・四月一日、四月馬鹿の日
Zは素適だ。
雨にも負けず、風にも負けず、夏の熱波にも、冬の寒波にも負けたりしない。
お願いしますから敗北を知ってください。
京也が家の扉を開けると、さっそくZがお出迎えである。
本日もご苦労様ですと京也がねぎらいの言葉を掛けた。
Zは人を見つけると襲いかかってくる。
ZはZを見つけても襲いかからない。謎だ。
「Z同士が食い殺しあってくれれば楽なんだけどなぁ……」
そんなゾンビ映画の大前提を覆す発言を聞く相手は、道を塞ぐ建材のZだけであった。
Zの正体はゾンビではない。その本性は人体に寄生した粘菌であり、それが脳細胞や神経細胞を侵食するため、まるで映画のゾンビのように振る舞うだけであった。
脳機能が粘菌の作用により不完全に再現された結果、原始的な食欲と、人間のもつ社会性に突き動かされるため人間ばかりを襲うのだとCDCは推論を発表した。
人間の脳が一番興味を持つものは人間自身である。そこに本能である食欲が重なった結果の不幸な事故だというのだ。
木目のなかに人間の顔を見つけてしまうように、人間の脳は人間を見つけることに対して特化している。
その結果が、人間にのみ襲いかかる全力疾走のゾンビたちであった。
本体である粘菌Zは強い増殖性と嫌気性を持っていた。
そのため、頭蓋骨に穴が開けられると脳内の粘菌Zは酸素に触れて死滅する。
だが、体の内部に根を張ったZまでは死滅しない。
脳機能を失い、植物Zとなった残りカスは実に良い建材となった。
腐らない。凍らない。そして他のZを通さない。
ZはZを襲わない。
映画の大前提を逆手にとった京也の逆襲である。
建材Zは仲間として認識されるためか、木の板のバリケードと違って叩かれ破壊される心配がない。
Zにも優しさはあった。――――お願いだから、人間にもその優しさを向けて欲しい。
家の周辺や曲がり角などに建材Zを積み上げることで、とりあえずの安全は確保された。
居候の女子三人には若干以上に引かれたが、背に腹は変えられなかった。
唯一の誤算は、Zは腐らなくても着ていた衣服は雑菌を繁殖させることだ。
雨あがりなどには生乾き状態の洗濯物の匂いが充満し、これが女子にはことのほか不評であった。
雑巾の匂いだ。
Zたちにもカレーのスパイシーな香りは魅力的だったようで、バリケードZの向こう側をウロウロと歩き回る複数のZの姿を発見した。
その中にはまだ若い、少年と呼んでも良い――――かつての同級生の姿があった。
こんな時、幸いと言ってよいのか、不幸と呼ぶべきなのか田辺京也は深く思い悩む。
Zと化した知人を解放する機会を手に入れたのだと喜ぶべきなのか、知人をまた一人失うことになると悲しむべきか、それは大変に悩ましい問題だった。
覚悟を決める。――――手製のボウガンをコッキングし、これも手製の矢玉を装填する。
バリケードの基部に使用された自動車の上に陣取り、バリケードの上から素早く狙撃。命中。即座に隠れる。
光、音、匂いに敏感なZだが、矢の飛んできた方向からスナイパーを発見するだけの知能は無かった。むしろ、仲間の倒れる音や、外れた矢が地面に当たる音にこそ注意が向けられる。
コッキング、装填、狙撃、命中、隠れる。
コッキング、装填、狙撃、ミス、隠れる。
コッキング、装填、狙撃、命中、隠れる。
コッキング、装填、狙撃、命中、隠れる。
コッキング、装填、狙撃、ミス、隠れる。
ミスの中には頭部を外し、胴体に突き刺さった分も含まれる。
十五体のZの頭部に矢を生やすまでには、計二十七本の矢玉を要した。
素人お手製のボウガンと素人お手製の矢玉だ、距離が近くともこんなものである。
頭に矢を生やしながらも未だ動き続けるZ達だが、矢傷を通して浸透した空気がそのうちに脳内の粘菌を殺しきることだろう。矢玉の回収はそれからでも遅くない。
東西南北、自宅の周囲100mに張り巡らせたバリケード網だったが、カレーの匂いはよほどにZの食欲をくすぐったらしい。
沢山の建材候補がバリケードの向こうでは待っていた。
「多くが集まった事を喜べばいいのやら、多くが亡くなる事を悲しめばいいのやら……」
その日、建材に生まれ変わったZの数は三桁に届きそうな勢いであった。
途中で手製のボウガンが連射に耐え切れずに破損。替えを取りに戻る始末である。
しばらく、晴れの日のカレーは禁止にした方が良いのかもしれない。
一年前、女の子は無条件に料理が出来るものだと思っていたが、そうでもなかった。
数少ない食材で数少ないレパートリーを回す神奈姉には悪いが、少しばかり苦労してもらおうと京也は心に書き留めるのであった。
毎朝毎朝、欠かさずに片付けているというのに尽きるところを知らないZの群れ。
もしかすると、自分達四人以外は全てZに成り果ててしまったのだろうか?
