Episode-4-1
明かりの灯った室内で、秒針が鼓動を刻んでいる。
テーブルに貸してもらった衣服を置く。腕に通される白いワイシャツ、黒いズボンにベルトをはめる。俺の身体はシワのない綺麗な学生服に包まれた。
これも『彼女』がやってくれたおかげだ。
俺は銀髪少女の使っていた小さなポシェットに、もし再会した時に変態扱いされないよう、タンスから拝借した女性物の衣服を強引に詰め込む。それを肩から引っ提げて準備は整った。
いや、肝心なものが残っている。
立てかけてある布の巻かれた聖剣を、右手でぎゅっと握り締めた。
こいつと付き合うのも正真正銘これが最後だ。短い付き合いだったけども、こいつには世話になった。もし聖剣がなかったら、俺は運命に導かれなかっただろう。
俺は左手に刻まれた紋様を見つめた。
小夜実……俺の大事な妹。結局あいつには大したことをしてやれなかったな。俺が亡くなったら、きっと散々に怒られるだろう。
凌真。俺に付き合わされて随分遠いところに来てしまったな。なんて愚痴にしてしまったら、いつものようにまた呆れられてしまうかな。
フラン。馬鹿なクセに意外なくらい良い奴だったな。あいつの処遇は俺じゃなくて閻魔様に任せた方が無難だな。
左手に刻まれた印を潰すように、強く拳を握りしめた。
月森……唯。俺も彼女も、まだ世界の何も知っちゃいない。見つけるんだ今度こそ。誰もが信じる新しい未来を進んでいく為に。
周囲を見渡せば、四十二型の液晶テレビ、棚にはフラン愛用のシェイク・スピア全集、唯の戦場である台所。ひとつひとつが嘘偽りなくこの室内で息づいている。
俺にとって全てが宝物だ。失っていいものは何もない。
「さて、行くか……!」
俺の人生は、まだスターターピストルが打ち鳴らされたばかりだ。
曲がりくねったワインディングロードも、心臓を破るような急斜面も、今ここにあるほんのちょっとした坂道で躓けば終わってしまう。
だが、ここを乗り越えれば未来の展望は明るい。
「待ってろよ、みんな……唯。俺が必ず守ってやるからな……!」
俺はアパートを後にして決心する。
さよならじゃない、もう一度ここに戻ってこられるように。
※
学校からだと三十分、唯のアパートからだと二十分ほどかかる。
途中で街の境目を担う下り坂をこえて、俺は港湾にある倉庫地区へと来ていた。
青よりも藍色、藍色よりも黒色に近いそれは、ザザーッと手繰り寄せるような音の波をうねらせる大海。風に乗って運ばれてくる僅かな潮の香り。少し離れたところでは、街並みのネオンが海を色濃く照らしている。
微風の吹く深夜、遠くにある漁船の方には遠出をするような船は見られない。ただ一隻だけ、始まりの汽笛を鳴らして防波堤から離れる大型客船のクルーズが出発していた。黒波に揺られる船上で、街並みに負けない明かりが海を照らしている。
そんな光景を遠巻きに見守る人間が、暗い倉庫周辺にいるなど客船の乗員は知らないだろう。ましてや彼らは自由を称えて陸を離れたのだから。そして俺は、この仕事をやり遂げなくちゃ戻れない。
俺は聖剣をこさえて、かつかつと地面に足音を鳴らした。
海に反射する街の明かりが俺と、もう一人の影を映しだしていた──。
「……会いに来てやったぞ、凌真」
布が風とともに海の方へ向かっていった。
ちゃりっと響く聖剣の音。剣先が地面を掠めてきりきり音を鳴らす。
俺は、倉庫の壁で両腕を組む佐伯凌真に語りかけていた。
「へーえ、少し驚いたよ。まさか、あの女を見捨ててこっちに来るなんてさ。僕としては小夜実君と幽霊君の魂よりも、あの子を取ると思ったんだけどね」
もっと上機嫌かと思っていたが、凌真は喜怒哀楽のほとんどを見せず、数時間ほど前のような澄ました表情で出迎えた。
