Episode-1-2
時間は淡々と過ぎ、気がつけば時計の針が昼休みの始まりを教えてくれていた。
あの後、俺は二時間目の授業が終わってから一枚目の手紙の中身を覗いた。めくった紙には繊細かつ丁寧な字で『昼休みに校舎裏で待ってます』と綴られていた。何とも短い文章だ。
だけど、それ故に想いがこもっているのかもしれない。
真面目な文章を書くとき、自分にも僅かながら経験がある。たくさん書いたそれっぽい文の中から、いかにも大事そうなもののみを取り上げる。これが正しいだろうか、相手には何が伝わっているのだろうか、そもそも書いて本当に良かったのだろうか。染み出るインクが心を締めつける。
太陽が最高の日差しを俺に届けてくる。陽と陰の詰まった手紙の内容を、果たして自分は受け止めることができるのだろうか。悩むにしては時間が足りない。
考えるよりも足を動かす。心は揺れている。臆断に頼り歩を進める。意を決める。だが震える。そして悩んで、答えに理と価値と大事だと思う気持ちを込めていく。
きっと相手も同じはずなのだから。
同級生に見られると良い気分にはならないので、俺は普段通らない廊下から学校の外へ向かっていた。
多少汚れたタイル。清掃は行き届いている。生徒の数が減って使われなくなったのか、鍵のかかった教室が一直線の廊下に並んでいる。通り抜けるたびに教室の中を見るが、何とも殺風景だ。
「あれ」
俺は立ち止まった。
特に用事などあるはずもない教室が、なんとなく気になってしまったんだ。料理の匂いに釣られるような感じで、足が勝手に地面を踏みつける。
扉についている小窓から、教室の中を眺める。隅に積まれた机と椅子。教壇すらない。何年前かも分からない掲示板についた取り忘れの用紙。そして、カーテンで覆われて全体が薄暗くなっている。
存在感としては普通。特に何もない、そこにあるだけの、ただの教室だった。
俺は一体、何を気を取られているんだろうか。
蕩けた頭に活を入れて、意味のない行動から離れる。
──その瞬間、どくんと心臓が爆ぜた。
凄まじい居心地の悪さに振り返る。しかし、眼球を見開いた視線の先には、さっきと同じような光景の教室があるだけだった。
何の変化も見られない。けれど、確実に感じたんだ。果てしなく長いトンネルを一瞬で突き抜けたような、とてつもなく形容しがたい、『何か』の濁流が。
全身の毛穴が汗を流すことも忘れて伝えてくる悪寒のようなもの。俺だけが感じたんだろうか。
……いや、考え過ぎだろう。きっと、慣れない手紙なんかもらうから萎縮しているんだ。きっと、手紙の主が待っている。先を急ごう。
俺は全て忘れて、校舎裏を目指した。
何故か、左手に蚊に刺された程度のちくっとした痛みがあった。
※
校舎裏、遠くにはグラウンドが見える。当然、中庭くらいなら生徒がいるだろうけど、昼休みにわざわざ校舎裏に来る人物もいない。周辺には自分以外の人影が見当たらなかった。
まだ、誰も来ていないということ。
日陰のある壁にもたれて、一息つく。フェンスの先からは住宅街特有の喧騒と鳥の鳴き声が聞こえてくる。それだけ静かで、平和ってことだ。
近くに剣道部の部室の窓がある。まぁ、この時間には誰もいないし、そんな練習熱心な人間はいない。いたとして凌真くらいだろう。
五分くらい時間が過ぎた頃、校舎の角から足音がした。ひょいと飛び出したもの、それは葉の生い茂る枝だった。
「…………」
葉っぱがチアの持ってるポンポンみたいに動いている。いかにも自分はただの葉ですよと言わんばかりの行動。葉が二、三枚ほど零れ落ちる。目で追うと、その真下には思いっきり人影が。
細い身体つきでセミロングくらいの髪、スカートの形。内股。はぁ、何をしているんだか。しょうがない、一芝居打つか。俺は軽く咳払いをした。
「あ、あー。今日はこんなに天気がイインダナー。誰か分からないケド、こんな良い日に外に連れ出してくれるなんて、スゴイ気がきく子ナンダナー」
「…………」
葉っぱがバサバサ揺れている。効果はあるようだ。
「でもなー、来ないんじゃあ仕方ないヨナー、モノスゴク美人で可愛くて、人を立てるのが上手で、料理も得意な、ソンナ女の子が来てくれると思ったノニナー」