だとすると、誰をイブにするかの押し付け合いで揉めるだろうなとアダム京也は楽しい想像をした。イブ失格のリリスについては氷川朱音で決定済みだ。
有名な映画の中で、ゾンビ達がショッピングモールに集まるシーンがあったが、それはZも同じ事だった。
普段の習慣に従って集まって来るんだ、と、映画の中では語られていた……アメリカでは習慣になるほど毎日ショッピングモールに通うものなんだろうか?
じゃあ日本だと、ショッピングモールに集まるゾンビはオバちゃん連中ばかりになるはずだな。
ちょっとしたZたちのバーゲンセール。京也はその情景を思い浮かべて苦笑する。
Zが集まる理由は単純に食料品の出す匂いだった。
人の愛情に飢えたZ達が、香ばしいカレーの匂いに寄ってくるのも仕方のない話である。
そして、生存者があつまる理由も食料品が大半であった。
この一年、そんな場所で何度か生存者仲間に遭遇したこともあった。誘われもした。
だが、京也は自分の抱えた事情を考えて合流することを避けた。
そのとき男が口にした、
「ちゃんと女にも飯を食わせてやってるんだよ」
その一言が、全てを物語っているような気がしたからである。
バリケードZから少しだけ離れた適当な一軒家に近づく。そこは未だ探索していない未開封の家だ。
ドアノブをゆっくりと回し、玄関の鍵を確認。鍵は掛かっていない。
フリーザーパックに詰められた、かつては食料だったものを戸口から放り込む。
食料を探しに外に出てZの犠牲になるよりも、餓死や自裁を選ぶ人も多い。
結果としては肺胞に附着したZの胞子が芽を出して、結局Zの仲間になってしまうのだが、死んだ後のことはどうでも良いのだろう。
銃社会ではないこの日本。
頭蓋骨を自らかち割って死ぬというのは、中々に骨が折れる作業なのであった。
かなり巧妙なピタゴラスイッチを作らなければ安らかな死すら望めないとは、実に面倒くさい世の中になったものである。
腐敗臭が家の中に充満するなか、京也は耳を澄まして待つ。
返事はない、どうやらただの空き家のようだ。
家主はきっと田舎に疎開し、元気に暮らしているに違いないと決め付けた。
左手にはグリップを強化したコンパクトさすまた、右手には登山用のピッケルを、直線的に掴みかかってくることしか能のないZを相手にするため考え抜いた、近接戦闘用の装備を確かめる。
まず左手で首や胴を抑え、右手で頭蓋に穴を開ける。うまく小脳に届けば一撃でノックアウトだ。
複数は相手にしない。相手に出来ない。
複数のZに遭遇した際は、扉を閉め、荷物を捨てて、全力で逃走すると決めていた。
家の玄関は色んなことを教えてくれるものだ。
まずは鍵の有無。鍵が開いているのなら、まず生存者は存在しない。
Zが徘徊するこの世界で、暢気にも鍵を開けっぱなしにする人間が居るなら会ってみたい。
次に、靴の有無と靴箱の比較だ。
靴のサイズや種類から、家族の人数、住人の外出状況、年齢や性別など様々なことが判断できる。
靴が揃えて置かれていたならば厳重注意。
それは家主が出かけていないことを示すサインだ。よっぽどの状況でもなければその家は回避した方が良い。Z一家に襲われたくなければ。
今回は幸いにも玄関の靴は少なく、残った靴も乱れたままで、家主達が急いでこの家を離れたことを示していた。
サイズは五つ、だから五人家族だ。
車庫のある家ならば、車の有無も判断材料になる。
