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巨大な窓の向こうに見えるのは、黒い森と灰色の空。
紫色の壁には見たことのない生き物の首がずらりと飾られている。床にはボール、巨大な人形、石で出来た像などが散らばっていて、熟れたラズベリーみたいな匂いがする。
豪華な金色のシャンデリアが天井からぶら下がっていて、灯りは十分にあるはずだ。
でも、どこか薄暗く、寒く感じる。
「シグ=ロウは?」
挨拶抜きで部屋の中央、天蓋つきベッドに寝そべる相手が、そう尋ねてきた。
こちらに向けられた眼差しはきつく鋭く、薄い唇は真の紅。
金色の髪は緩く波打ち、床まで届く。
どちらかといえばエキゾチック系だけど、はっきりとどこの国とも分類できない美人。
それから。
人型の胴体には、肩から脇腹にかけて腕が左右に四本。
下半身は大型のネコ科の獣で、白い毛皮に黒い斑点模様。私の腕よりも太いしっぽ付き。
彼女が四本の足で立つと、背の高いシグ=ロウよりさらに高くなる。
姿が見慣れないだけじゃない。彼女から発せられる威圧的な雰囲気は、道ですれ違う魔族とはまったく違う。
生物としての格が違う、のだ、と思う。
「申し訳ありません。シグ=ロウは仕事で来られません。私が料理をお持ちしました」
気持ちを込めても、声はかすれる。バスケットを両腕で抱えなおして頭を下げる。
「本当に? 本当に彼、今日は来ないの」
ねっとりとした重い声が、潜められる。
う。そうよね。期待していただろうに、メインのシグ=ロウがいないんじゃ、がっかりするわよね。
「は、はい。申し訳ありません。ですが、料理はちゃんと作って参りましたので、ぜひお召し上がりください……!」
百年分くらいの勇気をかき集めて、バスケットを掲げた。両手がぶるぶると震えるのは、王女様から発せられる無言の圧力のせいだ。
衣擦れの音が聞こえた。ベッドから降りたのかな。
そう思って顔を上げた、その視界のすぐ右横に、王女様がいた。それも、彼女の高い鼻が私の頬にくっつきそうなくらい、ものすごく近くに。
……び、びっくりした、びっくりした! ぞっと背筋が凍った!
地面から足が離れなかったこと、悲鳴を上げなかったことに自分で感動する。
驚きすぎて心臓止まるかと思ったわ!
「そんなに怯えないで。私、あなたを怖がらせたくはないの。本当よ?」
近い、近い。至近距離で王女様の吸い込まれそうな黒い瞳に覗き込まれて、私は背中をのけぞらせる。
「は、はあ」
「過剰に怯えるのは禁止ね。破ったら、地に眠る者の糞を飲んでもらおうかしら。臭いが一生取れないかも。それとも、腕を一本と足を一本、抜いてみるほうがいい? 人間って腕も足も少ないんだから、余計不便になるわね。シグ=ロウ、なんて言うかしら」
微笑みを浮かべつつ、やけに饒舌な王女様。
ちっとも面白くない上司の冗談につきあわされる部下って、こんな気分なのかな。顔の筋肉を根性で動かし、なんとか口角を上げるけど、意識をここにとどめておくのに必死だ。
「それで、これが夜毒虫の?」
「は、はい! コートレットにしました」
一歩下がって王女様との間に程よい間を開ける。そして、バスケットを再び差し出した。
王女様はバスケットの上にかかっていたレースをしげしげと眺め、その下のコートレットを一つ摘まんで、一言。
「作り直して」
艶のある声が、やけに耳の奥に響いた。
目を瞬かせた私に、イ=タン様はため息交じりにおっしゃった。
「この料理、毒がほとんど入っていないわ。これでは夜毒虫を指定した意味がない」
「で、ですが、私は、毒に直接触れないので」
とっさにそう言って、礼を失したかと慌てて口を噤む。王女様の赤い唇が吊り上った。
「ちょうどいいじゃない。毒であなたが醜くなれば、シグ=ロウに愛想を尽かされるかもしれない。そうしたら私が直々に雇ってあげるわ。ね、良い提案じゃない?」
小首を傾げられても、そうですね!と頷くことなんてできない。怖すぎる。
戸惑う私にイ=タン様は片眉を上げると、優雅な動きで床に落ちていた物を拾い上げた。
それは、子猫ほどの大きさの砂時計だった。
エメラルド色の輝く砂が、さらりと傾く。
「この砂時計が落ちる前にもう一度、作り直して私の所に持ってきて。そうね、間に合わない場合は、シグ=ロウの首を刎ねてしまおうかしら」
「え……?」
一瞬、意味を捕えかねて目が点になった私に、王女様は平然と、
「あなたが約束を忘れないように。スリルがあった方が、面白いでしょ。シグ=ロウの首なら、いいトロフィーになると思うし」
壁に並んだ首を見て微笑む王女様の凄みに、私は何も言えなかった。
とんでもない事態になってしまったと、口の中はからから。頭の中は真っ白だ。
「この料理は貰っておくわ。一時間の猶予をあげる。さあ、家まで送ってあげるから、美味しい料理を頼んだわね」
イ=タン様が砂時計から手を放す。
美しい鳥の彫刻が施されたそれは、柔らかな絨毯に受け止められ、すぐに働き始める。
楽しそうな笑い声が耳の奥に響いた。
そのあまりの大音量に思わず両目を閉じて……。
気づいた時には、あまりにも見慣れた我が家の台所に突っ立っていた。
今朝、シグ=ロウが持ってきたのと同じ量の夜毒虫が、流し台の桶の中に入っていた。
材料を準備してくれるなんて、王女様気が利く~……なんて思うかっ!
