Episode-1-6
「くっ!」
「フフフッ……!」
竹刀での鍔迫り合いが始まり、竹と竹の隙間から相手の表情を窺う。余裕のある雰囲気を漂わせる凌真に比べて、俺の心情は荒んでいた。まだ何もしていないのに、凄まじい敗北感を覆せない。頭の中に襲い来るのは何重にも現れるゲームオーバーの文字。
今までの凌真とは、何かが根本的に違っていた。物理的に筋力の差があるというか、俺が精一杯の力を込めて鍔を支えているのも関わらず、凌真は悠然と竹刀を押さえていた。
それも、片腕に小夜実を抱いたままで、だ。
見た目は拮抗しているように見えるが、腕に伝わる痺れが圧倒的な力量差があるということの裏返し。押すことも弾くことも出来ず、俺は引き下がった。それと同時に、凌真も人間一人分ほどの距離を後退する。
「はぁ……はぁ……」
毎日鍛えていたはずなのに、既に肩から息があがっていた。
一体何故なんだ、どうしてこんなに力の差があるんだ……。
屋上の地面には、小夜実の血液で塗られた地図が描かれている。ぶらぶらと宙吊りにされて揺れ動く妹の姿が、人形のようで堪らなく不快だった。
「小夜実を……離してくれ……っ!」
ありったけの情を込めて訴える。だが、凌真は俺の話を聞いてはくれなかった。
「僕は今とても心地良い気分なんだ。何もかもを手中に収められそうなくらい、力が充実しているのを感じるよ。これも全て『魔剣』の力を手に入れたからだ」
「魔剣だと……そんなものがあるはずないだろ! ふざけるな!」
この言葉も無視される。
「新しい境地に立つと、色んなことを試してみたくなるよね。普段できないことに果敢に挑戦する精神、ほら見てみなよ、例えば……こんな風にさ」
凌真は抱きかかえていた小夜実を仰向けにひっくり返した。小夜実の髪や腕が重力に従って地に垂れる。見せつけるような態度で、凌真は小夜実の唇から流れている血を指ですくい取り、舐めた。
「凌真……! お前、お前えぇ……っ!!」
「ハハハハハッ! 生まれて初めて知ったんだよ、人間の血がこんなに美味だったなんてさ! 酔いにも勝る美酒だよこれは……どうせなら、君の目の前で、小夜実君の血液を全て吸い尽くしてあげようか……フッ……ハハハハハハッ! アーッハッハハハハ!!」
「ふざけるなあああああああっ!!」
俺は怒りのままに攻撃をしかけた。だが、猛獣をいなすように凌真は鼻で笑って俺を突き飛ばした。
「くそっ……くそおっ……!」
俺は今まで、こんなにも自分の無力さを思い知ったことはない。剣道を習い始めたのも、三年前に実の妹が亡くなったからだ。もう誰も悲しい目には合わせたくない。自分が強ければ、周りの人間を守れると信じたからだ。
それが今、根本から打ち崩されようとしている。目の前にいる凌真は俺の知っている凌真じゃない。人とは大きくベクトルのかけ離れた異次元的な存在。それが今の凌真なのかもしれない。
「フフッ……お遊びが過ぎたようだね。では、今度は僕の方から攻めてあげよう……かっ!」
「…………!?」
突然、竹刀が眼前へと伸びてきた!