車を置いて逃げる人間は居ないからだ。
そして、乗り捨てられた自動車が作る迷路の中で、自らも自動車を乗り捨てて、道の迷路をさらに複雑にする。――――本当に迷惑だな。
「お邪魔しま~す、よ?」
匂いによる誘い出し、玄関先での確認、最後は声による確認だ。
返事は無音。今のところは不在のようだ。
まずは一階、開いている扉があれば、まずは静かに閉めて回る。
つぎに二階、開いている扉があれば、これも静かに閉めて回る。
Zは物音に敏感だが、人間の姿や声を認識するまでは全力疾走で襲いかかってこない。
映画のように、いきなり木の扉が破られて不意をつかれる心配はないのだ。
映画のゾンビ達は、扉の向こうの人の気配を読める功夫の達人かなにかなのだろう。
扉を閉じた後は、一つ一つのドアをノック。100円ショップで手に入れたオモチャの聴診器を扉に当てて中の音を確認する。
その部屋からは低い唸り声が聞こえた。――――Zのものではない、冷蔵庫だ。
扉を開けて、内部を確認。五人暮らしのキッチンには400リットルの大容量冷蔵庫が鎮座しており、その中身には期待が持てそうだった。
どうか、抹茶アイスが入っていますようにと神なき世界で神に祈る。
床下収納や引き戸、ポリバケツの中などをノックして確認作業を続ける。
そんな馬鹿なと思うところにこそ人間は隠れる習性があるらしく、この一年、そんな馬鹿なと思うところでZとコンニチハした経験が多々あった。
隠れたまま餓死し、そのままお客さまが訪れるのを待ち続けるのだ。
怖い、だから外には出たくない。でも、亡骸は誰かに見つけて欲しい。
そんな理由で家の鍵を開けたまま、餓死や自裁を選択する人間も多い。
それならば、ちゃんとZ在中だと扉に書いておけ、京也は常々思っていた。Zの世界では、遺書は足元ではなく玄関先に置いておくべきものである。
一階、ダイニングキッチン、クリア。窓とカーテンを閉める。
一階、おそらくは夫婦の寝室、クリア。窓とカーテンを閉める。
一階、書斎……羨ましい、クリア。窓とカーテンを閉める。
一階、トイレ、クリア。閉めるカーテンが無い。
一階、おそらくは脱衣所、ノットクリア。ノックに対して水気ある反応音が聞こえた。
二階、子供部屋……男性、思春期、クリア。窓とカーテンを閉める。ベッドの下にいやらしい本は無かった。隠し場所は何処だ? 後の調査に期待する。
二階、子供部屋その2……女子高生、ブレザー可愛い。クリア。窓とカーテンを閉める。クローゼットの小箱にゴム製品を発見。若者の性の乱れについて問題提起する。
二階、物置、クリア。閉めるカーテンが無い。
天井裏、クリア。パッと見、断熱材しかないため、評価なし。
ここで京也は悩んだ。靴から確認できた人数は五人。部屋数は四人。
家主は不在、けれども脱衣所からは物音がする。
神奈姉がご所望であるトリートメントやカミソリの類は脱衣所とその先の浴室に存在するだろう。
再度ノック、水気のある物音、単数。おそらくは――――Z。
家主不在の家にお邪魔して、そしてこの風呂場のなかで亡くなったのだろう。
生きることに疲れ、食われることに怯え、安全な場所で静かに死を向かえる……。
――――迷惑な話だ。何処で死のうがZになるだろ。
引き戸にピッケルの先を引っ掛けスルスルと開く。
続けて壁をコンコンと叩くと足音が近づいてきた。