あー、超怖かった! 足の震えが止まんなかったんですけど! 会うのは五回目、でも直接話すのはほぼ初めてでしょ、私達。その、ほぼ初めて喋る相手を脅しすぎじゃない? なんなの、ヒエラルキーのトップにいる魔族ってあんな感じなの? つーか、距離が近くて怖い。腕が四本もあるのも謎。人間の体と雪豹の体は別にしなきゃダメでしょ!
「……時間がないんだった。仕事しよ」
心の中で散々悪態をついて気がすむと、私はエプロンを身に付けた。
問題は夜毒虫の毒だ。
今朝、コートレットを作る時は、シグ=ロウが紫色の毒袋と腸を素手で夜毒虫から抜き取ってくれた。
毒を好む人がいるとは思わなかったから、毒無しの調理法しか考えなかった。その後、シグ=ロウが生のそれらをつまみ食いしていて、その体の丈夫さに感心したものだ。象二十頭を殺せる毒より強い胃腸……うん、何でも食べられるって素敵よね!
自分の先入観に結構苦しめられてきたっていうのに、彼がいないこのときに限ってミスを犯すなんて。
……でも、今は後悔する時じゃない。
シグ=ロウの仕事の邪魔はできないから(どこにいるかも知らない)、スラッシュを呼ばなきゃ。
ブローチをひと撫ですると、すぐに黒羽の妖精が現れた。
「御用ですか、アマレット様」
「うん。スラッシュは夜毒虫の毒に触れる?」
うごうごと動く桶の中を指差すと、スラッシュは困ったように首を振った。
「夜毒虫の毒はとても強いので……薄めた味見くらいなら大丈夫だと思いますけど、直接触ると私、溶ける気がします……」
鈴の音のような可愛らしい声に、恐ろしいことを言わせてしまった。
「そっか。無理は言わないから安心して。うーん、そしたらどうしようかしら」
緑と紫のマーブル模様の虫を掴むと、身を護るようにくるんと丸まった。肉厚でしっかりとした弾力がある。
「体内の毒に触らないようにして、丸ごと調理する方法っていうと……豚の丸焼きとか、イモリの黒焼きとか、ないこともないわね。でも、王女様の御前に出す見た目としては、夜毒虫はおせじにも美味しそうとは言えないし……」
ぶつぶつと呟いて、考えを整理する。
こちとら人の世では、優秀な料理人の娘だったのだ。必ず「美味」って言わせてみせる。
ふと、部屋から出て行ったスラッシュが、黒い羽をひらめかせて戻ってきた。
「この手袋なら毒を多少は防げます。もしもの時の用に買っておけって旦那様が言っていたので、朝、角の雑貨屋さんで買っておいたものです」
細い両腕が抱えているのは、ゴム手袋らしき物。
私はぱちんと指を鳴らした。
「さっすがシグ=ロウ。そういう便利な物があれば、今朝も使ったのに」
「毒は手袋の中にしみ出しますから、完全に遮断できるとは思わない方が賢明です。使用時間はできるだけ少なくお願いします」
なるほど。
「アドバイス、ありがと。じゃあ、ぱっぱと作って持って行くのみ。絶対に、シグ=ロウの首を刎ねるなんて許さないから」
「えっ」
スラッシュの目が驚きに丸くなる。
私は手袋をはめ、調理器具を準備しながら、
「王女様、私が毒入りの料理を一時間以内に作ってこられなかったら、シグ=ロウの首を刎ねるって言ってたのよ」
スラッシュの顔がみるみる青ざめる。
彼女は主命だから、シグ=ロウがいなくなると考えるだけでも恐怖みたい。
「大丈夫よ。やってみる」
私は王女様に向けたものよりマシな笑顔を作る。
今はただ、それだけしか言えなかった。