Episode-2-3
キッチン用のミトンを装着して、震えながら鍋を運ぶ月森を見た時は思わず心配してしまった。
だが、ゆっくりとガスコンロの上に着陸した鍋を見て、俺とフランは拍手で出迎えた。
人数分の小皿と箸を用意し、対面に座る月森と同時に手を合わせる。
「おし、いただきま~す」
「……いただきます」
ぐつぐつと湯を沸かせている鍋に、俺は遊園地の乗り物を眺めるような気分で目を泳がせた。
白菜、豆腐、きのこ、鶏肉、その他色々な具材が熱湯風呂でバカンスを堪能している。
迷い箸はいけないと思いつつも、極上の庭園に用意された豪華食材に、どう箸を運んで行けば良いのか見当もつかない。
俺の戸惑いから来た行動だったが、どうもそれが月森の琴線に触れたらしい。
「……ヒカル様に喜んでもらえたようで、良かった」
満面の笑みで、優しい言葉をかけてくる。
何度も見ていると、月森が頬まで染めて喜ぶのはとてもレアなことだと分かる。
よっぽど嬉しかったらしい。そこまで可愛い顔されたら、さすがの俺も燃えあがるぜ!
緊張感の解けた俺は、その勢いで思うままに食指を動かし始めた。
「うん、美味い! 月森、お前ってすごく料理上手だよ!」
鍋だと言うのに、俺は世紀の料理人こと月森ユイを褒め称えずにはいられない。たかが鍋、されど鍋。人が視覚的に楽しめる料理を作ることも、一流の証だと思う。
俺は鶏肉を捕まえて、ぱくっと口に放り込む……テンダー。とてもデリシャスでございます。噛んだ瞬間に口の中に広がるあっさりした肉汁と、柔らかい肉厚が俺の舌をすこぶる責めるいたぶる。
美味しすぎて頬が零れ落ちそうだ。
「…………ヒカル様のせいで、食事が喉を通らない」
「え、何か言ったか?」
小声で呟いた月森は、さっきよりも頬を蒸気させている。熱いまま口に放り込んだのか?
「やれやれ、難聴スキルに鈍感スキルまで持っておるとは……優秀なハンターじゃのう」
「何だよそれ、俺に言ってるのか?」
たまにフランは良く分からないことを口にするよな。
「その方が都合良い時もあるじゃろうて。余り気にするな少年」
「はぁ」
何だか、始まる前に一本取られたような気分だ。
フランと談笑を交えつつ、俺と月森は鍋をつつく。月森に対する数少ない話題も減り始めた頃、フランがそっと口を開いた。
「──さて、そろそろ本題に入るかの」
遂に来たか。俺は身をぎゅっと引き締める。
「まずは何から話したら良いかのう。ヒカルよ、聞いておきたいことはあるか?」
「そうだな……」
凌真の行方、魂のことなど個人的に聞きたいことはあったが、まずはミルフォード家のことを聞いてみよう。俺は決心を固めた。
「……ミルフォード家について教えてくれ。一体、三百年前に何があったんだ?」
「うむ、そうじゃの……そうでなければ、お主にも筋を通せんからの」
少しの間が空く。フランが呼吸を整えて神妙に語り始めた。
「わしが生前暮らしていた頃のミルフォード家は、それはもう豊かな家庭じゃった。何不自由なく、親子揃った理想的な関係……その時は誰一人として平和を疑う者などおらんかったよ」
静寂の満ちる空気を、鍋から響く沸騰音が緩和する。
「父上がカトリックで母上がプロテスタントを信仰しておっての。妙なところで意見の食い違いなどはあったが、それ以上に夫婦仲は自他共に認める良いものじゃった。一時期はわしのクリスチャンネームで散々揉めたりしとったがのう」
「クリスチャンネーム?」
「カトリックの洗礼名のことじゃ。入信する際に聖書や聖人から名前を頂くという感じじゃな。わしが将来カトリックへ入信する段取りで、父上は話を進めておった」
「ふ~ん」
箸で最後の豆腐を掴む。月森に少し残念そうな顔をされた。好きだったんだろうか。
「それで、フランはどんな名前を与えられる予定だったんだ?」
「父上がずっと『マリア』が良いと言うておっての」
「ぷっ!」
こいつが、マリアねえ。
「ぬぐぐ、笑いおったな……。ふん、どうせわしには、そんな大層な名前は似合わぬよ!」
ふて腐れてそっぽを向いてしまったフランに、悪いと一声。
大人しく機嫌を直してくれて、会話が続く。