ゆっくりと戸口から現われたのは、まだ若い女性。十代後半。
どういった経緯を辿ったのかは知らないが、実用性に欠ける綺麗な薄布のドレスを纏っていた。
まずは音と食べ物の腐敗臭に釣られてゆっくりと、次に京也の姿を目にして全力で襲いかかる。
爪が短く整えられた両手を前にして掴みかかり、そのまま噛み付こうとする彼女の喉に左のさすまたが絡みつく。
女性の体の突進でも、それなりの重量が掛かる。女の子は羽のように軽くは無い。
カウンターの一撃で頚椎が折れてくれないものかと思ったが、そう上手くも行かないようだった。
左手で距離を稼ぎながら、気が咎める右手のピッケルの一撃で側頭部を貫通する。
小脳の破壊に至らない一撃では即死はしなかったものの、およそ十秒後には力を失い後ろ向きに倒れた。そして、一分後には身動き一つしなくなった。
少女の左手首には京也が付けた覚えのない深い傷が一つ。おそらくこれが人としての死因なのだろう。
浴槽に張られた水は鮮血の赤ではなく、酸化した黒に濁っていた。神奈姉がご所望の剃刀が一本落ちていたが、流石にこれを持ち帰るのは躊躇われた。……すっかりと錆びていたからだ。
安全確保を終えた家の中、家捜しが開始される。
女の子用品は夫婦の寝室と性の乱れた女子高生の部屋で見つかった。上手に丸まった色とりどりの下着も見つけたが、迂闊に持って帰るとなぜかセクハラ扱いされるので放棄した。空中に散布して放棄した。
しかし、随分と上手に丸めるものだと女性の丸いもの好きにはつくづく感心する。
シャンプーやトリートメント、生活雑貨の類を回収。
残念な事に、いやらし本は回収できなかった。どうも思春期の彼はネット派のようで、友達にはなれない気がした。
彼は、エロスの詫び寂びを理解していない。あるいは度胸が足りない。
衆人の目に晒されることなく、安全の中で集めたお宝にいったい何の価値があると言うのだろうか?
その検証のため外付けのハードディスクはキチンと回収した。ちゃんと分類されていることを祈る。
食料品の保存は期待していなかった。
米びつに残った米はやはり精米済みで、酸っぱい匂いがした。
野菜の類も全滅であったが、芽を出して他の野菜たちに根を生やした気合の入ったジャガイモは、その辺に植えておけばそのうちに食べられるかもしれない。期待とともに持ち帰る。
冷蔵室は全滅。想像通りの結果だった。
そして冷凍室、どうか抹茶アイスがありますようにと神に祈った。だが、世紀末では悪魔が嘲笑う。
ハーゲンダッツ、クッキー&クリーム、バニラ、ストロベリー。総個数は三。
Zが徘徊し、神も仏も無い世界だとつくづく思っていたけれど、悪魔は依然として君臨しているようだった。
最後に他人のお宅でZとなった薄いドレスの彼女の下着を確認する。迷惑料というものだ。
想像通りに派手派手しく、言い換えるならば下品極まりなく、用途の想像に難くない一品。
『食わせて貰っている』、女性の生活とはこういうものなんだろう。
だから、やっぱり、合流するわけには行かなかった。
――――まぁ、そんな男心は露知らず、アイスクリームは平等に、じつに平等にお姫様の三人で分けられたのですけれどもね。
「京也は不味いくらいがちょうど良いんだよね? アイスとか美味しすぎるよね?」
朱音と神奈とまもりが、こんな時だけ声を揃えて仲良く語った。
えぇ、そう言いましたよ。言いましたけどね!?