冬枯れ
「君は体が弱いのだから、安静になさいと言ったでしょう」
「……ごめんなさい、叔父様」
ブランケットから顔を半分だけ出して、おどおどとこちらを見てくる姪に、ソルセリルは「悪いと思うなら最初からしないことです」と素っ気なく返す。自分より小さな頭に、そっと手のひらをのせた。日に焼けたのだろう、普段ならすっきりと白い肌が赤く染まっている。馬鹿なことを、と口にした。
ごめんなさい、ともう一度申し訳なさそうに呟かれたそれに、いくぶん態度を和らげて、「せめて誰かを連れていくくらいのことはしなさい」とソルセリルはため息をつく。自分でもよくわからないが、この姪に弱々しい反応をされると戸惑ってしまう。
「外に出たいというのは理解できますが、一人で外出するというのは……君の体質を鑑みるに、賢明とは思えません」
「はい……」
しょんぼりとしてしまった少女に、ソルセリルは「君は日の光に弱くできているのですから」と重ねる。ブランケットをきゅっと掴んだ指は細く、お世辞にも健康的とは言えないほどに白かった。可哀想に、という言葉は口に出さない。
ソルセリルの姪であるニルチェニアは、小さい頃からずいぶんと体が弱かった。ヒトが元来持つべき色素が他者より極端に少なく、日光に弱かったのだ。アルビノとまではいかなかったが、本来なら青く染まるはずだった瞳は菫色に輝いているし、髪は銀色を通り越して白い。産まれてからほとんどの期間を家で過ごしたその少女は、深窓の令嬢と言うに相応しく、麗しかった。
美しい容姿が彼女の悲惨さを和らげてはいたけれど、それでも儚げな令嬢、という周りの認識は覆りはしない。
どこにいくにしても、何をするにしても、ニルチェニアには一人の時間というものがまず与えられなかった。あるのだとすれば、夜眠るときか――寝台でぼうっとしているときくらいで。無味乾燥な性格をしていると揶揄されるソルセリルとて、そんな姪を不憫に思わなくはなかったのだ。常に人に囲まれるというのは、想像以上に息苦しいものだから。
「……叔父様は、花がお好きなんでしょう?」
「嫌いではありませんよ。……どうしました、急に」
唐突な質問にも顔色を変えることなく、ソルセリルは淡々とした調子でニルチェニアの肌に軟膏を塗る。日の光を浴びて赤く熱を持った少女の顔に、冷たい手のひらを滑らせた。軟膏の独特な匂いがふわりと漂う。冷たい、とニルチェニアは呟いた。我慢しなさい、とソルセリルは返す。
「花を見てみたかったのです。だから、外に出てしまった」
「花が見たいのなら、持ってこさせましょう。今の時期なら庭の花が美しいはずですよ」
「そうではなくて」
儚げに微笑んで、ニルチェニアは「生きた花が見たかったのです」と窓の外を指差した。ニルチェニアのさした方には白薔薇がアーチに絡み付き、しっとりした花びらを柔らかく綻ばせている。
切るにはとても忍びない、と脆弱な少女は呟いた。生きているから、と。
「あの薔薇は、とても綺麗です。最近はずっと、あの薔薇が散らないことだけを思いながら……私はここにいます」
「……ニルチェニア」
「あの薔薇は、少し叔父様に似ていますね。花びらが白いところが叔父様の銀髪みたい。気高くて、鋭い刺を持っていて、誰も近寄らせないの。……でも、誰よりも美しくて、朝露を受け止める花びらみたいに優しいのです」
「ニルチェニア」
やめなさい、とソルセリルはニルチェニアの唇に人差し指を押し付ける。菫色の瞳の少女は、それにゆっくりと目を細くして笑った。照れ隠しですかとでも言いたげに、花のような色の瞳が柔らかい眼差しを向ける。
「……照れ隠しだ、と君が思うのは勝手ですよ、ニルチェニア。ですが、あの薔薇に僕を重ねることはしないで下さい」
「どうしてですか、叔父様」
「――あの薔薇は、僕よりずっと美しいのですから」
手についている軟膏を拭き取り、ソルセリルはニルチェニアの寝台の近くにあった椅子へと座る。窓の向こうを眺めて、アーチを飾る白薔薇に息を溢した。