腰をあげて、俺の正面へと近づいてくる。黒模様の魔剣は、今まで見たことのないほどに逆巻く陰湿な波動を充実させていた。
「見捨てたつもりはない。ここで凌真、お前を倒して小夜実とフランを助ける。次に教会へ行って彼女を助ける。何もおかしいことはないさ」
俺はゆっくりと目を閉じて深呼吸。視界を開いて凌真を見据えた。
その行動が余裕と映ったのか、凌真が口元を一瞬だけ曲げた。
「……僕の話を聞いてなかったのかい? 答えは二つに一つ、選ばれなかった方の命は消すって、君にも分かるようにちゃんと説明したつもりだったんだけどね。僕の認識が甘かったのか、君が現実から目を背けたのか、はっきり聞きたいものだね」
夕方のときに凌真に与えた胸の傷。切れたワイシャツから凌真のやや筋肉質な肌がのぞく。
俺はおどけて言った。やれるもんならやってみろ、と。
凌真は途端、不敵に笑った。
「…………ハハハハッ、やっぱり君は馬鹿だよ。真実から自分を見失った人間の成れの果てさ。君は恐らくこう考えている。これは僕のハッタリで、影は直接僕の命令を受けないと行動できないと。でも残念だね、僕がひとたび合図を放てば、影はたちまちに女を喰らい尽くす。頭も腕も、いや、もしかしたら影の中にも下衆な考えを起こす奴がいるかもしれないよ。そうなったら、君は一体どうするつもりなんだ?」
髪をくしゃくしゃにして、凌真は狂気的な笑い方をした。
だがそれも束の間、俺を睨みつけて僅かに怒りを含んだ口調で喋り始める。
「……僕は、君のその一本気に見えて優柔不断なところが大嫌いだ。全然、目の前のことが見えていないんだよ君は。いいかい、見てなよ?」
凌真は腕を暗闇の空へと伸ばした。中指を、親指で押さえている。
指を弾くほんの些細な行為。
パチンッ、と周囲に音がひびいた……それは波の音に混ざって、あっさり掻き消えた。
「…………これで、あの女は死んだよ。こうなったのも全て君が悪いんだよ。君が素直に教会に向かっていれば、あの女を死なせなくて済んだのにね。ほんと、残念だよ」
やりきった表情の凌真に対して、俺は何故か落ち着いていた。
自分でもはっきりした理由は分からない。だが、これはもしかしたら俺がどこかで経験した答えの中にあるのかもしれない。
「だけど、その時はフランの魂、そして小夜実の魂も消してしまうんだろ? 俺は決めたんだ、俺が守れる全てのものを守るって。その為に凌真、俺はお前の命も救ってみせる!」
怒りと笑いを繰り返す凌真は、ついに呆れ果てたのか、乾いた言葉を俺に打ちつける。
「全く、優柔不断ここに極まれりだね。僕を守る? 君は自分の立場が何も分かっちゃいない」
「……そんなこともないさ」
ふんと鼻を鳴らして、凌真は空中へ黒く濁った物体を投げた。
魔剣が怪しく光る。黒い闇の波動が少し先の地面にぶつかり、そこから一本の黒塗りの街灯が築かれた。倉庫地区を眩い炎が照らしだす。
そして、黒く濁った物体──フランの魂が、炎より真下で捕縛された。形として、街灯に炎、魂の順で吊るされている。炎で焼かれる太いロープのようなものは、下で括りつけられた魂へと向かって、ゆっくりと伸びていた。
「これは魂を使った炎の砂時計……普通マッチは炎が盛らないように上向きに持つだろう? そしてゆっくりと下降していく。これは、あの魂に課せられた虚無までの道程。およそ一時間が、あの魂が消滅するまでのタイムリミットだ」
雄弁に物語る凌真に、俺は水をさした。
「……小夜実の魂は使わないのか?」
「フフッ、それは後のお楽しみさ。さて真剣勝負を始めようか。時間もないことだしね」
暗がりを照らす橙色の灯火が、俺と凌真、二人の傍らに柱のような影を描く。
合図はない。ただ漠然と、魔剣を構えた凌真が斬りかかってきた。




