二
いつものように、俺は自転車で家路に着いた。
俺は現在一人暮らしで、始めの頃こそ寂しさも感じていたものの、祖父が死に、祖母は入院(死期も近い)、父は精神病院に入院しているあの家よりはよほど良かった。何より親戚連中も薄情なものだったから、俺は一人暮らしの提案が受け入れられた時心底喜んだ。まあ今となっては、あれだけ嫌いだった家族にさえ、『嫌い』という感情をむけなくなり、どうでもよくなったのだが。
(今日は買い物……は行かなくていいか。弁当の材料も明日の朝飯の材料もある)
明日はスーパー寄ってかないとな、と、緑に変わった信号を確認してからペダルにかけた足に力を入れた。
*
俺の住むアパートの前まで着いて、定められた場所に自転車をとめる。
ポケットから取り出したキーホルダーには、鍵が3つ。
1つはこの家の鍵。もう2つは、俺の実家の玄関と裏口の鍵だ。
思わず眉に力が入り、しかめっ面になる。
ぎり、と手を握りしめた。
「おかえり、吉行」
驚いて顔を上げれば、外階段の手すりに腕をかけて、こちらに微笑んでいるご近所さんーーテンドウがいた。
彼はその手に持ったココアの缶をこちらに投げる。
パシッとそれを受け取って、ただいまと返した。
にっと満足げに笑った彼が降りてくる。そしてそのまま俺の手を引いた。
はじめこそ抵抗していたものの、最近は慣れてきたためにおとなしく着いていく。
彼がこうして俺の手を引くときは、『飯食ってけ、泊まってけ』と暗に言っているのだ。
いつそれがくるかわからないから(テンドウは俺の表情と疲労をみているらしい)、俺は近頃ずっと宿題以外のものは教科書もノートも、何も持って帰ってきていない。全て学校に置いたままだ。
彼が扉をあけて先に入り、一度扉を閉められる。俺がドアノブに手をかけて再び開けると、にっこり笑ったテンドウに「お疲れさま。ご飯にする?お風呂にする?それともわ、た、し?」と言われる。
毎度のことなので素っ気なく「飯」と答えて、彼の頭をしばいた。
トントントン、とテンドウがネギを切る音がする。
なんつーか………うん、毎度思うが。
(何だこの新婚感は)
俺は他人があまり好きではない。もちろん自分も嫌いだ。アムカやリスカに手を出してしまうほどには。
誰かを信じるから裏切られて傷つく。深い関係を築いてしまえば裏切られた時に耐えられない。
俺は基本、誰も彼もを敵だと思っているはずだ。………そのはずなのに。
テンドウとの距離は、他と比べるとあまりに近い。近すぎる。
これでは、彼に裏切られた時、彼が死んだ時、俺はどうなる。駄目だ、距離を置かなければ。
「………テンドウ、俺は明日から、」
「間違っても俺から離れるなんて言ってくれるなよ」
くるりと振り返って先に言われた言葉に目を見開く。
テンドウの金色の瞳は、ギラリとした怪しい光を灯してこちらを見つめていた。
「俺の生きがいはお前なんだ。生きてる理由もな。………人間が失って、すぐに死んじまうものが何かわかるか?」
生きがい。生きる理由。生きる価値。生きる希望。
無くせばすぐに息絶える。
「………俺は常日頃お前に言ってきたから、お前自身も体験したことだから、知ってるよな」
テンドウはこちらに近づいてきて、俺をぎゅっと抱きしめた。
「……………俺を殺さないでくれ、吉行」
その腕と声は、震えていた。
*
俺には、可愛がっているご近所さんがいる。
まだ高校一年生の可愛い男子だ。
彼の過去を俺は知らないが、相当なものだったのだろう。彼は死にかけている。
肉体的にではなく、精神的にだ。
家庭と環境に殺されかけている、可哀想な子。
初めはただそれだけだった。
哀れに思い、彼を食事に誘うようになった。泊まっていけと言うようになった。彼はよく勉強ができるため、学年をいくつか飛ばしたことも教えてやった。世渡りの方法も、俺の知る何もかもを。
いつの間にか、彼は空っぽの俺の生きがいとなっていた。
灰色だった俺の心は、彼の纏う色に染まっていた。
仕事中も料理中も、風呂に入っている時も、いつでも彼のことが頭をよぎる。
ずっと俺が1人で生きてきたからこそだろう。俺の抱えていた大きな不安と寂しさを埋めてくれたから、俺は彼に依存した。
厄介な輩に目をつけられた彼に、さらに同情した。同情したが、引くつもりはなかった。
彼がいいそうなことはわかっていた。
距離が近すぎるから、裏切られて傷つきたくないから、俺から離れたい、と。
(そんなこと許すものか)
離れないでくれ。寂しいんだ。一度誰かの温もりを知ってしまったら、きっと俺はもう前には戻れない。戻った途端に壊れてしまう。誰もおかえりと言ってくれない、冷え切って静まり返ったあの空間で、俺はもう生きていけない。俺のそばにいてくれ。俺の前から消えないでくれ。
「……………俺を殺さないでくれ、吉行」
(俺を1人にしないでくれ)
俺を置いていかないで。