-6-
――薄暗い明かりの部屋に、俺は座っていた。
タバコと、甘ったるい香水の匂いに満ちた四畳半ほどの小さな部屋。
正面の入り口は重厚で重く、荘厳な装飾が施されている。
その身にはパリっとした高そうな燕尾服。
こういうのは俺の趣味ではないが、此処で働く制服として『上』から与えられたものだ。
――待ってくれ、それを持っていかないでくれ!
目の前の男が、俺の足に縋り付いて必死の形相で請う。
俺は何も言わず、2cmほどの厚さの札束を黒いトレイに載せて傍らの男へと手渡した。
事務的な慣れた手つきで行われる動作。
いつも、やって来た事だ。
――頼む、それは娘の進学のために取っておいた最後の金なんだ!
返事の無い俺に対し、男は相変わらずその行為を繰り返した。
そうしたからと言ってこの金が返る事はあり得ない、それはおそらくこの男も知っている。
が……それでも、おそらく一心に抱えている罪悪感と共に、男は地面に額を擦り付ける。
ただ、その男の必死の願いすらも俺は『いつもの事のように』気にせず、黙々と目の前のテーブルに広げられたカードを回収し、整える。
集めたカードはケースに戻し、そのままゴミ箱へと放り込むと静かに腰掛けていた椅子から立ち上がる。
これで今日の仕事も終わった。後は帰って熱いシャワーを浴びて、寝るだけ。
また『次』に呼ばれる時まで、今日の報酬で自堕落な生活が待っている。
――私と違って、優しい真面目な娘なんだ! 教師になるのが夢で……そりゃ、試験の成績はあまり良くないが、思いやりや優しさを教えられる素晴らしい教師になるハズなんだ!
そう引く気の無い男へ俺はようやく向き直ると、得意の台詞をその頭上へ浴びせかけた。
――なら、オッサンの弱さがその子の夢を奪ったんだ。
そう言ってしまえば、どんなに熱弁かます大人であろうと一瞬でその口を閉じる。
男も今までのヤツらと同じように俺の言葉をハッと受け止めると、それ以上は何も言わずにただ床に蹲って嗚咽を漏らし続けた。
誰だって変わらない。攻める相手を失えば、ただ嘆くことしかできない。
自分の弱さに、愚かさに、そして取り返しの付かない失敗に。
そんな人間を、俺は幾度と無く目にして来たのだ――
――その日の目覚めは史上類を見ない最悪さだった。
まず起きて早々感じたのは体の圧迫感。
確か、ベッドに倒れ伏して布団も掛けずに寝ていたような気がするが……起きたら思いっきり布団に包まっていた。
とりあえず寝汗も凄いし布団を剥ぎたかったのだが……今度は体が動かない。
低血圧で寝ぼけ気味の頭で何とか状況を理解しようと周囲を見渡すと、自身の体に目が留まる。
見ると、荷造り用のロープげ綺麗にぐるぐる巻きにされていた。
布団で簀巻きにされた状況から顔だけ出している姿。
我ながらなんともみっとも無い。
「おい」
部屋に声を掛けてみる。
が……返事は無い。
「ルルナちゃ~ん?」
……罵倒の一つも飛んでこない。
これは本格的に部屋に居ないのか……困った。
窓の外からは日差しが差し込んでいる。時刻は分からないが昼まで寝ていたのだろう。
いや、そもそも昨日はまだ明るいうちに床に着いた記憶があるのでそもそも夜があるのかも分からないが。
熱い……困った。
不意に、夢に見たタバコの匂いがはっきりと鼻腔に思い起こされる。
タバコ……吸いたいな。
その時、カチリと鍵が外されるような音と一緒に玄関のドアが開けられたような音が鳴り響いた。
同時にヘタクソな鼻歌とガサガサと何かビニール袋のようなものが摩れる音。
「ふんふん……あ、起きたんだ」
そう言ってようやく部屋へと入ってきたのはおそらく俺をこうした犯人であり、早い所この状況から解放してくれる事を待ち望んだ死世界の同居人であった。
「ごめんねー、熱いでしょ。でも約束だからしっかり縛らせて貰ったわよ。先に寝たからと言って安心できたもんじゃないものね」
言いながら彼女は俺を縛る紐の結び目を解こうとその手を伸ばす。
「あっれ……解けない。強く結び過ぎたかな?」
「出かけるなら、その前に解いてくれても良いんじゃないか?」
「だって、起こしちゃったら悪いじゃない。せっかく気持ち良さそうに寝てる人を」
