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――“死”。
それは人種、種族、はたまた動植物の垣根も越えて、誰も逃れることの出来ない唯一普遍の真理である。
生きとし生けるモノは全て平等に必ず“死”を向かえ、その命を大地へと返してゆく。
人は常に“死”に怯え、時に立ち向かい、時に寄り添って生きている。
“死”の運命から逃れることの出来る存在はおらず、そのため不老不死や人工冬眠という手段を知恵ある人が求め始める事は何の不思議も無い事だ。
共に古来より多くの逸話・伝説が存在し、どれだけ人間が“死”というものを身近に感じているのかが見て取れる。
身近な“死”と言えば、宗教というものも本来は生物の“死”から発生したものであり、それらは深く生活に根付いている。
宗教は“死”そのものに理由や“死”によってその実に何が起こるのかを人々へと示した。
共に決して学術的な根拠のあるものでは無い。
それでも理解しがたく、そして謎多い“死”というものに対する恐怖が少しでも和らぐよう、広く人々の心へと訴えていた。
そうしてその実、“死”は人々にとってある程度受け入れられる存在となっていた。
――それでも、人は一重に“死”を恐怖する。
受け入れることと恐怖とはまた別の事柄である。受け入れているからこそ恐怖し、そして今の生を実感する。
『人は死ぬ為に生きている』という哲学もこの世の中にも存在するが、いくら宗教によって“死”について雄弁に語られたとしても、到底自ら知覚する事のできる存在では無い“死”を、人は本能的に恐怖しているのだろう。
――それでも、人は死ぬ。
どれだけ恐怖しても、理屈をこねても、人は“死”ぬ。
それが普遍の真理である限り、決してその結末が捻じ曲げられる事は無い。
では、そうして結末を迎えた人間は果たしてどうなってしまうのか。
仮に宗教的にこの世に神若しくはそれに等しい装置が存在し、死者の魂を選別し天国なり地獄なりに送っているのだとしたら、その装置はなんとハードスケジュールな日々を送っている事だろうか。
今この瞬間にも世界のどこかで人が“死”んでいる。
それは寿命であったり、病気であったり、戦争の犠牲であったり……理由は様々あるだろう。
そんな死者の魂は常に神の下を訪れ、装置からの審判を受ける。
おそらく審判はその者の生前の善行、悪行、境遇それぞれを加味し決めるものであるが、3テラバイト以上はあると言われる人間の記憶全てを振り返り、決を下すという行為は仮にその装置が人知を超えた情報解析力と処理能力を持っているものとしても生半可な仕事では無いだろう。
少なくとも、俺は嫌だ。
解析能力も処理能力もあくまで人並みであることを自負する俺からすればそんなムダな仕事はしたくない。
そもそも善行と悪行を加味した時点でそこに情状酌量の余地が出てくることは明白。
どんな宗教をとってしても機械的に判断する神は存在せず、その全てが基本的には慈愛に満ちている。
そんなヤツらが行う判断なんて正直な話、基準ががぶれぶれに決まっている。
停学常連のヤンキーが雨の日に道端に捨てられている子犬を拾ったからそれまでの評価が一変――あまりにナンセンス。
会社に従順で業績もそこそこだった社員がたった一度の失敗からリストラ候補に――あまりに馬鹿げている。
俺ならもっと機械的に、より数値化された判断を望む。
例えば会社員の話なら、それまでの会社への従順さと業績が合わせて100ポイント。それに対して犯してしまった失態がマイナス150ポイントのものであったならばクビになっても文句は言えない。
しかしそれがマイナス50ポイント程度のものであったとしたら……リストラはあまりに不条理だ。
誰の目から見てもそう判断できる。
そう、人生の採点とはそうあるべきなのだ。
誰の目から見ても納得の出来る数値化された人生。
そうであるならば地獄への片道切符であろうが、天国への招待状であろうが、俺は喜んで受け取ろう。
頑張ったヤツは高得点、そうでないヤツは赤点。
学生時代のテストがそうであるように、人生にも採点が必要なのだ。