錯覚じゃない、数メートルは離れていた俺と凌真の距離が一瞬にして詰められた。
左片手一本突き、腰を落とさない強引な腕力だけの突き技に、俺は翻弄される。及び腰だった身体が後ろへと飛び退り宙に浮く。せめてもの守り手として竹刀を盾にする。
しかし……。
「ぐあああああっ!!」
飛んできた竹刀の先端が、俺の持っている竹刀の中央部分を捉えた。途端、自動車に巻き込まれたかのように抗いようのない力が加わり、中結から竹刀が破壊された。
折れたとかのレベルじゃない、文字通り中央から破壊されたんだ。支えを失った四つ割りの竹が内側から爆発する。それによって起きる両腕への負担も尋常ではなかった。二の腕から先が完全に麻痺し、がたがたと震えている。竹刀を落とさなかったのは奇跡に近かった。
「う、嘘だろ……!!」
砕かれた竹刀の欠片が地面に落ちる。肩膝をつく。腕に力が入らず、持っていた竹の塊は指先からするりと抜けていった。
「フハハハハハハッ!!」
小夜実を抱いたまま、凌真は数十メートルほど後方にあるフェンスへと飛び移る。厚さがほとんどないフェンス上で、凌真は平然と屹立していた。
こいつはもう、人間じゃない。人が出来る範疇じゃない。
そんな結論が頭の中を駆け巡っていた。凌真の見開かれた瞳孔が、野獣のように光る。勝てない、人間が勝てる領域に、奴は既に存在していない。
──殺される。
俺は心底から恐怖した。こんな非日常が現実に起こっていいわけがない。
きっと、これは夢なんだ。
夢でなければ、凌真があんな風になるなんて有り得ない。小夜実が死ぬなんて、そんなこと、絶対に……。
「さて、名残惜しくはあるが、茶番はここまでにして、そろそろ物語のフィナーレに向かうとしようか。僕の愛しき永遠のライバル、霜月光……!」
凌真が腰を落として、こちらに狙いを定める。
──もうだめだ、そう思った瞬間。
「…………っ!?」
落ちていたはずの竹刀の欠片が、凌真の方へと飛んでいた。反射的な動きをして、凌真が欠片を弾く。そのおかげで気が雲散したのか、俺に向かっていたはずの敵意は薄れていた。
そして振り返って見た先には、
「……だめ。ヒカル様を、貴方の好き勝手にはさせない」
白い布に包まれた剣を抱え、銀をなした髪、海のように深い蒼色の瞳、無表情のはずの顔に僅かな怒りを灯らせて立ちはだかる、月森ユイの姿があった。
「お前……どうして」
驚きに動転する、そして。
《やれやれ、何とか間に合ったようじゃのぉ》
どこからともなく、そんな声がした。
「だ、誰だっ!?」
俺は強く首を左右に振って声の出所を探る。だが、どこにも居ない。
《ここじゃ、ここ。と言うても、お主にはまだ見えぬかもしれんがのう》
もう一度探してみる。しかし姿はない。あの女が指し示す方向、空中。俺が聞いた声も、確かにその辺から聞こえた。
《ヒカルよ、良く聞くのじゃ》
空中から声が届く。
《これは、運命じゃ。お主にとって逃れえぬ戒めなのじゃ》
「な……っ!」
運命? これが、運命?
俺は激怒した。
「ふざけるな!! じゃあ何だ、俺がこんな目に遭っているのも、凌真が変わってしまったのも、小夜実が死んだのも、みんな運命だって言うのかよ!!」
《そうじゃ》
声の主はしれっと答えた。
「そんな、そんなことがあってたまるかよ……! 俺と凌真は、本当に仲の良い親友だったんだ……! 小夜実だって、やっと守れると思った俺の妹なんだぞ……それを、運命だなんて……!」
苛立ちが一周して涙に変わる。
これが運命だったら、俺が助けられるものなんて何一つなかったってことなのか、俺が守りたいと思うものは、みんな幻想に消えていくって言うのか……!
ただただ、激情が全身を打ち震えさせることしか出来なかった。完全なる無力、守るべきものの不在、信念の瓦解。霜月光は、何の役にもたたない人間でしかなかったんだ。
そうして、待ち侘びていた人物が場の雰囲気を壊して口火を切った。
「もうそろそろいいかい? 僕としては、君のそんな顔を見るだけで極上の慈しみとすることが出来るんだけどね。さて、役者は揃った。今日は気分が良いのでこれで退散することにしたよ」
フェンスの上で凌真が語る。
「君に一つイイコトを教えてあげよう。小夜実君は確かに、死んだ。でも、完全には死んでいない。どういうことか分かるかい?」
声も上げれず、僅かな希望の話題にすがる。それが持ちあげて落とされる内容だとしても、俺は受け入れずにはいられなかった。
「この『魔剣』はね、魂を拘束する力があるんだよ。小夜実君の肉体は死んだ。しかし、魂は捕縛され、その呪いから解き放たれることはない。僕を倒して、魔剣との契約を解かない限りね」
「なん……だと……!?」
妹は死んだ、でも魔剣の戒めから解放しなければ、魂が地上をさまよい続けてしまう。俺の大好きだった妹が、きっと辛くて悲しかっただろうに、あまつさえ楽になることすら出来ないって言うのか。
