Episode-4-4
どことなく、身体が軽い感じがした。
俺は起きあがって、真っ暗な周囲を見渡した。完全なる静寂。声がだせなかった。でなかった、という方が正しいかもしれない。そして俺はふいに、ここが現実世界ではないことを理解した。余りにも現実味がなかったからだ。
暗闇の世界で、俺の周囲を何らかのビジョンが通過している。
俺は自分の両手両足を見つめた。身体が湖のほとりで浮かんでいる印象だった。現代風に言えば、暗くした映画館の中で一人だけ空を飛んでいる気分。
そこにある世界の全てが普遍的でかつ俯瞰的なもののように映った。水族館に行けば魚が見れる。しかし持ち帰ることはできない。きっとここは記憶の海で映像だけを流す、回想とか走馬灯とか、それに似た何かかもしれない。ただの夢っていう可能性もあるが。
宇宙空間のような暗闇の果てから、隕石みたいにとある映像が飛んできた。
《これは……あの頃の……》
俺はその懐かしい香りのする過去の記憶に思いを馳せる。
今、目の前に映っているのは、小学生の頃に行ったキャンプ地だ。自然の息づく豊かな土地で、三角形や四角形などのテントが幾つも並んでいる。
確かこの頃は春。ゴールデンウィークの期間中に二泊三日の優雅なくつろぎ。春風が少し寒かったのと夜空が綺麗だったのを覚えている。
キャンプ場では、山の手ごろな場所にテントを張り、それぞれの家族が色んな形で自由を満喫している。ただ一組の少年少女だけが、父母のいるテントを離れて野原で佇んでいた。
『なぁ小乃実……もう泣くなよ』
『うぐっ……ひぐっ……だって、お父さんとお母さん、また喧嘩してるんだもん……』
少年が隣ですすり泣いている少女をなだめている。少年の方も説得の仕方が分からないのか、半ば混乱したような表情だった。だが、そのやり取りから二人の仲が睦まじいことは明白だ。
『きっと、すぐに元通りになるさ』
『でも……もしずっとこのままだったら、どうなるの? 小乃実、寂しいのはやだよ……』
少年は少女の疑問に答える為に、仰向けに寝転んで青空を眺めていた。そうして起きあがり、涙を流す少女に笑顔で言った。
『もしその時は小乃実が寂しくないように、おれがずっと側にいてやるよ!』
────透明になっていくように、ゆっくりと映像が消えていった。
再び、曖昧模糊な空間をただ彷徨う。
反対側から、別の映像が飛んでくる。これは夏だったか……デパートの中にいる店員以外の人が、ほとんど薄着の格好をしている。混雑する人波の中に、やはり少年少女の姿があった。
『じゃ~ん。はい、お兄ちゃん。お誕生日おめでとうっ! ヒカルお兄ちゃんも、またひとつ大人の仲間入りだね。しかもしかも、これはお兄ちゃんのイニシャル入りなんだよっ。愛がたっぷり詰まってるんだから、絶対になくしちゃダメだからねっ!』
少年は渡されたプレゼントに驚いて、その場で包装用紙を裂いて開封していた。さらさらの黒髪をなびかせる少女は、怒った言葉づかいと裏腹にキュートなステップで踊っていた。
『しきべつがんがあるんだな小乃実は、さんきゅー! でも……ほんとによかったのか、このハンカチ。今月のおこづかい全部使ったんだろ?』
『だってお兄ちゃん、毎年自分の誕生日に何も買ってもらってないでしょ。おれの分はいいから、小乃実の誕生日にでも当ててくれ、って。ちょっとかっこつけすぎなんじゃないっ?』
少年は気恥ずかしげに指で頬を掻いていたが、その表情に後悔はなさそうだった。
『もちろん、おれはかっこいいしやさしいお兄ちゃんだからなっ』
『ふ~ん、そうなんだ? でもそのかっこいいお兄ちゃんは、さっきデパートで道を教えてくれたキレイな女の人見て、鼻の下伸ばしてたよね……?』