春は好きではないのに、とソルセリルは真珠色の瞳で薔薇の上に広がる青い空を見る。これだけ良い天気の日に外に出たら、この子がすぐに肌を赤く焼いてしまうのも当然だと一人で納得した。自分が医者だからこそすぐに治療や手当ての類いもできるが、そうでなければ大事になってもおかしくはない。それがわからないほどこの子は馬鹿ではないはずなのに、と考えてから、だからこそかと納得した。
要するに、甘えられているわけだ。自分がいれば、ちょっとくらい冒険をしても助けて貰えるだろう――と、ニルチェニアは算段して行動を起こした、というわけである。賢いといえば賢いが、その賢さはどこかで使って貰いたいものだ、と日に焼けて赤い顔に視線を投げつけてしまう。
日に当たれば溶けてしまう雪のように儚い少女が、ソルセリルを見て優しく笑っていた。
「人の顔を見て笑う趣味でもあるのですか、ニルチェニア」
「……いいえ。叔父様がとても優しげに、外を見てらっしゃったから」
「優しい顔などしませんよ。君もよく分かっているでしょうに」
全く、とソルセリルは姪をじろりと睨む。姪が怖じ気づいた様子はなかった。かわりに、ふふ、と微笑まれた。ひどく優しく、はかなげに。
一般的には『ソルセリル・システリア』という人間は、“冷淡で、冷血で、思いやりの欠片もないような極悪非道の合理的主義者”――とも言われるくらい恐れられているのに、この姪だけはソルセリルのことを“優しい叔父”だと認識しているらしい。何がどうしたらそうなるのかと聞きたいところだが、ソルセリルにとって納得のいく答えは、きっと返ってこないだろう。この姪は、時おり理解不能であるとソルセリルは認識していた。全くもって、わからない。
小言を吐き出したいのをおさえて、ソルセリルは「昔のことを思い出したのですよ」とまた窓の外を見る。春の日に、白い薔薇が美しく咲いていた。
むかしのこと、と少女らしく可愛らしい声がソルセリルの言葉を繰り返した。
「叔父様の昔の話、聞いてみたいです」
「君が期待するような……大した話ではありませんが、君が大人しくここにいるというなら話しましょうか」
いつもの通りの無表情でそう口にしたソルセリルは、「ちょうど、僕が君くらいの歳の頃の話です」と切り出す。ゆっくりと語られた話に、ニルチェニアは淡い笑みを浮かべながら、初めて聞く叔父の昔話に耳を傾けた。
***
可愛いげの無い子どもだと言われるのはこれで何度目か、などとソルセリルは欠伸をする。次期当主に、などと言われてつれてこられた屋敷で、子供らしく振る舞うのなんてごめんだった。自分はしばらく、あのこぢんまりした家で過ごしていたかったのに。
こんなに華美なところに連れてくるから、ソルセリルの姉であったサーリャは家出してしまって帰ってこなかったのだ。姉は華美なものを好まなかった。どこまでも飾り気がなくて、簡単に言えば――凝ったコース料理より、ふかし芋を好むような性格だったから。つまるところ、どこまでも単純なものを好む人だった。
もう、十年は前のことだろう。家出をしたときの姉は今のソルセリルよりずっと幼かったが、あの破天荒な姉のことだ。今でもしぶとく生きているに違いない。
何せ、家出するにあたって、持ち出していったのが肉切りナイフと弓矢一式、それから丈夫なブーツと火打ち石なのだから恐れ入る。宝石やお金の類いではなく、限りなく実用的で実践的なものを姉は選んで出ていった。パンパンにふくれた道具袋を見て、狩りで生きていくんだろうなと確信したほどだ。
宝石を持ち出して換金したら足がつくのも把握済みだったということだろう。だから自力で生き残る道を選んだ。体力や実力があることを考慮すれば、最高に近い選択だと言える。ただ、名家の令嬢としては最悪の選択だった。とはいえ、型破りでも馬鹿ではないのだと、ソルセリルは姉に対する認識を改めることにした。
あのときの姉は、たしか十歳にも満たなかったはずで。
