・氷川朱音 15歳、春夏秋冬――――。
迷惑をかけている――――どころじゃない。
みんなの命を危険に晒している。わかってる。馬鹿じゃない。
……学校での成績は気にしないで、特に数学は。
田辺くんは、まもりちゃんの幼馴染で――――初恋のお相手だ。
直接、口には出さないけど、あまりにもバレバレすぎる。気付いていない子が居ないくらい。
田辺くんも気付かないフリをするのは大変みたいだ。……残酷だなぁ。
中学二年、クラス替えで田辺くんと私が同じクラスになって、まもりちゃんとは離れ離れになった。
そうしたら、休み時間ごとに親友の私に会いにやってくるんだから、恋する乙女は大したものだ。
たまに意地悪して私の方からまもりちゃんのクラスに行くと、とても落ちつかなそうにモジモジする姿には萌えた。恋する乙女は可愛いものじゃ。
京也は人付き合いが悪いから~。
京也は愛想が悪いから~。
京也は頭が悪いから~。
口を開けば田辺くんの悪口ばっかり。まもりちゃんよ、ちょっと意識しすぎじゃぞ?
でも、クラスの男子とは仲良くしてるし、よく笑うし――――私達より成績は上だったよ? 特に数学は。
心の友の憧れの人がどんなものかと、いつの間にか自然に目が追うようになってた。
まもりちゃんが田辺くんを悪く言うたびに、そんなこと無いよ、まもりちゃんの気のせいだよ、訂正したかった。
でも、しなかった。まもりちゃん、田辺くんに直接ジャレつくのは気恥ずかしいから、代わりに私にジャレついてたんだよね?
でもね~、恋する乙女よ、それはウカツと言うものなのだよ?
田辺くんが悪く言われるたびに、否定したい私がいて、イラだつ私がいて、嫉妬する私がいて――――気がつけば横恋慕。
不覚にも、親友の初恋の人に恋をしてしまいました。
あぁ、不味い。やっちまったよ、やられちまったよ。
そう思っても、恋は自然に落ちるもので、私の心は恋愛坂をコロコロと果てしなく。
何でもないことが、同じクラスにいることが、同じ部屋の空気を吸ってる事が――――変態じゃないよ? 普通の乙女なら誰だってそう。
ただ、近くにいることが嬉しくて、別のクラスになったまもりちゃんを相手にちょっとした優越感を感じちゃったりして――――女の友情は儚いねぇ。
一年ほど前から、そんな田辺くんと一緒に暮らすようになった。ドッキドキの同棲生活。
シチュエーションは、全然ロマンチックじゃ無かったけど――――。
避難場所になった学校の体育館。
皆が寝静まった夜、誰かがアレに
「――――――――――――ッッ!!」
我慢!! 私、我慢!!
……渋谷では警察の人達が簡単に捕まえてたけど、普通の男の人達は逆に噛み付かれて、感染して、真夜中の体育館はパニックになって、私に襲いかかろうとしたアレにお母さんが逆に襲いかかって、でも私はオロオロするだけで――――気が付けば、手を掴まれて逃げだしてた。
まもりちゃんのお姉さんの神奈さん。神奈さんがまもりちゃんの手を掴んで、まもりちゃんが私の手を掴んで、夜の町を走ってた。
夜の町の逃避行は王子様と一緒じゃなかったけど、ゴールでは王子様が待っててくれた。
今でも不思議に思う。どうして神奈さんは自分の家じゃなくて田辺くんの家を真っ直ぐ目指して走れたのか。
ただ、結果としては大正解だった。
避難所を守ってくれていた自衛隊の人達の発砲音を耳にして、田辺くんは家の外で待っててくれた。
一目見た瞬間、泣きそうになった。そのあと、実際に泣いた。
当たり前のようにまもりちゃんが抱きついたのには、あんな状況だというのにイラッときた。
そのあと、憧れの王子様に力尽くで家の中に投げ捨てられたのは良い気味だ。
裸足だった。アスファルトは硬くて、小石が刺さってた。皮は剥けて、リアルグロ動画。
走ってるときには全然気が付かなかったのに、見た瞬間、気を失いそうになった。
お風呂場に連れて行かれて水洗い。水道水は傷口にしみた。
消毒液は物凄くしみた。泣いた。喚いた。田辺くんを叩いた。腕を爪で引っ掻いた。ごめんなさい。
日本薬局のエタノールって名前。特別な消毒液だったらしい。消毒液なのに飲めるらしい。
そのあと、お姫様みたいな名前の薬を飲まされて、なぜか生理痛の薬も一緒に飲まされた。
ズキズキと痛むのは足の裏だったけど、生理痛の薬はアソコ以外にも効き目があるものだったらしい。
男の人なのに、なんで生理痛の薬持ってるの?
尋ねてから後悔した。田辺くんはちょっと前にお母さんを病気で亡くしてるんだよ?
私の馬鹿……。
「あぁ、ボク、プレッパーだから。生理痛の薬は鎮痛剤だけど眠くならないように配慮されてるから便利なんだよね。本当はもっと強い鎮痛剤が良いんだろうけど、これからどうなるか解らないから今晩はそれで我慢してね?」
答えが斜め上すぎて、言葉の半分も理解できなかった。
それから田辺くんは家の明かりを全部消して回った。
暗いの、怖いよ。子供みたいな文句を言ってしまった。
「明るい方が怖いよ? 助けを求めてくる人も居るだろうし、その人を追ってくる奴も居るだろうから」
……その言葉で、うっすらと外から聞こえてくる悲鳴に気が付いた。
その声は少しずつ大きくなって、やがて田辺くんの家の前まで来て、ドアノブがガチャガチャと回されて、ドアがドンドンと叩かれて、窓もバンバンと叩かれて――――田辺くんの手が、まもりちゃんと私の口を塞いでいた。
どうして入れてあげないの?