「んまぁ、母上はもっと自由奔放な生き方をさせてあげたいと言っていたので、大人になって自分の意思でどうするか決めて欲しいと仰っていたのう」
「自由奔放……つまり、フランは母親似なんだな」
「そうじゃな。わしとしても、カトリックよりはどちらかと言えばプロテスタントに入信する方が良い。まぁ、この話は一生叶わなかったがのう」
「その、俺には二つの違いが良く分からないんだが、同じキリスト教じゃないのか?」
俺がそう質問をすると、フランは食事を摂る月森の背中に抱きついた。
「一般人から見れば、全くもって大差はないのう。教皇を中心として個人崇拝も行われるのがカトリック。キリストのみを崇拝するのがプロテスタント。まぁ、わし的にはカトリックの処女を守るとか欲に縛られるとか、面倒な事柄は嫌いなのじゃ。人間、異性を好きになったら即シたいじゃろ?」
柳眉を震えさせて、フランは月森の胸を揉みしだくようにパントマイムする。
「ヒカル様、食事中失礼します」
「ああ」
箸をことりと置いて、月森が席をはずす。
俺は隣にやってきた月森に聖剣を渡した。そして、その場でこれといった抵抗もできずに粛清される哀れな貴族。フランの頭に二つ目のタンコブがにょっきりと顔をもたげた。
「で、その話がどう悲劇に繋がって行くんだよ」
ため息混じりに、床で往生する馬鹿一人を眺める。あ、起きた。すぐに復活したところを見ると、一応手加減はしてくれてたのかな。月森大明神様は大層に慈悲深いことで。
「……母上が病気で亡くなったのじゃ」
きのこを掴まえていた箸が、ぴたりと止まった。
「わしと母上を溺愛していた父上は、その日を境に性格が豹変した。職務を放棄し書斎に引き篭もるようになった。当時、わしはきっといつか、あの元気な父上が悲しみを乗り越えて戻って来るじゃろうと達観しておった。今思えば、何故もっと理解してやれなんだと嘆くばかりじゃが……」
「……で、どうなったんだ?」
「うむ、屋敷には古い書物や聖書の写本なども多くあったからの、父上は血眼になって読み漁っておった。カトリックでもプロテスタントでもない、もっと信じるべき真実の形がある、とか何とか独り言を呟いておった」
俺の内心に痛みが走る。誰だって愛する人がいなくなれば、何かを恨まずにはいられなくなる。俺だって、フランと月森が助けてくれなかったらと思うと、気が気じゃない。
「ゾロアスター教やグノーシス主義……色んな宗教を探し、答えを求め続けていた。喜びと悲しみ、生と死、幸福と不幸。結論は最終的に二元論に辿り着いた」
「二元論? 善と悪ってことか?」
フランは頷いた。
「マニ教というものがある。様々な宗教の価値観を詰め込んだ二元論教義を主とするものじゃ。光と闇、宇宙は物質と精神に分けられるという考えでな、人間にも肉体と魂の二つの要素があると考えられておるらしいのじゃ」
俺は直感的に理解した。
現代には、そういう歴史的背景を基にした創造物……フィクションがごまんと有り触れている。
つまり、フランの父親は……。
「……『魂の復活』。こうして口にすると、まともな発想では考えられんのう」
「本当に、そこにしかすがる道が無かったんだろうな」
「じゃが魂を呼び戻すには、それに伴う『肉』が必要になる。更には、それ自体を可能にする信仰すべき神の存在、そして触媒じゃな」
触媒……俺は椅子に立てかけられた聖剣を見た。
「聖剣と魔剣。この二つの物は、元々屋敷に眠っていたものじゃ。商人から買ったのか誰かに譲り受けたかは分からんがの。とにかく特殊な構造をしておって、不思議な力が宿っておる。まだ聖剣を使っていないとはいえ、お主も持った瞬間に理解したじゃろ?」
「ああ……」
俺は月森の方をちらと見て、聖剣を握る。
「これ、驚くほど『軽い』んだな……百グラムか二百グラムくらいしか無いんじゃないのか」
初めて月森に会ってから、ずっと違和感があった。俺が彼女のことを信じられなかった隠れた理由の一つは、きっとこれだろう。
この聖剣は重量がほとんどといって良いまでに存在しない。どういう材質で出来ているのか、少なくとも一般的に扱う鉄や銅、それこそ真鍮などとは無縁の位置にある。