ふてくされて唇を尖らせる少女に、少年は頬を染めて抗議していた。それを聞いた少女は更に、少年への追撃の手を講じる。
『やっぱりお兄ちゃんは、ああいう大人の女性が好みなんだ。栗色の髪で、胸が大きくて、スカート履いてる女の人が。男って、ほんとにすけべな顔して女性を見るよね。ちょっとケーベツ』
『べ、別にそんなんじゃないぞっ。ただちょっと、綺麗な太ももしてたなって……』
『それって言い訳になってなくない……?』
映像はそこで途切れた。
《やっぱり、これは俺の過去……小学生の頃に体験した、妹との思い出……》
また元の世界に戻ってくるが、きっと次の映像がやってくる。俺の中でなんとなく確信に近いものがあった。
季節は、またも夏だろう。
俺は新しく飛来してきた映像を懐かしむように眺めた。
そこは公園だった。大分日の落ちた夕暮れ、小学生がここにいるのは場違いなほど、空は暗くなってきていた。そんな時間帯で家にいないのには、きっと理由があるのだろう。大事な理由が。
少年は水飲み場で布を濡らして、ブランコに座って泣いている少女へと駆け寄った。
『もう泣くなよ。ちょっと痛いかもしれないけど、がまんしろよ?』
『…………ぐすっ』
少女の腫れた頬に、少年は濡れた布を当てた。
俺は、どうして少女が傷を負ったのか知っている。別に転んだわけでも、歯医者に行ったわけでもない。ただちょっと、見てはいけないものを見てしまった。そしてそれの二次災害のようなもの。
『……何かのまちがいじゃないのか。お母さんが、そんなこと』
『……小乃実もそう思いたい……けど、あの男の人を見たのは、三回目だもん……』
少女が僅かに地面を蹴って、ブランコが軽く軋む。布を少女に預けて、少年は隣のブランコに座って小学生らしからぬ深刻な表情をしていた。ある程度の腫れがひくと、少女は布を胸ポケットにしまい込んだ。
『おれも、一度だけ見たことある。てっきりおれも、どっかのセールスマンだと思ってた……だって昼間にお父さんと同じような格好で家に入ってったんだ、そんなの分かんないだろ……』
『小乃実もお母さんのこと信じてた……でも、見ちゃったんだもん』
『何を見たんだ……?』
『……その人とお母さんが、ハダカで抱き合ってるとこ』
少年は少女からこういう風に話を聞いていた。体調不良で学校を早退。一度家に連絡を取ったが誰も電話にでず、少女が自宅に入ったら『母親が男性に馬乗りになっていた』と。そして母親に見つかり他言禁止と暴力、自分の罪をまとめて妹になすりつけて事件をうやむやにしたのだ。
少年少女はその夜、仕事を終えて戻ってきた父親が、『言い訳用にセールスマンが持ってきた食材で作った母親の手料理』……それを美味しいと言って食べている姿を直視できなかった。
《ふぅ……》
映像が手元から離れる。
俺はため息を吐いていた。だが、そんな俺の戸惑いなど関係ないかのように、すぐさま新しい映像が浮かんで、物語の続きを見せつけ始めた。
ぱしん、という音が急に響いた。
少女が母親に叩かれたのだ。少年はそこに割って入った……だが押し飛ばされてしまう。母親に、ではない。その近くにいたセールスマンに、だ。
その場所は居間だった。父親よりも一回りは若い男性が、いつものすがすがしい笑顔など微塵も感じさせない悪辣な顔つきでネクタイを締めなおしている。母親は妄信しているようだった。自分の救世主に嘘偽りはないと、本気で信じていた。
少女が叩かれた理由は、父親に母親の浮気を暴露したからだ。そして母親の怒りを買った。会社で連絡を受けた父は、仕事を放りだして自宅に全速力で向かってきている。家族が崩壊するのも時間の問題だった。
少年が母親に訴えると、そのセールスマンと母親は一緒になって笑っていた。二人はお似合いというほどに相性が良かった。少なくとも母親はそう思っていたに違いない。
