Episode-1-5
教室、教室、っと。
階段を一段抜かしで駆けあがり、小夜実の待つ教室へ向かう。この学校の教室は、一年生が三階、二年生が二階、三年生が一階となっている。剣道部の部室が一階というのもあって、毎日の上り下りは大変だ。
時間は午後五時を迎える頃だろうか、窓から差し込む夕焼けが眩しい。
三階に到着し、角を曲がった時だ。
「お前……」
昼に出会った、あの女の姿があった。
「聖剣の主、ヒカル様。ミルフォード家を発端とする三百年来の悲劇が、再び繰り返されようとしています。予言の先に塗り潰された闇の歴史を、貴方の手で──」
「だから、俺は関係ないって言ってるだろ!! どうしてお前は、俺にまとわりついてくるんだよ! はっきり言って迷惑なんだ。何もかもが上手く行ってるのに、お前の存在だけが俺の人生を壊そうとしてる! 俺はお前の言う主でも何でもないんだ! もう放っておいてくれ!」
俺は無視して女の前を通り過ぎようとする。
そう、関係ないんだ。俺は妹や親友、自分の周りに居る人達を守りたい、それだけが願いなんだ。
「……でしたら、最後に一度だけ。左手でこの聖剣に触れてください。後は何も望みません」
「……本当だな?」
女は頷いた。俺は傍に近づいて、女の抱えている体格に不釣合いな『聖剣』に手を伸ばす。
「聖剣の声に耳を傾けてください。静寂に身を委ねて、時の一滴を視るのです」
「うるさい、黙ってろ」
目を閉じて、布越しに手を這わせる。完全なる静けさが身体を包む。
それを数十秒続けたが、何も起こらなかった。
「……おい、何も起こらないぞ。これで分かったな、お前の言うことがデタラメだったってことが。小夜実を待たせてるんだ。もう行くからな。あと、二度と俺の前に姿を見せないでくれ」
相手が喋るのも待たずに、その場から去る。
教室へ進む足を強めて、出来る限り問題の種から遠ざかる。
その矢先、
「痛ッ!?」
左手に鋭い痛みが走った。昼にも、似たようなことがあった。あのときは大した感覚ではなかったが、今のは細い刃物で貫かれたような顕著な痛みだった。
「くそっ、何だってんだ……」
痛みを堪えて、さきほどの女のいた場所を振り返る。
女はこちらを眺めていた。
そして、その横で人影らしき姿が一瞬だけ見えた──。
※
「おーい、小夜実ー」
がらがらと教室の戸を開けて、中を見渡した。
夕暮れの教室、教壇、机と椅子、閉じた窓、静まり返った室内。
そこに小夜実はいなかった。
先に帰ってしまったのか。いや、それはないはず。一緒にスーパーへ行く約束をしていたのだから。だとすれば、一人で向かった可能性もある。この時間帯はセール品で何かと忙しい。食糧問題は我が家の危機だ。
「あれっ……」
俺の机の上に、小夜実の鞄があった。手のひらに乗るくらいのキュートなヌイグルミがついている。
鞄があるということは、学校内に居るのか。
「小夜実~どこだ~!」
教室を出て、廊下で小夜実を探す。
喉から打ち出した言葉の塊は、静寂の空間に霞んでいく。叫ばれた音の波は、俺の鼓膜に何の反響も与えてくれない。
「小夜実……どこ行ったんだよ……」
寂しさと不安が心の器に漏れ出てゆく。その度に、あの女が口にした言葉が蒸し返される。
『聖剣の担い手となる主よ……』
『ミルフォード家の三百年来の悲劇が、繰り返されようとしています』
『ヒカル様、どうかお力を──』
「ええええええい、喋るな!! 何も喋るな!!!」
幻影を消し去るように頭を振り回す。
──何か、とてつもなく嫌な予感がする。
俺の周りにある全てのものが、一瞬で粉々に砕かれてしまう、そんな予感。
目の前にあった日常、学校での生活、親友との他愛ない会話、部活での凌真との約束、小夜実と並んで歩いた帰り道、小夜実に送られた手紙、小夜実との告白。
小夜実の────笑顔。
俺は全力で走り出した。
くまなく教室の中を覗き、廊下を駆け抜け、ありとあらゆる場所を探す。
そして、一直線の長い廊下、普段使われていない教室のある部分、その一番奥の教室……俺が昼休みに妙なものを感じた、あの教室。
そこの扉だけが、開いていた。
「小夜実、小夜実……!」
瞳孔が開く。心臓が高鳴る。額の汗が止まらない。
そんなはずはない。あるわけがない。あっていいわけがない。
無音の廊下に、足音だけがこつこつと響く。恐る恐る近づき、真実を視認しようとする。あと、数歩分もない、目と鼻の先にある教室。
何事もないように信じる。
倒れそうになる身体を踏ん張り、壁に手を当てて教室へと接近する。
開いた扉の前まで辿りついた俺は、室内に、目を────。
ぽたっ、ぽたっ。
最初に聞こえてきたのは、そんな音だった。
何の音か理解できなかった。
雨水? 水道の蛇口?