例え模造刀、剣のレプリカだったとしても、ここまで軽量化されるなんてのは見たことない。
せいぜいあるとすれば、聖剣という名前の対象年齢六歳以下のような物品だろう。
ただの玩具だ。
だが、こいつは玩具なんかじゃない。一般人の俺が見ても、はっきりとしたオーラの存在を認識できる。だからこそ。
月森の力で、持っていられるワケがないんだ。
あと、俺には剣道の部活で得た経験から生まれた、もう一つ気がかりなことがあった。
「この聖剣さ、たまに重くなったり軽くなったりしないか?」
人によるかもしれないが、俺は竹刀をもっと自由自在に扱う為に自主的に筋力トレーニングを行っていた。細かい重さの是非は、手で握ればおおよそ把握できる。
それを聞いて、フランが感心した表情で言葉を返した。
「ほう、良く気がついたの。ヒカルよ、魂の重さというのは聞いたことがあるか?」
俺は今までの人生の中で読み漁った知識を総動員させる。
「ああ……確か、人が死んだ瞬間にふわっと軽くなるみたいな話だっけか」
「二十一グラムというのが、今のところの推測らしいがの。真偽はさておき、その聖剣には人間の魂が入っている。それが恐らく、その聖剣の重量の全てじゃ」
「えっ、てことは、今も数人分の魂があるってことか?」
フランは頷いた。
「そうじゃ。その聖剣は一時的に行き先の無い魂の宿木として機能しておる。それが、その聖剣の重量が変化する理由じゃ」
聖剣が、布の隙間からぎらりと光る。
「その剣にはどういう理由か治癒能力がある。時間をかけてゆっくりと魂の錆を洗い落としてくれるのじゃ。どうして屋敷にあったのか、いつ創られたのか、それは分からぬが、聖剣はわしらの希望として力を貸してくれるのじゃ」
聖剣にそんな効果があったのか……。握った瞬間に、全身から湧き上がるようなエネルギーを与えてくれるのは、きっとそのおかげなんだろうな。
「話が少し逸れたので本題に戻るのじゃ。父上が『あの悲劇』を生み出したのは、それから半年後になる。わしの十八歳の誕生日……プロテスタントとしての洗礼を執り行った日じゃ」
「十八……って、ちょっと待て。お前もしかして、じゅうはちさいなんです?」
「そうじゃ」
えへん、とフランはふんぞり返った。
「じゃあその見た目は? 何で幼女の姿してるわけ? 趣味? 黒ずくめの男にシャーロック的な暗号のついた薬でも飲まされちゃったんですか?」
「……黙って聞く」
何故か月森に叱られてしまった。
「半年という年月が経過して、昔のように笑いを取り戻していた父上の嘆きを、すっかり忘れてしまった頃じゃ。わしは屋敷で準備をしとった。その時、父上に大事な物を渡すから地下室へ来るようにと促されたのじゃ」
「ふむ……」
いかにもな、うさんくさい話ではあるが……。
「普段は開かずの間としてあった場所じゃ。幼少の頃に悪戯で侵入した時以外は入ったことがなく、古めかしい造りの石段をこつこつと降りた記憶が残っておる。埃にまみれた部屋には、大量の研究資料や床に描かれた魔方陣、そして二本の剣が突き刺さっておった」
俺は左手を開く。
手のひらには、聖剣と契約を果たした時に浮かびあがった紋様が刻まれている。
「父上のプレゼントに喜ぶ無垢なわしは、何をもらえるのかとドキドキしておった」
無垢なフラン、か。
今じゃ考えられないなと思った辺りで、二人に睨みつけられた。おお、怖い。
「それで、どうなったんだ?」
俺が続きを求めると、忌々しげな口調でフランは言った。
「……とんでもないことが起きたのじゃ。父上は、ゾロアスターの神と契約しておった」
「悪い方の神か?」
「ああ。この世の絶対悪とも称される神、アンラ・マンユ……こっちではアンリ・マユとも呼ばれておるな、そやつとの契約が成されていたのじゃ」
「それで、どうなった?」
「魂を呼び戻すには、人間の器が必要……父上は、アンラ・マンユ召喚の生贄としてわしの身体を捧げたのじゃ」
……背筋が凍りついた。自分の娘を、生贄に捧げるだなんて。