母親が口にした父親との絆はこうだ。まず、自分を大事にしてくれなかったこと。次に、地味で格好悪かったこと。そして、お金がなかったこと。
最後に、自分はあいつのせいでみじめな人生を送った。あいつが憎い。あいつの血が流れているお前達子供が憎いと、そう言い放った。一体どこで間違えてしまったのか……少年少女が好きだった母親の姿は、かつて栄華を極めた王国のように脆く崩れ去っていた。
父親と母親が愛を語ったことは間違いなくあった。ただ不幸にも、年月、環境、孤独、幾つもの相違とすれ違いを経て、現実は誤ったレールの上を走り続けてしまった。辿りついた先には希望も可能性もない、破局という名の終着点。もう──終わったのだ。
地響きのような激しい音が聞こえた。帰ってきた父親が怒りのままにセールスマンに食ってかかったのだ。母親を殴らなかったのは、多分まだひとかけらほど、父は母親のことを信じていたに違いない。というより、想像が現実に追いついていなかっただけかもしれない。
少女の胸ポケットからハンカチが落ちた。母親はハンカチを拾いあげて、皮肉たっぷりの言葉で言った。お前は私の財布から盗んだお金でこれを買った。お前は犯罪者だと。
これは父親から後で聞いた話だが、そもそも少女は月のお小遣いすらもらっていなかったらしい。だから少女はお金を盗んでハンカチを買った。それを母親は見ていたのだ。
少女は抗った。それは少年の誕生日プレゼントに買ったもので自分のじゃないと。その願いは裁断という形で切り捨てられた。近くにあったハサミがハンカチを分割して……散った。
《…………》
映像は消えた。そして縦横無尽に飛び交う数え切れない物語。季節は夏を過ぎ、離婚が確定する。秋は冬のような寒空が続いた。嵐は過ぎ去ったというのに、家族の間には埋めることのできない空白が存在していた。
──そして冬の到来。小学生もそろそろ終わる二月の中旬だ。
雪が降っていた。そして、中型自動車の横転、横断歩道、人だかり、曲がったタイヤ痕、サイレンの音、道路の隅で血を流して横たわる少女の姿……。
全ての映像が、遠い彼方へと消えていった。
《…………もう振り返らないと思ってたんだけどな》
この瞬間、俺の実妹だった霜月小乃実は死んだ。享年十二……計算するのも馬鹿馬鹿しい数字だ。
正確には十二になったのが、事故当日だった。神の寵愛を受けなかった妹のバースデイは、皮肉にも二月十四日……バレンタインデーという愛の交差点だった。
俺は闇底で横になった。
深く重たいぬくもりの中で、意識だけを走らせ続ける。もしこれが夢なら、もうそろそろ現実に戻るか、はたまた死へと直面するか、そのどちらかになるだろう。
そう思っていた矢先、俺の前に新しいビジョンが訪れる。
《どういうことだ、これは一体…………?》
その映像は、俺の知らないものだった。これは少年の夢の続きではなく、別の人間……少女の見たアフターストーリーだというのだろうか。
真っ白な病院の一室で、少女が目を覚ました。電灯とカーテンの隙間から、その時間帯が夜であることが窺い知れる。額と腕に包帯を巻いた少女は意識が鮮明でないのか、ここがどこか分からない様子で病室を見渡している。
白いシーツをすくいあげて少女はベッドから降りる。そしてこっそりと部屋を抜けだした。不安そうな顔をしたまま、おぼつかない足取りで彷徨う。そこで少女はふと、病室ではない部屋の明かりが点いていることに気づいた。
怖いもの見たさじゃなく、ただほんの気まぐれのような印象だった。少女は僅かに部屋の扉を開けて中を覗く。そこには椅子に座って紙を束ねる医師と、離婚した母親の姿があった。