縛り付ける際は寸分も思わなかったのだろうか。
事実、目が覚めた事は無かったが。
「いいや、めんどいし切っちゃお」
言いながら裁ちハサミを紐へと入れるルルナ。
「あっ……ごめん、布団も少し切っちゃった」
「どうでも良いから、早く解いてくれ。何重にも巻かれすぎて緩めてもらわにゃ自分でも解けない」
「はいはい」
そうして、ようやく俺は布団から解放されたのだった。
ひとまず寝汗が酷いのでシャワーを浴びる。
トイレ一体型のユニットバス。おそらく湯を張ることは無いだろう。
このタイプの風呂は片方がシャワーを浴びている時に片方がトイレに行きたくなったらどうするのだろうとホテルに泊まった際に良く思うものだが、まあその実我慢するしか無いのだろう。
シャワーを浴びている横で用を足す音を響かされても困る。
そんなくだらない事を考えながら風呂から上がると、ようやくさっぱりとした清々しい空気を肌に感じる事ができた。
風呂場を出ると、香ばしい香りが当たり一面に広まっている。
同時に、昨日から何も口にしていない身体が反射的に反応を示す。
間違いない、食い物の匂いだ。
「上がった? ちょっと待ってて、もうちょっとでできるから」
そう言うルルナはエプロン姿で台所に立ち、慣れた手つきでフライパンを振るう。
中ではパチパチと油に焼かれながら色とりどりの野菜が踊っていた。
――いただきます!
ちゃぶ台に並べられた食事。
白い米に豆腐の味噌汁、野菜炒め。添え物にほうれん草のお浸し。
とても家庭的な一食のメニュー。
「肉高かったから、とりあえず野菜だけにしてみたの。これからどうなるのか全く想像もできないのに無駄使いするのもアレだし。豆腐はそこまででも無かったからタンパク源はそれで我慢してよね」
言いながらズズズと汁を啜るルルナ。
俺は茶碗と箸片手に硬直するようにその場で動けずに居た。
「何、どうしたの? 嫌いなものでも入ってた? それくらい、大人なんだから我慢しなさいよね」
いや、そう言うわけではなく。
「家事……ってか、料理できたんだな」
「何それどういう意味!?」
お玉が頭目掛けて飛んできた。語呂は良いがシャレじゃない。
「ちなみに脱いだ服、投げっぱなしになってたのを洗濯機にぶち込んでるから。終わったら自分で干してよね!」
しかも細かい所に気が利く。
「これが、女子力か……」
やばい、なんか感動した。
本物の女子力を見た気がする。
「はぁ!? そんなんちょっと家庭的ですアピールして男引っ掛けたい女共が言ってる幻想よ。こういうのは女子力じゃなく生活力って言うんですー。出来て当たり前、出来ない方がアホなんですー」
何か、凄く正論を言われた気がする。
これがムカつくことに。
「ソレより早く食べてよね。せっかくのごはん冷めちゃうじゃない」
「ああ、そうだな。いただきます」
そう、柄にも無く目の前の食事に手を合わせて口にする。
いただきますなんて久しぶりに言った気がする。だがソレくらいになんだかこの料理がありがたく、輝いて見えた。
「……ちょっと塩気薄いな」
ありがたいからこそ出てしまった小さな不安に、塩胡椒の入った容器が投げつけられたのは言うまでも無い。
「――ふう、ごちそうさん。久しぶりに店以外の手料理食ったよ」
「はい、お粗末様」
それから黙々と食事を終えて、再び手を合わせて感謝を示しておいた。
「店以外久しぶりって、普段どんな食生活してるのよ?」
「コンビニとか、スーパーの惣菜とか」
「うわっ、お金勿体ない」
「一人暮らしだと食材買た方が逆に高くつくんだぞ」
「そうなの? 私は一人暮らしした事無いから分からないけど」
俺流『暮らしの雑学』に疑いの表情で答えるルルナ。
いや、本当なんだがな……でも半分面倒だからと言うのは黙っておく。
「でも、身体には悪いでしょ。添加物とかいっぱいよ、きっと」
「かもな。でも死にやしない」
「幽霊がそう言っても全く説得力無いんだけど……」
言いながら、彼女は皿を纏めて流しへと持ってゆく。
なんというか、自分から持っていく辺り本当に手馴れてるな。
「生前は彼氏と同棲でもしてたのか?」
「バ――ッ!」
素っ頓狂な声と共に、流しでガシャリと食器を取り落とす音が聞こえた。