当時五歳にもなっていなかったソルセリルは“どうせ家の人間に連れ戻されるだろう”と姉のその逃避行に特に反対も賛成もしなかったのだが――出ていった姉は相当やり手だったらしい。
追いかけにいった使用人の誰もが、彼女の姿すら見ることが出来なかった、とソルセリルは聞いている。
その日の夜、「部族の人間はこれだから」と使用人達が声を荒げるのをソルセリルは聞いていたし、きっと一生忘れないだろう。自分の中に、古い昔の騎馬民族の血が流れているのを知ったのはその時だった。種違いの姉があんな行動を起こさなければ、一生知ることもなかっただろう。
「勝手なものですね」
母が存命だった頃は、“システリア家”の屋敷の奥まったところに有る別邸とでもいうべき家で育てられていたというのに、母が亡くなってからすぐにソルセリルは本邸へとその身を移された。いわく、母が産んだ他の子供は――『不適格』、だったらしい。『不適格』、つまりは家を継ぐのには向かない、ということらしかったが、何をもって『向かない』としたのか、ソルセリルにはわからない。
ソルセリルも、当主に選ばれようがどうなろうが、本当はどうでもよかった。ソルセリルがしたいことは知識欲を満たすことで、それ以外はどうなろうと知ったことではなかった。
ただ、ソルセリルが次期当主になると決まったとたんに手のひらを翻したまわりにはうんざりしたし、そういう人間が四六時中近くにいるのも苦痛だった。
とはいえ、姉のように外に出ていく気にもなれなかった。姉の時とは違い、逃げられないことを確信していたからだ。
ぼんやりと、窓の外を見つめる。美しく咲く花の茂みが広い庭園に広がっていた。花の名前などろくに知りはしないし興味もないが、咲いている花が綺麗なことはよくわかる。姉が気に入っていたのは、確か――。
(菫だったか)
どうしようもなく型破りで掟破りな性格をしているくせに、好む花は可愛らしくて、小さいものだった。春に綻ぶように咲く紫色のその花が好きなのだと、遠い記憶のなかで姉はいう。“最高に生きていると思わない?”そうやって笑う姉の姿は、今は少しおぼろげだ。
「……こんな大袈裟な庭では、菫など」
銀色のアーチには咲く前の蔓薔薇が絡み付いていて、その青い葉をてらりと太陽にさらしている。ここに咲く花の全てが美しく、けれど豪奢すぎるのをソルセリルはしっていた。
こんな庭では、菫が咲こうとすぐに引き抜かれておしまいだ。美しく、豪華であるべき公爵家の庭に、道端にも咲くような花が混じっているのを嫌う人間は多い。一点の隙もなく、美しく、気高くあれ――ということだろうか。花はどんな形をとっていようと、花であることに変わりはないはずだけれど。
(だとすれば……なるほど、僕は)
完璧を求めるこの家には相応しいのかもしれないな、と自虐的な笑みを浮かべた。
周囲の評価としては――ソルセリルは概ね、『出来すぎた子供』だろう。家から出ることもあまり許されなかったことがあるから、暇潰しのために読みふけった本のせいでそこらの大人にも負けない程度の知識はあった。斜に構えているとは自分でも思うけれど。
本来ならば子供が持ち得ない落ち着きぶり、冷静さ、知識と頭脳が同居した結果――『ソルセリル』という人間ができてしまったのだ。
大人はそれを美徳だと誉めちぎったが、そんな子供を「糞めんどくせえガキ」、あるいは「つまんねえやつ」と評するものもいて――ソルセリルとしては、大多数の賞賛よりそちらの評価の方が気にいっていた。これほどまでに自分をこき下ろす言葉を使うなんて、そちらのほうが美辞麗句より面白い。
どれ程美しかろうと、『作られた時点で歪である』ということを理解するものは、この屋敷のなかにはいないのだろう。まともでない子供が大人になったところで、『まともな大人』になるとは限らないし、そんな子供を『素晴らしい!』と誉めそやす大人の気持ちは理解できなかった。
何かをする気にもなれずに、ぼんやりと窓の外を見つめる。相変わらず、豪華で美しい庭だった。
