・四月九日、勇者の日
「生存記録、九日目。四月九日、天候は曇り。記録者名、田辺京也。
事態が急変した。大阪でゾンビパンデミック発生。
風の流れ、潮の流れを考えて、渋谷のそれが飛び火したとは考え難い。
これの示す意味は――――父さんは、帰ってこない、ということだ。
原因不明というのは、対処不能ということで、現状環七が解放されることは無いということだ。
環七の封じ込めは現在も続いている。封じ込めが完全封鎖に代わった。ただし、偉い人は除く。
父さんは、環七の東で自衛隊市ヶ谷駐屯地に避難させてもらったそうだ。
安心、安全、ありがたい。
衛星電話を通じて、五分だけ声を交わすことが出来た。
でもね、伝えるべき用件をちゃんとメモしてから電話してくれないと、涙声でお互いの話を聞き返すばかりになっちゃうから。そこは注意しておいて欲しかった。
生きてる。市ヶ谷。ご飯食べた。お風呂入った。それから誕生日おめでとう。
たった五つの言葉を伝えるのに五分。一件につき、一分。ここが戦場なら死んでいる。
父さんは、仕事場でちゃんとホウレンソウできているのか心配だ。
それにしても、情報統制が無いというのは良いことだ。
お隣の国では、我が国にゾンビは発生していない、という政府広報でゾンビパンデミックの発生を国民に伝えていた。
何故、東から西に伝播した? 水も風も、西から東に流れると言うのに。
大阪のそれは、渋谷とは別の感染ルートなんだろうか?
渋谷発の映像を繰り返し確認した。一億総発信者時代、分析資料には事欠かない。
携帯網は依然として回復の目処が立たないが、インターネット回線は災害に強い。
ゾンビ達は、人間にだけ襲いかかっている。……都合が良いなぁ。
他の生き物にも襲いかかってくれるなら、熊牧場からリアル生物兵器であるヒグマを投入すれば一斉駆除できそうなのに。
人間が全力で襲いかかろうと、ヒグマベアーは三桁四桁を簡単に屠ることだろう。
ベランダから高みの見物と洒落込み撮影してた投稿者が、柵を掴んで登ってくるゾンビにビビッてた。
幸い、手を滑らせて落下、そんな萌え動画が投稿されていた。ちょっと笑った。
直後、一階の窓が割られて侵入、住人の悲鳴。……引いたわ。
襲われてからゾンビ化までの時間も検証されている。三十秒、体格によりプラスマイナス五秒。
人間の肉が食べられているのかと思いきや、あいつら食べてない。噛むだけ。
味見するだけで食べないとは、どんなグルメゾンビだよ。至高の味を求めているんだろうか?
不味い! お前の肉は食うに価せぬな!! そんな心の声が聞こえ……腹が立つのでやっぱり撃ち殺せ。
ゾンビ撃つべし。父さんは無事だからもう構わない。
――――しかし、日本からゾンビを連れ出して海外で解き放ちでもしたのか?
――――自衛隊や機動隊が東京に集中するのを待って、大阪に解き放った?
――――人類滅亡を狙うカルト教団の陰謀説。何処かの国が開発した生物兵器。神の怒り。地獄が満杯になったのさ、へへへ。
推論ともいえない俗説は多数。裏づけは一切無し。
原因が解らない現状では予防手段が無い。
人の居る場所に近づかないことが一番の予防だろう。
細菌兵器テロ対策マニュアルを基本にして行動開始。
百均のマスクをして出歩く人を見て、付け焼刃って駄目だなと思った。
次亜塩素酸を発生させる、空間除菌剤なる疑似科学のお守りを首から下げる人も見かけた。
笑わせてくれるね。そんな装備でウィルス対策のつもりかい?
ちゃんとボクのようにフルフェイスの防毒マスクをして――――お巡りさん、ボクは怪しい人じゃありません。おうちにはお母さんしか居ないので電話に出られる人が居ないんです。
木崎のおじさんに身元保証してもらって、ようやく解放された。
おのれ、官憲め! 横暴すぎるぞ!!
