Episode-1-3
五時間目の授業開始から、既に三十分は経過している。俺と小夜実は弁当を食べ終わり、ゆったりとした時間を楽しんでいた。
「うぅ食ったなぁ、今日の弁当ちょっと多すぎやしないか?」
「今日の為によりをかけて作ったからねー。お兄ちゃんにはたくさん食べてもらわないとっ」
失敗だった。まさか小夜実がこんなに甘えん坊だとは知らなかった。すごく浮かれた気分の小夜実は、二人の弁当を開けてすぐに、次々と俺の口に料理を放り込んだ。たまご焼き、タコさんウインナー、ブロッコリーなど、色合いの揃った品目が胃の中に出荷される。
しかも美味しいので、いくらでも食べられる。新手の拷問を味わった感じだ。
胃が満たされたところで、夏にはもってこいの麦茶。もう至れり尽くせりだね。
青空に伸びる白い雲がゆっくり流れるのを、ぼうっと眺める。平和だ、そして充実している。人生の何もかもが成功した感じが、全身を包み込んでいる。これも小夜実のおかげだろう。
正座をしている小夜実が、空になった弁当を包み直して、新しいお茶を水筒から注いでくれる。淑やかな姿勢の傍ら、つい視線がスカート辺りに持っていかれる。
膝近くまである黒地のサイハイソックスとチェック柄スカートの、間。
太ももです!
健康的に育った柔軟そうでもちっとした肌、モイスチャーミルク成分がたっぷりと配合されてそうな穢れのない太ももが、俺に小夜実が女の子だということを想起させる。
正座しているもんだから、足が少し痛いのだろう。組み替えたり、動かしたりするたびに色々とまずい状況になってくる。擦り合わされる肉と肉の間に、思わず手を突っ込めたくなる衝動に駆られる。
ハッ……もしかしたら、自分は相当いやらしい人間なのでは。仮にも義理の妹で、彼女になりたての小夜実に情欲をぶつけそうになるなんて。さっきの食事中にも、小袋のマヨネーズをかけるのに失敗して、小夜実の太ももにぶっかけてしまった。ぶっかけてしまったんだ。
気になりだすと、つい視線がそっちに向いてしまう。それを理解したらしい小夜実が不適に笑う。
「お兄ちゃん、もしかして触りたいのぉ?」
「いえ結構です。恥ずかしいので」
咄嗟に目をそらして言った。
「あははっ、触りたいのは否定しないんだ。正直者で良いけどね、お兄ちゃんらしくてさ。……小夜実はお兄ちゃんになら、その……い、いつ触られてもいいけどね?」
「えっ!?」
虎穴に入らずんば虎児を得ず。失敗した……勢いでさりげなく触っておけば良かった。
霜月光十六歳、末脚の伸びない未勝利馬は追いも差しも下手で、未だダービーの出走権利得られず。馬券を買う価値のない駄馬は、そのまま食用として出荷される運命なのであった。
「普段はのんびりした性格だけど、お兄ちゃんも中々えっちなんだね。安心したよ、お兄ちゃんが人並みに性欲を持ってて。だって、あんまりにも疎いんじゃ自信なくなっちゃうし」
「はは……」
「でも、お兄ちゃんが太ももフェチだったなんてね~。これから家に居るときは、お兄ちゃんの目の保養の為にずっとスカートを履いててあげるよ」
外堀を埋められていくというのはこんな気分なんだろうか、小夜実にとっては俺の城を守る外壁なんてあってないようなものなんだろう。悠然と飛び越してしまう。
「あ~、小夜実あっついなぁ~。胸元を開けば涼しくなるんだけど、小夜実は胸が『大きい』からぁ、えっちな目をしてる獣さんに見られちゃうかもなぁ~。あ~でもあっついなぁ~ぱたぱた」
人差し指をフックにして、制服を仰いでやがる。
ちら……。
「見たでしょ」
「見てません」
「ふ~ん。あ~あっついなぁ」
ちらちら……。
「今のは確実に見たよね」
「確実に見てないとは言い切れませんが見てません」
「そうなんだ」
何故か肩を密着させて、より『見えやすい』位置に身体を持っていく小夜実。
そして宣告される。
「見ましたって素直に言わなきゃ、小夜実、お兄ちゃんに義理の妹だから大丈夫だろって校舎裏に誘われて、無理矢理、壁に押し倒されて太ももにベトベトしたのぶっかけられたって、佐伯君に証言するよ」
「ちょ、ええええええええええ!?」
どうなのと言わんばかりに、顔面スレスレにまで顔を近づけてくる小夜実に俺は恐怖した。しかも、仰ぐ指は止まらない。完全に泳ぐ目を追われている。参った、目を合わせて話すという一般常識の基本がこんなにも大事なことだったなんて。みんな、常識は守らなきゃだめだぞ。
あ、これはもうダメだわ。俺は諦めた。近すぎて、何だか良い匂いがするし、小夜実の息が顎らへんにかかるし。これ以上引き下がると、もたれかかってきそうだ。