「君の選択肢は二つしかない。運命を受け入れて僕に立ち向かうか、運命に負けてしまうか、どちらにしろ猶予は長くない。何せ、数日も経てば魂は魔剣の餌として痩せ細り消滅してしまうのだからね。待っているよ、全ては運命にみそめられた『刻印の呪縛』とともに……ハハハハハハハッ!!」
「ま、待てっ! 妹を、小夜実を返してくれぇーっ!」
フェンスから落下するように姿を消した凌真。それに合わせるように、地面に突き刺さっていた凌真の剣がふっと消える。
凌真の影は、夕焼けの屋上に続く街並みへと溶けていった。
ひとしきりの絶望を、俺に与えて……。
「くそっ、くそくそおっ……! どうしてだ……どうして、こんなことに……!」
抗う術もなく打ちひしがれた俺は、何度も何度も執拗に拳を地面を叩きつける。
三枚の手紙が届いた今日、平和な日常は終わりを告げた。
──あれは始まりだったのだ。うら暖かい祝福された日々、夏の太陽は闇の支配するとばりへと塗り潰された。
「ヒカル様……」
女が近づいてくる。
「お前のせいだ……お前が現れなければ、こんなことにはならなかった……お前と、あんなとこで出会わなければ、小夜実は……!!」
拳から血が滲む。それでも俺は地面を殴った。
「……ヒカル様、申し訳ございません。私には、ヒカル様のお気持ちの全てを理解できません。しかし……」
「うるさいっ!」
「あぐっ……んっ……!」
俺は女を突き飛ばした。その衝撃で剣らしきものも横に転がる。
無理矢理吹っ飛ばされた女は、屋上に入る扉のある壁にぶつかり、小さなあえぎ声を漏らした。
「お前が……お前さえいなければ……!」
俺は我を忘れたまま、女へとにじみ寄る。
せめてもの腹いせにこの女を犯し尽くしてやろう。俺の思考は尋常ではない発想に飲み込まれた。
「ヒカル……様っ……」
もうこの女の声は聞こえない。あの幽霊じみた奴にも邪魔はさせない。
華奢な身体つき、繊細な肌。目を這わせば、服に隠された双丘は僅かな膨らみをつくり、艶のある唇は男の肉欲を満たすのに十分な色気を放っていることが窺える。
俺は舌なめずりをした。妖美な肉の前に野生の本能が猛る。
壁に両手をついた俺は、女の逃げ場を塞ぐ。無垢そうな瞳が俺を見つめてくる。スカートの裾を押さえている指先が食欲をそそって仕方がない。
俺は強引にスカートから指を振りほどいた。そのまま腕を押さえつける。胸元に着いたリボンをはずし、第一ボタンを引きちぎる。女は頬を紅潮させて、気づかれないように吐息を漏らしている。
俺の名前を呼ぶ声が聞こえる気もするが、そんなのはどうだっていい。どうせもう、後戻りなんかできっこないんだ。なら、俺は俺のやりたいようにしてやる!
乱れた服の隙間から、純白の下着が僅かに露出する。いい趣味してやがるじゃないか、嘲笑う。服を剥ぎ肩を空気に触れさせる。傷のない綺麗な素肌に俺の興奮は留まることを知らない。
これと言った抵抗もしないので、どんどん女の身体を征服していく。俺は確信した。こいつはきっと喜んでいるんだろう。だからこんな行為も受け入れている! はははっ、だらしない女だ、欲求に身を任せるとはな……。
俺の心は一人でヒートアップしていく。いつしか俺の息も大きくなっていた。
目をそらして立っているだけの女の、首筋から肩までを舐めるように凝視した。俺は自分の手に唾液を塗りたくり、鎖骨のラインをなぞる。肩の頂点に至るまで、ゆっくりと手を滑らせて俺の体液で女の身体をマーキングする。
さっき凌真の言っていたことを思い出す。血液はとても美味だと。
どうやら、人間をやめれば血液が好きになるらしい。俺の口元が緩む。吸血鬼のように女の血を吸い尽くして、身体の中から俺のモノにしてやろう。
「……つぅ…………ふぅん……!」
痛みからか、女が僅かに身をよじる。歯をたてて、肉を抉り、生暖かい血液の流れを感じる。
いいぞ、もっと苦しめ。俺が味わった苦しみのように恐怖して、全てを俺に捧げろ!
女の声に興奮し、身体を身体で押さえつけ、覆いかぶさる。
俺の頭に何かが触れた。
「……ヒカル様……っ!」
抵抗のつもりなのだろうか、それとも……女は俺の肩に腕を回し始めた。
構わず俺は血をすすり続けた。凌真の言っていたことはこういうことだったのか! こんなに生き血が美味しいのなら、何度だって吸ってやる。
「ヒカル様っ……!」
何のことだ、うっとうしい。
「ヒカルさま……!」
俺のことか?
「ヒカル、さ、ま……!」
繰り返し、その名前を呼ぶ。俺にはもう、その言葉が何なのか良く分からない。
俺の頭に手の感触があった。
「……お前……?」
何故か俺は答えていた。女の……彼女の言葉に。
「ヒカル様……気を静めて、ください……私には、貴方の悲しみの半分も分からないかもしれませんが、それでも貴方を支えたい、貴方の心を、理解したい……!」
髪の毛に触れられた指先が、ゆっくりと上下する。
俺を、撫でているのか?