カーテンがされた薄暗い部屋の中に、ぼんやりと見える黒い物体が、二つ。それが何なのか脳が読み取ってくれない。
銀と黒で構成された、細長い棒状のものが、物体の間に生えている。
細長い棒が何かを通り抜けた先には、赤色の液体が流れて床に落ちる。その何かはびくんびくんと痙攣を繰り返し、上の方から音のようなものを出している。
黒いサイハイソックス、その先にスカート、女子生徒の服装だ。制服の間に棒が貫通し、首上にある口の下唇を通って鮮血が零れ落ちている。栗色の髪の毛が頬に張りつき、瞳から流れる、涙。
「……お……兄……ちゃん……」
小夜実だった。
「う、うわあああああああああああ!! 小夜実ぃぃぃぃ!!!!」
刹那、俺は物凄い勢いで小夜実の元へ駆けつける。
その手前で、貫いていた『剣』が引き抜かれた。
「……はぁっ……うっ……!」
「小夜実、おい小夜実、しっかりしろ!」
切り裂かれた制服の隙間、胴体の心臓より少し下辺りからどぼどぼと血液が零れ落ちる。傷口を押さえる小夜実の手が真っ赤に染まっていた。
「お兄……ちゃ…………」
息も絶え絶えになった小夜実が、目尻から溢れる涙を流して、訴える。
「……だい…………すき…………」
小夜実は、動かなくなった。
それが俺の妹の最後の言葉だった。
「小夜実……?」
心が空っぽになる。脳が、考えることを停止した。開いた口を閉じることも、目を塞ぐことさえもできなかった。力を失くした小夜実の腕をぎゅっと握り締める。
「小夜実、小夜実ぃぃぃぃ!!! ああああああああ!!!!」
ぎりぎりまで収まっていた悲しみの防波堤が決壊する。心がぎりぎりと悲鳴をあげ、鮮烈な雄たけびとなって爆発した。感情に身を任せてどうすることも出来ず、俺は発狂した。
「ぐはっ!!!」
そんなとき、俺は激しい衝撃を受けて弾き飛ばされた。教室の壁に叩きつけられる。思わず咳をし、痛むわき腹を押さえる。ふらついた視線の先で見たものは。
「……屋上で待っているぞ」
男の声が聞こえた。黒い人影が、小夜実を抱えて窓を破り跳躍した。
あっという間の出来事。
謎の人影、小夜実の死。俺の胴体はひん曲がり、その場でうめき声をあげた。
※
「ぐっ……はぁはぁ……」
よろめく身体を押さえつつ、屋上を目指す。普段は使われることのない屋上だが、そんなどうでもいい話、今の自分自身にとっていささかの興味も罪悪感もなかった。
小夜実は、俺の前で死んだ。
未だにその事実を受け止められない。何が何でも真実を突き止めて、二人で元の日常に戻る。そのことしか考えていなかった。そんな希望を信じるしかない。
立ち入り禁止の立て札を無視し、這うように階段を一段ずつ登る。
小夜実を、さっきの人物から取り戻し、幸せな日々を満喫する。俺が脳内で描くハッピーエンド。
屋上に進入する為の扉が、目の前に立ち塞がる。
がちゃりと音をたててノブが回る。鍵はかかっていなかった。油のささっていない古びた扉が、ぎぎぎと禁忌の門を開くかのように押しのけられていく。
夕焼けが全身を染める。その先には、石材を敷き詰められた地面、緑色のフェンス、遠くに映る街並み、頬を叩く微風。そして、
「……フフ、待ち焦がれたぞ」
中央最奥に位置する人の姿。腰から強引に抱えられて二つ折りのようになっている小夜実、血のついた剣を握ってほくそ笑む……俺の親友、佐伯凌真の、姿が……。
「凌……真……」
「やぁ、少し遅かったじゃないか。夏の名物にも等しいこの夕焼けを、僕はもっともっと君と眺めていたいんだ。太陽が平伏する日没こそ、理想を想い掲げるに相応しい瞬間だからね」
ロマンチシズムを発露させる凌真は、劇場の役者にも似た雄弁な語りを続ける。
「君も渇いているだろう。時の流れが刻む、季節往来の儚さに。人の宴は今宵ばかり、一世紀も廻らば英雄の道など誰の記憶にも至れずに土の中だ。それは余りにも慈悲深きこと」
「……何が言いたい」
業を煮やしながら凌真に問う。
すると、空中に放り投げられた竹刀が落ちて、俺の足元まで転がってきた。凌真も、剣を地面に刺して竹刀を握る。
「共に譲れぬ道ならば、武をもって定めとしよう。さぁ、僕に引導を渡しに来てくれたまえ、もっとも出来ればの話だがね、ハハハハッ!」
「お前…………」
やり切れぬ現実への怒りが込みあげてくる。何故、凌真は変わってしまったのか。自分の心に嘘をついてでもあいつのことを信用したい自分と、未だ小夜実の死を受け入れられない自分が混ざり合う。
ぐちゃぐちゃになった思考。それでも俺は竹刀を拾い、強く握った。
問い、正すこと。それしか、今の自分が心の拠り所に出来るものがなかったからだ。
「凌真……俺が、お前が俺の親友だってことを……! そして、小夜実を殺したことが嘘だってことを分からせてやる! 俺は、今の状況を受け入れられない!!」
「さぁ砕いてくれたまえ、貫いてくれたまえ。僕の永遠のライバル!!」
「うわあああああああっ!!」
俺はなりふり構わずに、未だ親友との誓いを忘れえぬこの身で、斬りかかったのだった。