二度目に掴まった際は、一度目に掴まえてくれた警察官の名前を出した。
三度目に掴まった際も、一度目に掴まえてくれた警察官の名前を出した。
横暴な官憲への報復だ。
印鑑を持ち、預金通帳からお金を下ろし、お買い物。
父さんはウンウンって涙声で頷いてたから許可は得られたはず。言質はとったぞ。
銀行では多少、乱暴な手段に出てしまった。反省。
自分の家の口座から下ろすのに、銀行強盗の真似事をする破目になるとは、融通が利かなくて安心だ。やっぱり銀行はお硬くないとね。
個室、自分の首に包丁を当てて支店長を脅迫。さすがに対応してくれた。
父さんが環七の向こうに閉じ込められて、仕方が無いのだということを伝えると応じてくれた。
母さんの死亡保険が……ギリギリ入金されてた。
お米。スーパーでは買占めが流行っていたので、個人商店でお買い物。
精米してないやつをと注文すると、解ってるな坊主という顔をされた。
米屋のおじさんは、ほとんど捨て値で販売してくれた。
これから東北の親戚の家に疎開するそうだ。向こうは米どころだから、わざわざ持っていくまでも無いってさ。
寒い地域は無事だって言う……噂を信じて。
東北ってロシアより寒かったかなぁ?
どちらにせよ、人口密集地よりはマシだろうから無事に辿り着けることを祈る。
高速道は使わないことをお勧めしておいた。一度渋滞に捕まったなら、進むことも戻ることも出来なくなる。頷いてくれた。
車は便利だ。お米を乗せて、助手席にボクを乗せて、二人でドライブ。
……だから、ボクを掴まえるなよ。官憲は横暴だ!!
ここでようやく、ヘイ! タクシー! という手段に気が付いた。
さすがに後部座席のボクを掴まえる官憲は居なかった。ざまあみろ。
長距離を走っていると、貸切という制度があるのだと教えてくれた。……知ってた。
子供を騙してるみたいで悪いと思ったオジサンが切り替えてくれた。……こっちの気が咎めた。
個人タクシーは社会に縛られないから助かる。もとい、会社。
交通法規にはちゃんと縛られてる。さすがはタクシードライバー、安全運転だった。
電気屋、冷凍庫を買い占めた。
即日配送を頼んだら、いまは業者が居ないからと断られた。
仕方が無いので、おじさんと二人でえっちらおっちら。
明日は筋肉痛だって言ったら、おじさんは三日後だなって言ってた。……どういう意味?
二百万円ってすぐに無くなるんだね。
超子供買いの途中、タクシーが軽トラにクラスダウンした。レンタカーだ。
おじさん、付き合いが良くてありがたい。あるいは、自分の愛車を心配したのか。
タクシーの運ちゃんから、ただの運ちゃんにクラスチェンジした。
玩具売り場で手の届かなかったドローンを購入。今日がボクの誕生日で良かったよ。
お父さんが何でも好きなものを買って良いって言ってくれたので、何でも買う。
百万円ってすぐに無くなるんだね。
ホームセンターは、夢に満ち溢れてた。どうしてこう男心をくすぐるんだろう?
ゾンビと戦うためか、斧やナタが売り切れていた。
ボクの先を行くとはやるな。ちゃんと殺れよ?
自家発電機、最後の一つだった。ギリギリセーフ。
でも、燃料缶は在庫が残って無かった。仕方がないのでペンキコーナーで一斗缶を購入。
板材。金属材。金属パイプ。金属ワイヤー。ボクのプレッパーズ魂に火が着いた。
三百万ってすぐに無くなるんだね。……わりと関係ないものも買って反省。
『なんでこんなに買い物してるの? ほんとに大丈夫なの? お金とか、ほんとに大丈夫なの?』
心配してくれるおじさんの質問に……言葉を濁した。
本当のことを口にして、おじさんが居なくなると困るから。
ごめんなさい。――――本当にごめんなさい。
コンビニや酒店を巡ってレトルトや缶詰類を買占め。
道を歩けばコンビニに当たる、東京は良いところだ。
タバコや酒は世紀末社会の通貨単位なので購入しようとしたところ、未成年への販売はお断りだそうです。……そういえばそうでした。
お父さんのお使いですと言い張ってみた。
売った方が掴まるから駄目なんだよって諭された。諦めた。おのれ、官憲め!!