「一つの身体に二つの魂……それに、居るかどうかさえ分からない悪神の召喚などと。もう父上の人としての感情は、母上が死んだ時に終わったのじゃろう。答えは大失敗じゃ。召喚をした瞬間、異型の化物が地下室を埋め尽くした。わしは捕らえられ、父上は目の前で食われた。暴れ回った化物は地下室から飛び出し、屋敷内に居た知人や家政婦を……皆殺しにした」
俺は箸を置いた。
食事ができるような内容じゃなかった。
「わしを捧げようとした理由は恐らく、母親似だったからじゃろうな。わしの中に、過去の母上を見ていたのかもしれん。化物に捕らわれたわしは、最後の賭けに出た。それは、媒体となったわしの身体に聖剣を突き立て、この悪魔の依代を消すこと。何とか聖剣を手にしたわしは、その剣で自分の命を絶った……次に気がついた時には身体は縮んでおり、見事このザマじゃ」
「良く分かったよ、ありがとうフラン」
もういい、お前は悪くないんだ、と言い聞かせるように彼女の言葉を抑制する。
触れるわけじゃないが、こいつの気持ちには応えてやりたい。
俺はフランの頭にそっと手を乗せた。
何回も、君はここにいて、失っていい存在じゃないんだと、少しでも伝わるように彼女の髪の毛をくすぐる風にして、手のひらを往復させる。
伝わらなかったら、伝わるまで教えてやるつもりだ。
お前は、俺の仲間だって。
「……お主と居ると、生前の優しかった父上を思い出すのう」
「そうかな」
フランはすぐに離れて背を向けた。窓の外を眺めて星を探すわけでもなく、とにかくフランは上着のかけどころを探すように、目をふらふらとさせていた。
「ととと、とりあえずじゃな! ミルフォード家にまつわる悲劇はこれで仕舞いじゃ! 後はその時おらなんだ身内の子孫を巡って、三百年間放浪の旅を続けてきた、というわけじゃ! わしは暑くなってしまったので少し夜風にあたってくることにしたのじゃ!」
「分かった。気をつけろよ」
逃げるようにフランは姿を消していった。
ベタな言い訳に、胸の中が柔らかくなる。
幽霊が夜風を好むなんて、聞いたことないんですがね。
話もあらかた終了し、鍋の方も手ごろな感じで底が見えていた。残る食材は深皿に移してラップで包み、冷蔵庫で一晩寝かせるらしい。明日の朝食になるってことだな。
「……食器、片付けるから」
月森が席を立ちあがり、俺の使っていた皿や箸を回収する。
「俺も手伝うよ」
「……でも、ヒカル様はお客様だから」
「いいっていいって。こんだけ美味しい料理食べさせてもらったんだから、少しくらいは俺にも働かさせてくれよ」
瞬きが数回される間、ほんの数秒。
月森は少し悩んだようだが、根負けしたのか承諾してくれた。
俺は鍋を運び、一緒に台所まで向かう。
蛇口から勢い良く流れる水音。事前にお湯へ浸した食器をすくい出し、洗剤を漬けたスポンジで丁寧に洗っていく。隣にいる月森に食器を手渡して綺麗に水で洗剤を流してもらう。
がちゃん、がちゃんと食器の擦れる音がする。
俺は気になっていた。この刻印は契約によって与えられたものだと。
洗い物をしている間、俺は月森に聞いてみた。
どうやら、この刻印はミルフォード家の人間にしか発生しないらしい。月森が生まれながらに刻印を持っていたのも、ミルフォード家が聖剣との繋がりを今だ保ち続けているからだろう。
俺は泡にまみれた左手を見た。中央に刻まれた魔方陣の紋様。
これはどうやら、ミルフォード家の血筋を持った人間のみに刻まれるそうだ。
つまり、俺も月森と同じでミルフォード家の遠い子孫ということになる。横目で月森の左手を覗くが、やはり紋様が刻まれていた。
「……ヒカル様も、私と同じく別々に育まれた十代目の子孫。聖剣と魔剣は、運命によって再びミルフォードの血を集めました」
「そうか、俺もあいつの子孫だったのか……」
心にかげりがあった。
小夜実の命を奪った魔剣。
そして、魔剣を振るった俺の親友、佐伯凌真。
この話が正しいものなら、凌真もミルフォード家の子孫ということになる。
だとしたら、運命は皮肉にも俺の傍に、余りにも多くの禍根を残していった。魔剣が人間の範疇を超えるものならば、凌真を救うことができるのは聖剣を扱える俺だけになる。
俺にできるだろうか。
今はただ、この緩やかな時間だけが俺の疑念を曖昧にしてくれた。