失いかけて、森をさ迷い歩いていたら、シグ=ロウ、今の家主さんに出会ったの」
今でも彼に出会った時の衝撃は覚えてる。だって、あの人とは思えない美しさは、一種の視界の暴力だった。……人じゃなかったんだけど。
「彼、美味いと評判のスープを飲みに来たのに、ホテルのレストランが閉まってるんだけどって。ぼろぼろの私を見て、あんまりにも平然と言ったの。びっくりして、私は正気を取り戻した」
そこでシグ=ロウに「僕と一緒に来る?」と問われ、その手を取って今に至る。
人の世に未練なんて、これっぽっちもない。
シグ=ロウについてきて正解だった。
これは絶対に、胸を張って言える。
父直伝のスープを飲んで、本当に幸せそうな顔をしたシグ=ロウ。
彼のそばにいられるのなら。
そこが私にとっての天国だ。
私の話を聞いているのかいないのか、トルネル族から、ほうと息の洩れる音を聞いた。
彼の強く握られていた手が、カップから離れる。
残ったスープは残り三杯と半分くらい。
強張っていた肩の力が抜け、私は空を仰いだ。
もう十五分は確実に過ぎた。
エメラルド色の砂は全部、落ちてしまっただろう。
シグ=ロウ、ごめん。ごめんなさい。
「さて。スープはおしまい。誰か、助けてくれる人に心当たりはない?」
カップを受け取り、ひどくなる一方の頭痛と吐き気に限界を感じ始めた時。
急激に空気の温度が下がった。
背筋に寒気が走り、肺に入ってきた空気の冷たさに咳き込む。
私の体がおかしくなったせいかと思ったんだけど、気づけば周囲にあったざわめきが消えている。
「みぃつけたー」
背後から、奇妙に重なりあう音が聞こえた。
「逃ーげちゃだめーだって、言ったーじゃないかー」
二重、三重にだぶって聞こえる、これは、声だ。枯れ草にカビが生えたような、嫌な臭いも漂ってくる。
本能的に、嫌だ、振り返りたくないって思った。
何者なのか、わかるようで、わかりたくない。
同時に、地面に座っているのに体がぐらりと傾ぐ。毒のせい? 視界がおかしなことになってる。
まっすぐに体を立てていられず、何とか右手をついてバランスを取った……けれど、上手く力が入らない。
「あららー、こっちも弱ってるー。一緒に食べちゃおー」
「や、やめて、くれ……!」
小さな悲鳴が聞こえた。霞む視界の中、顔をゆがめてそちらを見ると、ウサギもどきが地面を這って、私をかばおうとしていた。
「食べるなら、俺を、食べろ……!」
捕食者が、声に出さずに笑ったのが、空気の揺れでわかった。
朦朧としつつあった私は、閉じかけていた目を無理やりこじ開けた。
「今の、笑うとこじゃ、ない!」
体の底から湧き上る怒りにまかせて、私は鍋を両手で掴み、残っていたスープを相手に浴びせかけた。
ヒステリック? 私にできる抵抗なんてこれくらいなんだから、許してくださいと、誰かに祈る。
過去、私も嘲笑を浴びた。
寝る間も惜しんで父の救済を訴える娘を、無意味で無価値だと皆、嘲った。
精一杯の行動を馬鹿される痛みと怒りは、きっとずっと忘れない。
失った人は戻らず、彼らは私に何も望まないだろう。
たとえ、そうだとしても。
無力なら無力なりに、嘲笑に納得はしていないと、抵抗の意思は示したいのだ。
その叫び声には、少しの間があった。
「ど、毒ーっ!」
いきなり、頭が割れるかと思うほど、痛みを伴う絶叫が辺りに響き渡った。次の瞬間、
「許さなぃー。毒消し(そいつ)食う前に、おまえー、食う!」
その声と、私の足が地面から離れたのは同時だった。




