月が綺麗
人のまばらな夜のプラットホームでぼんやりと電車を待っている。
目の前を横切る電車を幾度か見送りながら、ベンチで冷めたコーヒーを啜っていた。
白く凍った吐息が散らばって行くのを確かめた後で、右手から差し込んだ光に目を細めた。
『月が綺麗だね』と、あの人は良く口にした。
空を仰いでみると、確かに綺麗な月。
彼の言葉には何の含みも有りはしない。
開いたドアをゆっくりと跨いでも、誰から急かされることもない。
ガランとした車内の座席の端に腰を下ろして、誰もいない対面の窓に映る流れる景色を見ていた。
穏やかな光が家々の窓に灯っている。
『あんな光が好きなんだ』と、あの人は良く口にした。
橙色の光は柔らかで、ぬくもりを感じる。
彼の言葉には何の含みも有りはしない。
うつらうつらと船を漕いでいることに気づいて慌てて周囲を眺めた。
初めから誰もいない車内を見ても、今の状況なんて解るわけでもない。
車内アナウンスが流れる――次が私の目的地だった。
空に浮かぶ月の美しさに、呼吸さえ忘れた。
ついさっき、出たばかりの駅を振り返る。
改築予定の木造の駅は、大きな看板がなければ、ただの廃屋とみられても不思議じゃないようなもので。
来年の今頃には、様変わりしているのだろう――次の人たちが羨ましいような、可哀相なような気分になる。
来年の今頃には、この駅に通う私はいない。
この駅で、あの人の出逢った私もいないのだ。
『月が綺麗ですね』と、あの人は口にした後で、笑った。
「夏目漱石が余計なことを言った所為で、こんなことも言えなくなっちまう」
「そうね」と、私は鋭い何かで突きさされたような胸の痛みを顔に出さないことに必死だった。
あの時も月が綺麗だった。あの人は何も知らなかった。知らないから言えたこともあったのだろう。
一緒に歩いてきた帰り道が、二人から一人になった時、私は月の美しさの理由を知った。
きっと、あの人はそれでも同じ景色を見ている。
振り返った時に見るこの駅の景色が、同じ名前でも、まるで違うものになってしまった時。
私の中の何かも確かに終わることになる。
その時に解るものが果たして何なのか。
今はまだ、解らないままでいたい。