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ミルフォードの刻印  作者: モカブレンド
Episode3-月下の選択-
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Episode-3-7

 時間は七時半くらいだろうか……夕闇は過ぎ、既に夜のとばりが眠りから覚醒しようとしていた。


 店員のお礼を背中に聞かせて、俺はコンビニの自動ドアを抜けた。店の名前が書いてある手提げの白い袋を拒否し、かっさらうように金を撒いて塩を掴んできたのだ。


 とにかく時間がない。フランの言葉を鵜呑みにすれば、月森は死んでしまうのだ。


 今はただ、一分でも一秒でも早くアパートへ戻ること。その為に俺は息をせき切らせて、ただひたすらに灰色のコンクリートの上を疾走する。


 いつもより早く流れる住宅街の風景の最中、先刻の記憶が脳裏を這いずる。


 今にして思えば、フランも月森も俺に隠しごとをしていた。そんな兆候は確かに、断片的でも存在を有していたはずだった。ただ俺が、その綻びに気づかなかっただけ。


 アパートからコンビニまでの距離は徒歩にして五分。だというのに、その長さが遠いものに感じるのは、俺が焦っているからだろうか。


 朝食を食べている時、月森が塩のことを口にしていた。その時は、何の変哲もない言葉だと思っていたが、もしかしたら月森は、こうなることを想定していたんじゃないか。


 だとしたら俺は、やはり救世主失格だ。傍にいる人間のことも分からず、知ったような気になって肝心なところでは何もできない。俺は何も変わってなんかいないんだ。


 苦痛を訴える足に渇を入れて、がむしゃらに走る。


 俺は、周囲のことなど微塵も気にかけていなかった。


 薄暗くなった住宅街で、身近に通り過ぎる人の気配がなかったことにすら。


 ──ザン、という音が響いた。


 突然の出来事に立ち止まる。しかし、その時点で俺は自分の行動が一手も二手も遅れていたことに気づかされた。


 自分の身体に異常はなかった。


 代わりに、持っていたはずの塩袋が真っ二つに裂かれ、中身が地面に放流していた。間を置かずに俺の首元でぎらつく黒模様の剣。


「……凌真」


「フフフッ、武器も持っていないなんて無用心だね。まさか、都合の良い時だけ現れない子供向けのファンタジーでも期待していたのかな?」


 灰色の大地に築かれた塩の山と剣とを見比べて、俺は自嘲気味に「通してくれ」と呟いていた。


 もちろん、理屈でどうにかなる相手でないことは分かっていた。魔剣に支配されている凌真には、俺の声が届くはずもない。案の定、俺の言葉は無言に遮られた。


 丸腰で勝てる相手じゃない。死を悟ったのか、あがきのつもりだったのか、自分の思考すら理解できずに俺は片割れの塩袋を握ったまま両手をかざしていた。


「ハハハハハッ! 何だいそれは、降伏宣言のつもりかい?」


「…………っ」


「ハァ~、君ってやつは、本当に落ちこぼれたもんだね。今の君からは腐った肉の臭いしかしない。獣だった方が、まだマシだよ」


「……何とでもいえ」


 俺の喉頭を舐めるように剣が、つ……と一筋の傷を描いた。既に俺の安全を保障してくれるものはどこにもなく、百獣の王の機嫌だけで命の采配が決定する。


 あてがわれる剣の冷たさに、俺は死を覚悟した。


「行きなよ」


 予想外の言葉が俺の耳に浸透した。驚きに目を寄せた時には既に切っ先はなく、石壁より先にある民家の屋根で直立していた。


 声をかける寸前で、凌真は背後にそびえる淡い月の中にまどろみ、音もなく消えた。


「凌真……どうしてだ、どうして、お前は……」


 目先に絡む月夜を振りほどき、俺は地面で嘆く塩を上着を袋代わりにしてかき集めた。


 大地を蹴る足音が、再び息を吹き返す。


     ※


 カン、カンとアパート外の階段を登り二階にあがる。


 扉を幾つか無視して、月森の部屋へ一直線に邁進、電灯のついた部屋の中に入って、圧迫された肺から無理矢理に声を張りだした。苦渋と悲痛に煽られた声で。


「フラン、ごめんっ……俺、こんだけしか、持ってこれなかった……」


 言葉を紡ぐと同時に、抑えきれない劣情が涙となって頬をつたった。


 かき集める途中、狭い道幅に大きめのワゴンが通過、塩が圧縮されて残りは風に乗る。散った塩の中から息をしているものだけを胸にかき抱いて、上着の袋に入れて持ってきた。


 全部ひっくるめても、手のひらに収まるサイズの量しかない。


「……いや十分じゃ、ありがとうなヒカル」


 首の傷を見て様子を察したのか、フランはそれ以上何も言わなかった。ただ無性に、自分の非力さが悔しかった、人の優しさが痛かった。それだけだった。


「月森……」


 今だ嗚咽を漏らしている清廉無垢な少女の姿は、症状が目に見えて進行していた。


