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マーブル色の夜毒虫は、コートレット(カツレツ)になった。
シグ=ロウに触感や味を一つ一つ聞いて、何の料理にするか決める作業はまどろっこしくて仕方なかったし、虫から毒袋を抜くのも、バターを馴染ませるのも、細かいパン粉をつけるのも、彼がやってくれた。つまり、ほぼシグ=ロウ製のコートレット。
王女様は喜ぶかもしれないけれど、料理人としては不甲斐ない。
シグ=ロウが美味しい物好きで、好奇心と探求心がたくさん詰まっている人でよかった。
狭いシンクでは肩が時々ぶつかった。強力粉と薄力粉を間違えて、作り直した。でも、エプロンを付けた彼は楽しげに鼻歌を歌っていて、作ってる間中、台所は笑い声に満ちていた。
私、怒ってたんだけど……うん、王女様はともかく、料理にも食材にも罪はないもんね。
最後に私が揚げ焼きにして、一口食べた彼が言葉もなく目をきらきらさせて頷いたから、もう思い残すことはない(夜毒虫については)。
でも。
シグ=ロウが玄関の扉の前で、バスケットを抱いた私を何度も振り返る。
扉を開いて私を送り出そうとしているのに、一向に開ける気配がない。
「本当に、行けなくなってごめん。へまをした部下の後始末、どうしても僕じゃなきゃ対処できないから」
「いいから、ほら、もう謝らない!」
「うん……ごめんね」
心底申し訳なさそうなシグ=ロウ。さっきからこっちが申し訳なく思うくらい、何度も謝ってる。
対処って、人を殺すこと? なんて聞く雰囲気じゃない。
「何かあったらすぐにスラッシュを呼ぶんだよ」
使用人のスラッシュが、シグ=ロウの肩に乗ってお辞儀をした。
黒蝶の羽の生えた妖精族は、人間の頭一つ分ほどの大きさだ。シグ=ロウにもらったサファイアのブローチを媒介にして、呼び出せばすぐに現われてくれる。
小さくたって力持ちだし、気立てが良くてよく働く。そしてシグ=ロウ命の従者の鑑。たぶん、尊敬する彼が死んだら自分も火の中に飛び込んじゃうと思う。
「君の料理は世界一だ。今回もイ=タン様は気に入るよ。それから、怒るのはほどほどに。君の怒ってる可愛い顔は、僕だけが見ればいいから」
若葉色のワンピースにサファイアのブローチを胸元につけた私は、いつまでも続く忠告に、咳払いをしてストップをかけた。
「私が王女様に会うのはこれで五回目よ」
「回数ではね。でも、直接喋ったことはないだろう」
「あなたとばっかり喋ってるからね。でも、私だってホテルで接客してたんだし、心配しなくても大丈夫よ。ほら、ドアを開けて。料理が冷めちゃうわ」
シグ=ロウはプラチナブロンドの髪をかき上げ、不満そうに唇を尖らせる。
「そうは言うけど、イ=タン様は気まぐれで扱い辛いよ。君は料理を渡したらすぐに家に帰ってくること。その方が双方の為だから」
まったく。過保護にもほどがある。
彼の心配は、王女様に私が嫌がらせをされるとか、そういうところにあるのだろうか。
私は一歩、彼に近づいた。くすんだ青い瞳を覗き込む。
「あんまり心配されると、一人では何もできないと思われてるのかなって不安になる。そんなに心配ならあなたこそ早く帰ってきてよ。上手くやれたって、胸を張って報告するから。……逆に怒ってるかもしれないけど」
シグ=ロウは眉根を寄せて何かを言いかけ、諦めたようにため息を吐いた。そして、
「怒りんぼうのアマレット。一緒に行けなくて本当にごめん。早く帰るから、君も早く帰ってきて。僕は君の味方だから。じゃあ、行ってらっしゃい」
そう微笑んで、シグ=ロウは私の額にキスを落とした。
鳥の羽根が触れるような、一瞬の出来事。
彼はドアを開け、私の背をそっと押してくれる。私は一歩を踏み出した。
さあ、異形の世界へ。
魔界とは、例えるなら巨大な一つの高層マンションだ。
いくつかの階層に分かれていて、自分の力に見合った層に住むのが普通。
階層ごとに空も森も風も、太陽だって昇っちゃうのは不思議だが、上の層に行くほど上位階級者が住むのは人でも魔族でも変わらないらしい。場の中心には空間移動の魔法陣があって、それぞれの階層を行き来できる。目印は黒い葉の茂るモミの木だ。
生ぬるい風が吹いていた。トルコ石色の空は晴れていて、浮かぶ雲の色は純粋な白。
町並みは人間の世界よりサイズが大きい印象だけど、基本的に造りは似ている。石畳があって、石造りの縦長の家が並んでいて、時折豪華な一軒家があったりする。
それから、青空市場。物を買うのはここ。たいていごった返していて、踏まれたり潰されたりぼったくられたりしないように気を付けなければならない。
行き交う者のほとんどが、私にとっては異形の者だ。双頭の牛。顔のない豚。足が三本、胴体が二メートル、頭に羽が生えてる、なんて珍しくない。私があちらの世界で無意識に抱いていた、生き物に対する「こうあるべき」っていう常識が通用しない。最初は怖くて泣いたりしたけど、今はまったく平気だ。人間、慣れる。
人の姿もちらほらある。こちらに来たばかりの頃は親近感を抱いたものだけど、彼らの表情は皆、一様に暗く、話しかけても意味のある言葉を発しない。
「人間の娘だ」
「骨が美味い。食いたい」
「ああでも、上級の魔族の匂いがする。あれは触っちゃ駄目なヤツだ」
薄暗い店の中から、行商のマントの中から、石壁の隙間から。ざわざわとした視線と声を感じる。
バスケットを腕に下げた私は、顔を上げて、足音も高く歩いていく。
階層的には下になるこのあたりの魔族はシグ=ロウの匂いが苦手らしい。
一緒に暮らしてる私にも彼の残り香が移っているのか、悪意ある者は近づいて来ない。姿がなくても魔除けになってくれてるシグ=ロウ。ああいう陰口魔の連中を気にしてびくびくするのは業腹だから、彼にはとても感謝している。うーん、大好きだ。
「こんにちは、お嬢さん。新鮮なジャガイモが入荷したよ」
「ごきげんよう! 後で寄らせてもらうわ」
八百屋の店主に挨拶したり(人間が食べられる食材を置く店って貴重だ)、顔見知りで親切な魔族に手を振ったりしながら、モミの木を目指す。本当に、いろんな魔族がいるものだ。
家を出てから約十五分。モミの木の下の魔法陣に到着した。
魔法陣は線を踏んだ瞬間に、希望の層に行くことができるようになっている。その先に待ち受ける事態は自己責任だ。
よし。行くぞ。
「アマレット・シグ=ロウ様、ご到着ー」
魔法陣に両足を乗せたと思うと、どこからともなく地を這うような嗄れ声が聞こえてくる。
同時に、目の前には重々しい音を立てて開かれる鉄の扉。周囲は薄暗く、氷の中にいるかのように寒い。
私はバスケットを両腕に抱え直して、気合を入れて声を出す。
「こんにちは。失礼します、王女様」
やや緊張しながら、私は視界に広がる真紅の絨毯へと進み出た。