「……………………見……」
「ごめんお兄ちゃん聞こえない」
「………………見ま……た」
「聞・こ・え・な・い」
「えええええい!! 見ました!! 俺は妹の大きくてたわわな胸をガン見して欲情する真性のド変態なんです!! 神様仏様小夜実様すいませんでしたぁー!!」
住宅街にも聞こえそうな大声量で思いの丈を撒き散らす。
満足したのか、小夜実はエステ直後みたいなほっこり顔で元の位置に戻ってくれた。ついでに俺の何かも元の位置に戻ってくれた。ポールポジションだ。やや右寄りといういらない情報も添える。
「ふう~すっとしたぜいっ!」
「ハァ……お前さ、絶対さっき俺が意地悪したこと根に持ってただろ……」
この調子じゃ先が思いやられる。どうやら、俺が今まで妹だと思っていたのは軍神軍師の類だったようだ。俺という存在をたやすく篭絡し、牙城を切り崩す。相手が現代に生きる孔明では、立ち向かう術がない。きっとギ・ゴ・ショクは彼女一人で統治できるだろう。
「そう言えばお兄ちゃん、ハンカチ返すね」
「ああ、さんきゅ。ところで、今日はスーパー寄って帰ろうか? その前にそろそろ教室に戻らないといけないんだけどさ。今戻っても中途半端だし、五時間目が終わるまで待とうか」
「うん。家に帰っても食事つくってくれる人いないし、お兄ちゃん料理できないもんね」
「うぐぅ」
俺は料理ができない。中和剤と中和剤を組み合わせて賢者の石を誕生させられるくらいには無理。
そもそも、俺と小夜実はアパートに二人暮らしをしていた。俺も小夜実も家庭関係が複雑で、父も母も世間的にバツイチと呼ばれている。小夜実は学校入学前に今の母が連れてきた子供だ。本来なら、親子円満で暮らしているところだが。
一番最初に小夜実と馬が合ったのが、これが理由だった。
今度こそ、両親を幸せにしたい。だからこそ、俺と小夜実は二人暮らしすることを提案した。親は当然反対したが、強い進言により市内の近くでならという形で妥協した。現在は仕送りをしてもらってはいるが、なるべくお金がかからないように節約をしつつ生活している。
「お兄ちゃん、お風呂どうしよっか。夏になってきたから水も結構使うし、節約したいんだけど」
「そうだなぁ……とりあえずどっちが先に入るか」
食事代も光熱費も水道代も、全部馬鹿にならない。携帯代だって一番安い料金プランで済ましている。
「あっそうか! 一緒に入っちゃえばシャワーだって全然使わずに済むね!」
「おいいいい!?」
湯けむりに消えた何とやら。男である俺が、十五歳で育ち盛りの少女の全裸を見てしまったらどうなるか。歯止めのハの字すら疑わしい。下手するとサスペンスに早変わりだ。
「お兄ちゃん。野生の本性ついに発揮だね。小夜実だって水着の一つや二つ持ってるんだよ」
「あ、あぁ……」
何故、全裸だと分かったし。水着でもかなり危ないが。
こうして俺と小夜実は、高校生ながらも日々お金と格闘している。大変ではあるけど、そこにやりがいを感じているのも事実だ。何より、小夜実と二人でいる時間は楽しかった。だからこそ、一緒にやっていけたんだと思う。
そんなとき、小夜実が口にする。
「これからはきっと、もっと充実した生活になるよ。雨の日も風の日も、槍の日だってお兄ちゃんと一緒なら大丈夫なんだから」
「小夜実……そうだな」
麗しき兄妹愛、未来への展望。
明日も明後日も、心はどこまでも続く青空のように広がっているだろう。
自己完結をした少し後、忘れていたものを思い出した。
ごそごそとポケットの中に手を入れる。中から出てきたのは、あの三枚目の手紙だった。今見ても分からない。こんな古めかしい手紙、誰が俺の下駄箱に入れたんだか。
「お兄ちゃんどうしたの、それ?」
「さぁ……俺を郵便ポストせしめんとする誰かが下駄箱にぶち込んだんじゃないか」
俺は改めて手紙を眺める。真ん中に刻まれた意味不明の紋様。だが、俺は別のことに気がついた。よくよく目を通せば、隅には名前が書いてあることに。
「なになに、霜月光様へ、フラン・ミルフォードより……俺の名前?」
急に不自然さが増してきた。握る手に力が篭る。フランという人物がこれを書いたのか? 誰だ、どうして俺の名前を知っている? この古めかしさは? 刻まれた印は一体?
──何故、これを俺に宛てたんだ?
その疑問は、一瞬にして解消されることになった。
『初めましてヒカル様。聖剣の担い手となる主よ』
校舎裏の端で、さきほど小夜実がいた場所から人影が見える。
そこには、一人の少女が立っていた。