しばらく見つめた窓の外。うっすらと硝子に人の姿がうつったのを見つけて、ソルセリルは庭から硝子に映った人間の方へと意識を移す。ああ、と一人で頷く。なるほど、噂話をすればその本人が現れるというのは本当らしい。噂話をする相手なんていまのソルセリルにはいないも同然だったけれど。
ほうき星の尾のような、銀色の髪は背中でひとつに結われ、右肩に垂れている。結った髪の根本に、飾りとして結ばれた藤色のリボンは、男の見た目に優雅さを足すのに一役買っている。泉のように青い瞳をもったその男は、ソルセリルのよく知っている男だった。
「相変わらず辛気臭い面してんなァ。お前、きっと今……世界で一番つまらねえ顔をしたクソガキだと思うぜ?」
「それはどうも」
ソルセリルをクソガキ扱いする、珍しい人間。職業は一応商人だけれど、その見た目は貴族の青年と大差ない。中身はといえば、ある意味商人より俗っぽいが。
「黄昏てんの?」
「入室の際にはノックをしてください、と何度伝えれば良いのですか」
扉をノックすることもなく入ってきた客人に、ソルセリルはそちらをみることなく返す。勝手知ったるなんとやら、とでもいうように無礼な客人は長椅子へとだらしなく腰かけて、適当に茶を淹れ始めた。
「うわ、冷めきってる。……飲まねえのかよ、ソルセリルお坊ちゃん」
「冷めた紅茶を僕が飲むとでも? 第一、何が入っているかわかったものじゃないのですよ。用意した飲み物に毒を混入させるなんてよくある手です」
「さすが、次期当主は敵も多いねえ。……冷めてもうまいぞ、これ。何てったって俺が直接買い付けた茶葉だからな」
「人の話を聞きなさい。……それから、僕のカップから飲まないでもらえませんか」
「悪いな、手遅れだ」
「……そのカップはあとで割ることに致しましょう」
「ひでえなァ」
冷めると色が悪くなるのが良くねえな、と呟いた客人は、いまだに窓の外を見続けているソルセリルに「庭に美人でもいるか?」と軽く口にした。
「相変わらず軽薄ですね、ミシェル殿。その様子を見ると毒は入っていなかったようですが?」
「重ッ苦しいよりましだろ、ソルセリル。そんな残念そうな顔をするなよ」
やっと振り返ったソルセリルに、無礼な客人は「ガキの癖に辛気臭い面してんじゃねえよ」とティーカップを少し持ち上げて笑う。笑うこともなく平淡な真珠色の瞳を向けたソルセリルに、ミシェルの泉のような青い瞳がにやにやと笑い返した。
「最近、新しい庭師の子が入ったって話だろ?」
「よく知っていますね」
「もちろん。前の庭師の孫娘と聞いたけど、可愛い子か? 暇なときにお茶にでも誘おうかな」
「相手が迷惑しますからお止めなさい」
「酷い言いようだなァ」
ただのお茶目だっての、と軽薄な笑みをしまうことなく、ミシェルは冷めた紅茶を口に含みながら、「そういえば」と話を切り替える。
「この辺りで流行り病が蔓延してるとかって話を聞いたが……平気なのか? ここからそう遠くない村なんか、ほぼ全滅だって聞いたけど」
「……原因不明、というのが不気味ですね。魔女の呪いだという話も耳に入ります」
「魔女なあ……」
なんとも言えない生返事をして、ミシェルは冷めた紅茶をまた一口すする。
「“三日三晩熱にうなされ、死ぬ間際には幸せな夢を見て逝く”――とかって状態らしいぜ、その“流行り病”」
「三日三晩もうなされて幸せも何もあったものじゃないでしょうに」
「ごもっとも」
ろくなもんじゃねえなとミシェルは呟いて、「用心しろよ」と口にする。
「次期当主に指名されたって言っても、お前のことを疎ましく思ってるやつはまだいるんだろ。……この期に乗じて殺されたりしたら、お前も“流行り病”のせいにされちまって終わるんだろうな。くれぐれも気を付けろよ」
「僕が幸せな夢を見るように見えますか?」
「ねえな」
仏頂面を通り越して無表情なソルセリルに、確かにそれはないなとミシェルは何度も頷く。ソルセリルとしても、相変わらず失礼ですねと無表情のまま嫌みを言う他なかった。そこまで納得しなくてもよいでしょうに、と。