今にして思えば、随分と残酷な質問をしてしまったと思う。
「声で解る。知り合いじゃない。他人だ。他所に行ってもらう」
田辺くんはアッサリと答えた。冷たい言葉……憧れの王子様に幻滅した。丸一年の恋が冷めた瞬間だった。
本当に我侭で、自分勝手で、酷い奴。私。
後になってからもう一度、尋ねた。……ううん。問い詰めて、田辺くんを責めた。
「他所の家なら窓ガラスを割って逃げ込めるでしょ? この家は三人分で計算しちゃってたから、許容量一杯だったんだよ……。ごめんね?」
田辺くんの方が成績は上だった。特に数学は。
あのパニック状態の夜、田辺くんは食べ物の数の計算をしていた。
冷凍庫だけの冷蔵庫があるなんて知らなかった。
お米は精米しなければ三年は持つものだって教えてくれた。
家族三人が丸一年暮らすには何の心配も無いだけの備えがあった。
――――私は四人目で……他人だった。でも、田辺くんは何も言わなかった。
田辺くんは、私がアレを怖がっているのだと勘違いしている。怖いんだけど。
私が本当に怖いのは、助けられた自分。そして、助けられなかった誰かの声。
夜になると、ありもしないドアを叩く音や、窓を叩く音が聞こえて、思わず叫んでしまう。自分でもどうにもならない。
窓が怖い。玄関のドアが怖い。見捨てた自分に押し潰されて、肺から息が絞り出される。
その悲鳴がアレを呼んでしまう。
玄関のドアが叩かれた。窓がバンバンと叩かれた。それはあの夜の再現で、私はごめんなさいごめんなさいと謝り続けていたらしい。
神奈さんとまもりちゃんが私の口を塞いでくれた。
本当は田辺くんの手が良かったんだけど、我侭は言えないよね。
半日近く、田辺くんの家が叩かれ続け、私は謝り続けだった。
私が正気を取り戻した時には、家の周りはアレの海だった。
大変な事を仕出かしてしまったと気が付いた。みんなに謝った。死ぬなら私一人で十分なのに。
「いや、別に良いよ」
でも田辺くんはニッコリと笑って答えた。
あんな状況だったのに、その笑顔に心はなぜだかトキメイた。焼けボックリに再点火。……ずっと前からしてたけど。
私の頭の中では、君と一緒なら良いさ、なんて甘ったるい言葉に変換されたのだけど、田辺くんはまったく死ぬ気が無かったようだ。
変わった形の飛行機、ヘリコプター、とにかく妙な形のラジコンを飛ばした。
その下には誰かのスマホが吊り下げられていた。大きな音で落語が流され、その声に釣られてアレの海が遠くに行ってしまった。
正直、拍子抜けした。
そのうちに田辺くんのラジコンは自分で帰ってきた。空飛ぶラジコンのポチは賢い子だ。
田辺くんの家で暮らすうちに色んなことが解った。
渋谷の話。警察の人たちがアレを簡単に捕まえて皆が安心してる中、一人、窓を鉄の板で塞ぎ、二階へ上がれそうなところを全て壊したりしていたらしい。
避難所に集まる方がむしろ危険だと判断して、避難指示を無視して家に残っていたらしい。
パニック映画が大好きで、日々、自分ならこうするとシミュレーションと対策を重ねていたらしい。……確かに頭が悪かった。
そんな男の子だから週末は忙しくて、まもりちゃんが誘っても付き合いが悪かったらしい。
プレッパーって何? という答えは、インターネットの動画サイトで見せられた。世の中は、田辺くんよりも頭が悪い人達でいっぱいだった。
お医者さんでしか手に入らないはずの薬でも、海外から個人輸入すれば手に入ったらしい。
とにかく、田辺くんは小学校の頃から世界の終末に備えて続けていたらしい。
お年玉でゲームではなくガスマスクを買ったらしい。
世界の終末が来ると思ってたの?
「え? まっさか~、ただの趣味だけど?」
やっぱり頭が悪かった。まもりちゃんの言ったとおりの田辺くんだった。
私と話すときは、一人称がボクになる。
まもりちゃんと話す時も、一人称はボクになる。
神奈さんと話すときだけ、一人称が俺になる。わかりやすすぎだよ……。
まもりちゃんは、田辺くんのことが好きだ。
でも、田辺くんは神奈さんのことが好きだ。
神奈さんには高校生の彼氏が居る。物凄くカッコイイ人。
当事者じゃなければニヤニヤ笑いで見ていられるのに。――――当事者な私の胸も苦しい。
いま、何角関係なのかな?
田辺くんは愛想が悪かった。すぐに自分の世界に入っちゃう。
私が良い子にしてると放っておかれてしまった。寂しかった。
だから、わがままを言ってみた。悪い子になってみた。構ってくれた。嬉しかった。ごめんなさい。
『ハーゲンダッツ食べたい。でも抹茶は嫌い』
びっくり、田辺くんはどうにかして手に入れてきた。
だから、味も指定して、もっと意地悪をしちゃった。
――――田辺くん、どうすれば手に入れられるのか不思議だよ。なにか悪いこととかしてないよね?
それから昨日、田辺くんがまたハーゲンダッツを持って帰ってきた。
私の嫌いな抹茶を四つも。目の前に縦に重ねて……田辺くんが、悪戯っ子の顔をしてた。
抹茶は嫌いと一度しか言ってないのに、ずっと覚えててくれたんだ。
……泣きそうになるのを我慢するのは大変だったんだからね?