「私は、貴方が貴方のままで居てくれるなら、喜んでこの身を差しあげます。だって貴方は、私がずっと捜し求めていた……」
俺の口が、血を吸うことをやめていた。
人間で居ることを続け始める。
「私の……救世主だから……」
「月……森……」
俺の目に生気が戻ってくる。人の心が鼓動を刻み始める。
彼女の言葉で、俺は正気を取り戻していた。
初めから分かっていた。彼女、月森ユイが悪かったわけじゃない。根拠のない自信と、疑わない平和を信じていた俺への、代償なんだ。
「う……うう……」
人としての涙が溢れ出す。
俺は月森ユイという少女のおかげで、人間を諦めずに居ることが出来た。
彼女が来てくれなければ、俺は人間の心を失っていただろう。
「ヒカル様……悲しいことは全て私が受け止めます。だから、今は泣いてください。貴方が零した涙は、明日を生きる為の大切な糧なのですから……」
「う……うわあああああああああああああああああああっ!!!」
俺は泣いた。
親友が裏切ったこと。
小夜実が死んだこと。
定められた運命。
その全てを忘れて、今はただ泣いた。
夕焼けに包まれる屋上、少女の胸の中で。
※
あれから二十分くらい経っただろうか……。
落ち着きを取り戻した俺は、月森ユイに言った。
「色々と、悪かった……。その、言い訳になってしまうけど、俺ほんとにどうしていいのか分からなくて……月森……ごめん」
着衣の乱れを直した月森は、今までは想像もできなかったくらい穏やかな表情で、俺に微笑んだ。
「……ヒカル様の役に立てて良かった」
「月森……」
俺は月森と見つめ合う。辛い出来事を二人でわかち合ったような達成感が──。
《あのぅ、そろそろわしのことも思い出してくれんかのう……》
「う、うわぁ!?」
突然、周囲から声がした。一体、何事!?
《うむ……お主らは若いから乳繰り合うのも大変結構なのじゃが、忘れられると悲しいものがあるので、そろそろ気づいて欲しいのじゃ!》
良く分からない口調で喋る女らしき人物の声。
俺は三枚目の手紙のことを思い出す。そうか、こいつが……。
《その通り。わしがミルフォード家の令嬢である、フラン・ミルフォードじゃ》
姿は見えないが、どことなく威張っているような雰囲気を感じる。
「お前は……」
ゴツンッ。
そんな音が、俺の言葉を遮った。
「ヒカル様……」
白い布に覆われた物体が石材に突きたてられる。
恐らくこれが『聖剣』なんだろう。
するすると布を剥がし、その正体が明らかになる。
純粋な白に近い銀を基調として、僅かに黒色の模様が混じっている。まっさらに輝く刀身に、感嘆として息を呑んだ。
宝石と見間違うほどの美しい照り返しに、俺は言葉を失った。
これほどまでに綺麗なら、ダイヤモンドや金、真珠と並べても遜色ないだろう。
《ヒカル……お主への最後の問いじゃ。お主が心より望み、叶えたいと思う未来。それがあるのなら、左手で聖剣に触れて欲しいのじゃ。強制ではない、お主が考える自分自身の答えじゃ》
「俺が……」
聖剣と向き合い、正面からまっすぐに見つめる。
果たして、俺に扱うことができるのか。
俺は何を成し、何を救うことができるのか。
小夜実なら何て言ってくれるだろうか……凌真、俺の親友なら……。
「……分かった。どこまでやれるか分からないけど、俺は答えてみせる、その希望に。そして、助け出してみせる。俺の親友も、小夜実の魂も、みんな……だから──」
俺は持てる限りの力で言い放った。
「答えてくれ、俺の心に! そして誓う、最後まで守り抜くことを、聖剣よ……俺に力を貸してくれ!」
いっそう眩しい光が、俺を包んだ。
そして刻まれる。左手の内側には、手紙に記されていたあの紋様が!
空中に四散する光の奔流、それが収束していくとともに、今まで見えなかったはずの少女の姿が、世界に、俺の眼前に投影されていく。
「……ようやく、会えたようじゃの」
空に浮かぶ少女、フラン・ミルフォードの姿。
その全てが、俺の前に映し出された。
聖剣を握った俺の前で、月森が会釈をする。
「改めまして聖剣の主よ。貴方様の……いえ、三人の力で、未来を築いていきましょう」
「……ああ! よろしく頼む!」
俺は剣を中央に振りあげ、二人もそれに合わせて手をかざす。
やっていこう。
絆を信じて歩んでいけば、おのずと答えは出るのだから──。