内容が気になって、少女は口を開けたまま目を丸くして室内を凝視していた。だが、その表情がみるみるうちに変貌していく。小学生がしてはいけない、恐怖のまなざしだ。
その内容をかいつまんで、俺が解釈することにした。
まず、あの事故が故意ではないことを伝えておく。あれは本当の偶然だった。ただ、そこにつけ込んだ人物がいた。それが、この二人だ。
少女は、この時点では死んでいなかった。奇跡的に助かっていたのだ。それがゴッドハンドによるものなのか、少女の精神力のおかげなのかは定かではない。ただ、少女が一度息を引き取っていたことだけは事実だと、医師は母親に告げていた。
まず、この状況がいつの話かと説明しておく。これは医師が一度、父親と俺に死亡申告をした後、葬儀や冷凍保存に進む前段階の話だ。この二人以外、少女が生きているという事実を知らない。
医師は病院の経営不振に困っていたらしく、度々葬儀屋との共謀をしてお金を稼いでいたらしい。当然、資金は潤沢に満ちていく。しかし、一度その味を知ってしまえば後戻りは難しい。
そこで新たなビジネスを考える。嘘の死亡診断書をでっちあげて、書類上死んだ人間を発言力のある悪趣味な政治家達への貢物にしようとしたのだ。根回しは、実弾(札束)による献金という名目で解消される。
そして医師が準備を行っている間に、飛び入りで少女の人権を主張してきたのが母親だ。母親は少女を助けるどころか、育てたのは自分だから売り上げの何割かをよこせと言った。
少女は一部始終を目撃した。そして、悟ってしまったのだろう。
この世に神などいるはずもない。
いるとすれば、それは自分を救いあげてくれる者だけだと。
全身を震えさせる悪寒を感じたのか、少女はその場にいられなくなり暗闇の廊下を逃げる。行き先があるわけではなかった。ただ怖くて、夢中で走っているだけだろうことは明らかだった。
真っ暗な廊下の中で、体力の残っていない少女はすぐ息をせき切らせる。孤独が全身を支配する。
──その時、少女の前に一振りの剣が姿を現した。
まさしくそれは、俺の知っている魔剣だった。魔剣は少女の心に直接訴えているのか、少女だけが想いを理解したように、一人呟いている。
少女は戻った……病室ではない。目の前で医師と母親が驚いていた。迷子だと判断したのか、気さくなおじさんといった面持ちで医師が少女に近寄る。懐から飴でもだしそうな笑顔だ。
母親がツンとした態度で少女を眺めている。医師は少女が両手を後ろに回しているのを見て、自分の手を差し伸べて、さあ戻ろうと口にする。
──少女が決定的な答えをだした。
宙に医師の腕が飛んでいた。医師と母親が事態の急変に叫びあがる。
その後は……俺はもう答えたくない。ただ、真っ白な室内に紅いものが散乱したとだけ伝える。
二時間映画を見終えて映画館をでてきたくらいの表情で、廊下にでた少女は安堵していた。
少女は魔剣と会話をしている。運命、刻印、俺の名前、そんな知っている単語がでてきた。三年後に、自らの人生を賭けた神託が降りる、その未来を待て……というものだった。
現実を理解した少女は、口元を歪ませる。幼い唇を押し広げて、自分自身に言っていた。もうこの身体は必要じゃない、全てを受け入れる為に過去の自分を抹消する、と。
魔剣の放つ黒い液体に飲み込まれた少女は、服ではなくその姿形を変えた。それは、いつか見た女性をそのまま幼くしたよう。栗色の髪に、女性らしいプロポーション。病院着の少女は、もうすでに霜月小乃実と名乗る人間ではなかった。
その瞬間、小夜実という存在が誕生したのだ。
少女の一生を描いたドラマが、突如現れた白い波に飲み込まれていく。自分のいた宇宙空間が不規則な乱れをともなって瓦解する。
俺は淡い輝きの中に包まれた──。