タクシーのおじさんが代わりに買ってくれた。ありがとう、おじさん。
個人タクシーがそんなサービスまでしてくれるなんて流石に知らなかった。
穴場の自動車用品店。
バッテリー、オイル、ガソリン携行缶、そしてなによりガレージ用品。
100キロ単位を運べるキャリアー、トン単位を持ち上げられるジャッキ。
ジャッキを軽トラから下ろすとき、下ろすためのジャッキが無くて困った。
重いのなんの。
ガソリンスタンドでは携行缶で購入。ちゃんと法令順守。
ガソリンが揮発すると爆発するからね。
灯油はポリタンクで良いから助かった。
軽油はどうなんだろう? とりあえず、一斗缶に詰めても怒られなかった。
重かった。おじさんが腰を痛めそうになって大変だった。
千五百万って、すぐに無くなるんだね。
急いで走りまわった丸一日。脳内計画でしかなかった様々な形が現実の物資に変わった。
タクシーのおじさんがレンタカーを返しに戻る別れ際、『なんで』と最後に尋ねてくれたので、ちゃんと答えた。
大阪でゾンビパンデミックが起きた。海外でも起きてる。そのうち、東京の環七の外でも起きる。都市機能は完全に麻痺して、地方から食料は入らなくなる。食料はすぐに腐る。燃料の供給も停止する予定。
――――日本に向けて航海中の石油タンカーが海上で停止したんだよ。ゾンビの感染対策。
もうすぐ、お金は紙くずに変わる。トイレットペーパーの方が貴重品になるくらい。
一万円札とティッシュペーパー、どっちの使い勝手が良いんだろう?
これから日本では本物のオイルショックが来るんだよ。ゾンビも怖いけど、人間の方が怖いよね?
それに、預金よりも現金、現金よりも現物を持ってる人の方が強いでしょ?
おじさんは当時の状況を子供時代に過ごしていたから知っていた。だから頷いてくれた。
渋谷での封じ込めに成功したから、機動隊の皆さんが優秀だったから、みんな一度は気が抜けた。
映画はしょせん作り物。ゾンビ映画みたいなことにはならないんだって安心してた。だから、一時の平穏が訪れた。
でも、本当は成功してない。
感染源は不明――――日本の何処だって、世界の何処だって危険地帯になったんだよ。
ボクは一日か二日ほど情報が早かったから、一日か二日ほど早く走り回ったんだ。
アナログ世代にはお金がある。デジタル世代には速度がある。両方ある人は大富豪だよ。
おじさんは家族を連れて、しばらく田舎に帰るって言った。
お米とか、トイレットペーパーとか、2トン車に可能な限り詰め込んで、ボクと同じようにするんだって言った。決断の早いおじさんだった。
お米は精米していないものを勧めた。精米機は田舎にもあるだろうしね。
ごめんなさいと謝ったけど意味が伝わったかどうか。
貴重なタイムリミットまでの時間、奪ってしまってごめんなさい。
色々伝えたかったけど、時間が無かった。
だから、プリントアウトしたゾンビ対策マニュアルと細菌テロ対策マニュアルをお詫びに渡した。子供の書いた、子供の作った、子供の説明書だけど、受け取ってもらえた。
おじさんは田舎の住所を書いたメモをくれた。交換した。
握手して、別れた。ちゃんと消毒した。
夜、荷物の片付けをしていたら、神奈姉とまもりが来てくれた。
昼間にも何度か顔を出したみたいだけど、すれ違いになってたらしい。
誕生日ケーキを一緒に食べた。
神奈姉からはゾンビマスクの被りもの。
まもりからはゾンビの携帯ストラップ……何処で見つけてきたのよ?
……まもりが選び抜いたボク好みのグッズらしい。ボクはゾンビそのものが好きなわけじゃないんだけど……ありがたく戴いて被ってみた。
神奈姉が、顔を俯かせてプルプルと震えていた。また笑ってる。
夜も遅かったから、二人はすぐに帰った。帰らせた。
送っていくって言ったら、大丈夫だよ京ちゃん、私が合気道習ってるの知ってるでしょ? って。
知ってる。神奈姉がとっても弱いこと。……でも、強気の二人に押し切られた。
――――でもさ、ボクの尾行に気付けないんだから、やっぱり危ないよ。神奈姉。
今日の記録はこれでおしまい。
明日は一階の窓に金属板を取り付けて、父さん自慢のカーポートを破壊して、母さんお気に入りのサンルームを破壊して……。
――――全部、壊すんだ。
――――父さんは、帰ってこない。帰って来れない。
一年か、数年か、数十年か、一生か。
もしも明日、ゾンビナオールって薬が開発されたら大目玉くらっちゃうだろうな。
でも、そっちの方が良い。ちゃんと生きて帰って、無茶苦茶をしたボクを無茶苦茶に怒ってほしい。
母さんと二人で待ってるからね? ちゃんと待ってるからね? 絶対に帰るって、電話で言質、とったからね?
――――その日まで、ボクは絶対に生きてるからね?」