「割れてないか? 無駄な出費は避けたいんだが」
「じゃあ、変なこと聞かないでよ!?」
台所から何か白いものが飛んでくる。
流石に距離もあるので悠々と避けてみせたが、しゃもじだった。
「家で、私が家事当番だったの! それだけ! 文句ある!?」
「いや、取り立てては」
「なら良し! この話はおしまいっ!」
なんだか妙に突っかかるのが気になるが……藪は突かずにおこう。
昨夜の話題は突いてほしそうにしていたものだが。
食事を終えると唐突にやることが無くなってしまった。
洗い物をしているルルナの背中を見つめるのもつまらないし、唯一干せと言われた洗濯物もまだゴウンゴウンと音を鳴らして回っている。
なんだろう……非常に癪だが、日曜日のお父さんの気分。
何故か何も考えずにテレビのリモコンに手が伸びてしまうのも、仕方のない事なのだろう。
なんとも成しにチャンネルを回す。
見る訳でもなくそれとなく流しているだけだが、こうしてテレビ番組を眺めている空気はとても現実味がある。
番組も生前のそれに非常によく似ているし。
ただ放送局名が『レンゴクTV』だの『レンゴク放送局』だの『レンゴク放送協会』だの、そんな些細な部分で本来の現実に引き戻されるのがなんとも勿体無い。
【それでは次のニュースです。無職の佐々木次郎さん享年38歳がテンシに勝負を挑み、負けました。以上、お昼のトップニュースでした】
「もっとまともなニュースは無いのか」
思わず声に出てしまう。
誰かが勝負に負けたとか非常にどうでもいい。むしろ逐一放送されるのか、と呆れもする。
昨日のあのフード野郎との勝負も報道されたのだろうか……そう思うと、少々気味が悪い。
【最後に今日午前中の生還者を振り返ってみましょう】
生還者……?
聞きなれないワードに、俺は思わずブラウン管に視線を戻した。
【午前中の生還者は田沼礼二、美智子ご夫妻です。ご夫婦はお二人で協力し、時に苦しい中励まし合いながら地道に罪の清算を成し遂げ、無事生還いたしました。皆さんも是非、お二人を見習って励んでくださいね。以上、お昼のニュースでした】
生還――すなわち、生き返ったと言うことか?
罪を全額返済し、元の世界へと。
帰れる……生き返れる。
ドクリと、心臓が高鳴るのを感じた。
同時に死んだ瞬間の光景が頭の中にフラッシュバックする。
目のくらむヘッドライト。
運転手の顔は見ていない、が、おそらく大したこと無いヤツだろう。
運転中に居眠りして歩道に突っ込んで来るような、その程度のヤツ。
そんなヤツに俺の人生は奪われた。
20数年の人生を。
無性に、悔しさのような憤りがこみ上げてくる。
今までそのあっけなさに何も感じることなど無かったのに。
つまらない毎日ではあるが、死んでいるとなると話は別だ。
命なければつまらない日常すらそこには無い。
このヘンテコリンな世界も悪くは無いが、それでもまだ自分の記憶の中にこびりついた現実は『あちら側』だ。
その事実は変えられない。
そう思うと不意に、謂れの無い焦燥感のようなものが腹の奥からこみ上げてくる。
早く、罪を清算しなければ。
早く、元の世界へ生き返らなければ。
この世界に来てから今まで一度も感じたことも無い、元の世界への渇望が一気に押し寄せてくる。
――必要なら、チャンスをあげてもいいよ?
不意に、昨日のフード野郎の言葉が頭の中で木霊した。
上着のポケットから、黒い名刺を取り出す。
そこには店のアドレスと――『挑戦権』の手書き文字。
――1ゲーム、BET最大『20000』は難くないよ?
我ながら愚かだと思う。
そやって賭け事に溺れて浮かぶ藁をも掴み損ねた人間を、生前はどれだけ馬鹿にして来た事だろう。
だが、1月1900ペケ?
時給9ペケ?
そんなものよりももっと美味しい話の招待状が、いま目の前にあるのだ。
正直よく出来た話だと思う。あの時のヤツの言い草、表情(口元しか見えなかったが)、すべてが『俺をカモにする』と物語っていた。
それでも生還の焦燥に意識を支配された俺は上着を引っつかみ、六畳間からその身を乗り出す。
「あ……ちょっとアンタどこ行くのよ! 洗濯物は!?」
後ろでルルナが静止するのも聞かずに、俺は部屋を飛び出していた。