「恋でもすれば良いんじゃねえの。恋ってのはすげえぞ。いままでの自分なんか一瞬で殺せちまう。たまにはガキらしく生きたって良いんだぜ、ソルセリル」
「そんなものにかまけている暇はありませんよ」
真珠色の瞳をすっと細めて、ソルセリルはミシェルの瞳を見据える。つまんねえやつ、と青い瞳の優男はけらけらと笑った。
***
「……ふふ。ミシェル様はその頃からずっと叔父様のそばにいらっしゃったのですね。今と、お変わりなく」
いまやシステリア家公認の商人として色々なところを渡り歩いているミシェルのことは、ニルチェニアもよく知っている。亡くなってしまったニルチェニアの両親とも仲はよかったし、ニルチェニアに絵本を持ってきたこともあった。やれ飴だのクッキーだのとお菓子をやたら持ってきたこともあったと思う。気の良い青年といった印象の彼は、ニルチェニアが小さな子供からたおやかな令嬢に育っても、いまだに若々しい見た目のまま、世界を渡り歩いている。何故、若いままなのかニルチェニアは知らない。ただ、ミシェルとはそういう人なのだということだけはしっている。
「ええ。彼は僕が子供であったときからあのままですよ。……これからもそうであり続けるでしょうね」
「不思議な感じですね。空が青くなくなっても、神様がいなくなっても、私がいなくなっても、ミシェルさんはずっとこの世界にいるのかしら。それくらい、不思議な方」
「……ニルチェニア」
声を落としたソルセリルに、ニルチェニアは「ごめんなさい」と口にする。それが冗談にならないことを、ニルチェニア自身がよくわかっているはずなのに。
「ごめんなさい、叔父様。……その、わたしは……」
「分かっています。悲しませるつもりでいったわけではないということくらい。ですがニルチェニア、そうやって自分の命に期限をつけるようなことをしないように。君に治る気がないのなら、ずっとこのままですよ」
「……そう、ですね」
病弱そうな見た目に違わず、ニルチェニアの体は年月を経るごとに徐々に弱くなっていく。それを知っていて外に出たのだろうか、とソルセリルは冷たい姪の手を握った。死人よりはましだろう。けれど、生きているというには冷たすぎる。
――もう、この期を逃したら外に出ることも叶わないと悟ったのだろうか。悟られてしまったのだろうか。
柔らかい手のひらは、驚いたようにソルセリルの手を握り返す。叔父様、と呟いた唇に「おまじないですよ」と小さく返した。
「サーリャが……君の母が、君が寝込むたびにしていたのを、覚えていますか。早く善くなるおまじない。手を握られて眠った翌日は、君の体調は良くなっていたでしょう」
「叔父様がおまじないだなんて。効き目がありそうですね」
「……僕のまじないはよく効きますよ。だから、君はよくなることだけを考えて養生なさい」
ふふ、と小さく笑ったニルチェニアの「はい」という素直な声が返る。良い子ですね、と小さな頭を撫でた。
「叔父様、もう少しお話を聞かせて。……私が眠るまで、叔父様の声を聞きたいのです」
「仕方のない子ですね」
春とはいえ、まだほんのりと寒さの残る頃だ。まるで冬がしぶとく居座り続けているような、そんなの冬の陰湿さと春の陽気さが同居する、居心地の悪い季節だ。
春は好きではなくて、冬は嫌いだ。
けれど、ソルセリルが思っているよりずっと早くに冬はくるし――春は過ぎ去っていく。出会いの季節が春だと言うなら、別れの季節もまた春だろう。冬は眠りについて、春は眠りについたものに別れを告げる季節だ。別れを惜しむ間もなく過ぎ去る季節を、幾度繰り返したのだろう。
***
ソルセリルがそれに気づいたのは、珍しくよく晴れた日のことだった。何の気なしに外へと目を向けたところで、庭の白薔薇の元で人影が何やら動いているのに気がついた。そういえば新しく庭師が来たのだったか、と眼下の人影を見つめる。