「……ッ!! …………ッ!!」
すごい反応だなぁ。
「さーて戻るかぁ」
最後の押しに、この場から踵を返す。そのとき、枝がからんころんと地面に落ちた。
「ま、待ってぇ……」
「よう、小夜実。元気そうじゃないか」
軽く冗談を言ったが、俺の前に姿を現した霜月小夜実さん十五歳は、可愛い顔が台無しになるような半ベソをかいて目を潤わせていた。少し反省する。
「う~、うぇっく……ひどいよお兄ちゃん……」
「悪かった悪かった。ほら、ハンカチ貸してやるから」
ポケットから出したハンカチを渡す。
「うう~」
「こら、ハンカチを食うな。涙を拭け!」
「うう~」
「三角巾じゃない! 鼻結びもダメ! く、首に絞めるのはやめてぇ~!!」
やっとハンカチの一般的な使い方をしてくれた小夜実。やっぱり確信犯なのだろうか……。
とりあえず落ち着くのを待った。その間に携帯電話で時間を見る。昼休みが終わるまであと十分くらいか。
「落ち着いたか?」
「うん、ごめんね……」
俺も覚悟を決めて本題に入る。制服のポケットから手紙を取り出した。
「これさ、小夜実がくれたのか?」
率直な言葉。遠くで通り過ぎる車の排気音が聞こえた。
「…………はい」
それが、彼女の返事だった。
「これは、俺と恋愛関係の目で見て欲しいって言うことだよな?」
小夜実は首を振って肯定した。
もう一度言う、霜月小夜実は霜月光の義理の妹だ。たとえ短い期間の兄妹仲だったとしても、俺は小夜実のことを実の妹だと思って接してきた。勿論、小夜実が女としての性に欠けていると言うわけじゃない。引き寄せられるものはある。
内実、俺は妹として小夜実を見たい理由があった。それは……。
「分かった。俺は小夜実を彼女として受け入れる」
「えっ……お兄ちゃん?」
承諾をしてくれるとは思っていなかったのか、小夜実の顔はきょとんとしていた。
「ただし、条件がある。俺は小夜実のことを可愛いと思うけど、やっぱり自分の中では、小夜実は本当の妹なんだ。兄としての信頼がなくなってしまうことも怖い。けど、それでも小夜実が良いって言うんなら、高校生活の間だけは……俺は小夜実を彼女にしたい。こんな答えしか、俺は出せない」
これが、俺の考え抜いた、精一杯の小夜実に対する気持ちだった。
「お兄ちゃん……分かった。わがまま言ってごめんね」
小夜実の掠れる声が、今は少し胸に響く。
「下の名前で呼んでもいいんだぞ」
「ううん。今のままでいいよ。これ以上は欲を出しすぎだと思うもん。ありがとうお兄ちゃん。小夜実のことを受け入れてくれて」
「ははっ、どういたしまして」
ぎこちない会話が、少しずつ笑いに変わる。
今日、俺と小夜実の関係が変わった。兄と義妹から、彼氏と彼女になった。三年後にどうなるかは分からないが、これは新しい人生の道標。これから少しずつ変化していくだろう、時間の許す限り。
話が終わったところで、携帯電話を取り出す。ちょうど同じタイミングで、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
「しまった、急いで戻らないと」
小夜実に行くぞ、と促す。
「お兄ちゃん。まだご飯食べてないでしょ。せっかく最高のお日柄なんだから、ここでお弁当食べようよ」
壁によしかかり、地べたに腰を下ろした小夜実は。どこに持っていたんだか、弁当を用意していた。しかも、鞄に入っていたはずの俺の弁当まで。
「全く呆れたよ。小夜実がこんなに悪い子だとは思わなかった。高校では皆勤賞目指すつもりだったんだぞ? ……今回だけだからな」
俺も同じく小夜実の隣に座り込んだ。
「えへへ、やっぱりお兄ちゃんは優しいなぁ!」
「良く言うよ弁当まで持ってきておいて。もし俺が小夜実をフってたらどうしてたんだ?」
「う~ん……その時は笑顔で去って、明日からお兄ちゃんの弁当に毎日少量の毒を盛ってたかも」
「まじですか。それは色んな意味でいただけないなぁ……」
今頃は凌真の奴が心配しているかもしれない。
ただ俺は、小夜実のことを大事にしてやりたいんだ。
三年前に事故で亡くなった、妹の為にも──。