麦わらで編まれたらしい帽子はまだ新しさが残っていて、けれど軍手には土がこびりついている。大地のような焦げ茶の髪を背中で一本の太い三つ編みにした少女がそこにいた。自分と同じくらいの年だろうか。そんな少女にこの大きな屋敷の庭師なんて勤まるのだろうか、と一瞬考えた。
庭師と言えば当然力仕事はついて回るものだし、年頃の娘ならばやりたいなどとは言わない職業だ。花にまつわる仕事には女性の姿は付き物だけれど、庭師だけは違う。先代庭師の孫娘との話だったが、と小さな背中を見つめた。まだ頼りなさが残るな、と漠然と思った。先代の庭師は腰を痛め、それに伴って身を引いたらしいが――はてさて、この娘に代わりが勤まるのかどうか。
白薔薇の植え込みの近くをちょこちょこと動きながら、麦わら帽子は薔薇の花を一つ一つ覗き混むように白い花びらに触れている。その足元に菫が咲いているのを見て、おや、とソルセリルは
すこしだけ目を見開いた。この時期に菫が咲くのはすこし珍しいし、なにより咲いたままで手をつけられていないと言うのが驚きだ。普通なら引っこ抜いてしまわれるというのに。
「奇妙な庭師だ」
あれだけ近くにいながら、菫に気がつかないということはないだろう。顔を見てやろうとしばらくソルセリルはその姿を追っていたのだが――麦わら帽子がこんなにも邪魔に感じるとは思わなかった。
***
「まあ。……女の子が庭師でいらしたの?」
「女の子……といっても君よりは年上でしたけれどね。昔の話ですよ」
「今は男性ですものね」
窓の外を見ながら、ニルチェニアはおっとりと呟く。柔らかい微笑みを向けながら彼女が見ていたのは、土で汚れたシャツを纏いながらもどこか楽しそうな今の庭師だ。筋骨隆々、という言葉がぴったりとくる青年は、怖そうな見た目に反して案外繊細なのをソルセリルは知っている。
「叔父様は花がお好きなのね」
ふと、思い出したように紡がれたそれに「実験用としてはなかなかだと評価しています」とソルセリルは間髪入れずに返す。うそつき、とニルチェニアはくすくすと笑った。
「僕は嘘をつけません」
「それでも、叔父さまはうそつきだわ」
自覚がおありでないのがとっても困るの、とニルチェニアはおっとりとした微笑を浮かべた。自分の姉にそっくりな顔の姪に、「口達者なことで」とソルセリルは肩をすくめる。あの姉はこんな風に笑ったりはしなかった、と少し懐かしくなりながら。
「ねえ、叔父様。……その庭師の方は、いったいどんな方だったのかしら」
「どんな、とは……」
「笑った顔が素敵、とか。……花をとても愛していたとか」
「さあ……。僕が覚えているのは、彼女の手がひどく……女性らしくなかったことくらいでしょうか。後ろ姿は朧気に頭に思い浮かべられますが、顔も覚えてはいませんよ。何故だかは分かりませんが」
マメとささくればかりだったように思います、と銀髪の男は簡素にまとめた。
覚えているのは本当に一部だけで、はっきりと確かに脳裏に思い浮かべられるのは、彼女の手のことだけだった。軍手をはめて肥料を運ぶ姿も、大きなじょうろを持つ姿も。最期に彼女を見たとき、軍手に隠されていたその手のひらが、実はとても女性とは思えないくらいに固かったこと、ささくれが多かったことをソルセリルは覚えている。ひどく冷たく、悲しい手のひらだった。
「……叔父様はその方のこと、とても」
「とても?」
「ふふ。なんでもありませんわ。手のひらだけ覚えていて、顔を覚えていない理由、私にはわかりました」
「ほう?」
それは、とたずねたソルセリルに、ニルチェニアはいたずらっぽく微笑んだ。
「次の春が来るまで、秘密です」
次の春が来てもわからなかったら、とニルチェニアはすみれ色の瞳を柔らかく細めて、小さな唇でそっと囁いた。
「そのときは私の話を、叔父様に聞かせて差し上げますわ」
「それは、それは。次の春が来るのが楽しみですね」
にっこりと笑ったニルチェニアの頭を撫でて、得意気な姪の顔にソルセリルは珍しく微笑んだ。
その年。春を待つことなく、菫色の瞳を持った一人の少女は冬に枯れた。