 足から進行しているものがスカート目前まで、それに手と首周り、服で見えないがきっとお腹部分も汚染されているんだろう……。その全てが青黒く湿疹のように変色していた。


 額にべったりと張りついた髪の毛を振り乱し、抱える聖剣を壊しそうなくらい、神経を侵す疼痛に

悶えている。月森の笑顔を思いだす度に、現実から逃れたくなった。


「とりあえずユイの服を脱がして、風呂場まで運んで欲しい……すまんな」


「……分かった」


 頷いて、俺は聖剣を腕からはずし、湿った月森の衣服に手をかけた。


 彼女の身体を抱きかかえて、両手を伸ばさせた状態からカットソーを剥がす。汗と香水の混じった甘い柑橘系の香りが鼻腔に吸いつく。


 支えているだけでも伝わる少女の肉感。月森の身体はとても軽かった。先日とは別の薄着も脱がして、繊細で淡い柔肌との境目が区別できないくらい純白のブラジャーが、緩やかさの中で張りのある曲線を維持しているのを見てしまう。


「……はぁン……く、ふぅん、ハッ……あはぁ……」


 嘆息とも知れない月森のくぐもり声を耳に受けつつ、俺はしおれたフレアスカートに親指を引っかけてずらす。


「んんくッ……! ひゃ、あンッ、ふあぁ……ン」


 少女の口から唾液交じりの言葉が垂れる。片足をあげてスカートを脱がすと、股に逆三角のラインを描いた月森の鼠蹊そけい部。そしてブラと同じ白地のショーツが露出した。


「あふ……ん、ヒ、ヒカル、さまぁ……はぁ、ン……」


 僅かに意識を取り戻していた月森が、紅潮した頬で俺に見惚れている。水面で波打つような月森の瞳が、俺の瞳を捉えていた。


「……待ってろ、必ず、何とかしてやるからっ……!」


 言葉はなく、代わりにあどけない表情で微笑んだ月森。俺は彼女を抱えて立ちあがり、風呂場へと向かった。


「こんな感じでいいのか?」


 フランの指示に従って、俺はアパートのやや小さめに設計された浴槽に少女の身体をそっと横たわらせた。蛇口を捻って、その中にぬるま湯を溜める。ザバーッという勢いのある水音とともに、月森の身体がぬるま湯に浸されていく。


「うむ、これで大体準備は整った。ついでに、聖剣も浴槽にぶち込んでおくとしようかの、そのうち効果が発揮されるじゃろうし」


 持ってきた聖剣を月森の隣に添える。


 月明かりだけを頼りに映しだされる光景は、どこか童話のような現実世界とずれた不思議な雰囲気を醸しだしていた。浴槽の水が夜空に融和していくような情景を見つめる。


 そんな中、フランがおもむろに言葉を発した。


「……アンラ・マンユの呪い。ユイの全てを知るには、お主がそれを理解せねばならん。これから成すことも、ユイを助ける可能性をあげる為にもな」


「呪い……?」


 水位のあがっていく浴槽に視点を置いたまま、フランは神妙に語る。


「三年前の冬の話じゃな……最初のお告げを聞いて聖剣の持ち手を捜していたものの、具体的にどこで何が起きるかは分からんかった。手詰まりになってはいたが、ユイとの楽しい生活を過ごしていたある日……事態は急展開を起こした。ユイが突然、昏倒して意識を失ったのじゃ」


 倒れたというのは、今日と同じようなことが起きたって解釈でいいんだろう。


 俺はフランの言葉に耳を傾ける。


「症状は今と同じじゃ……その時はわしもどうしていいか分からず、気を失ったユイの前で狼狽していただけじゃった。具体的な解決方法が分からず、あれこれと自分にできる何かを模索した」


 僅かに浴槽の水が溜まり、月森の両足が沈み込んだ。


「唯一、望みがありそうなのは部屋に飾ってある聖剣。魂だけの状態なら人間に乗り移れるとか、よくある話じゃろ? あれを実行したらユイに乗り移れての。凄まじい痛覚を共有したまま、聖剣にすがった。すると聖剣が暖かい光を放って、ユイの身体を癒したのじゃ。それ以降、ユイは聖剣を抱えていないと呪いに侵される身体になってしまった」


「そうか、だからずっと聖剣を抱えていたのか……」


 断片的だった謎が一点に集約し解決した。聖剣に依存していたのはフランの方じゃなく、月森の方だったのか……。


「聖剣の恩恵を得られてからは、多少手放しても影響はなかった。しかし、長時間放していると、今のような状況になる。……本当は、最初にわしの口から説明しようと思ったんじゃがの」


「フランは、聖剣を使うことに反対だったのか?」


「……反対も反対、大反対じゃ。三年前の日、ミルフォード家の歴史などというつまらないこだわりを破棄して全てを諦めるつもりじゃった。当時のわしには、ユイ以上に大事なものなど存在しなかったからの」


 何故、という疑問に天啓が走る。


「……月森が、諦めなかったのか」


 フランは肯定した。


「ユイは本当に他人のことばかり心配する、本物の大馬鹿者じゃ……自分だけ大切にしていれば幸せに生きられたものを、自分が投げだしたら魔剣によって苦しむ人がきっと現れると、嫌な顔一つせずに言いきったよ。そうして、第二の啓示が出現した。とある学校に訪れる悲劇、霜月ヒカルという人物、聖剣の担い手が全ての暗黒を振り払ってくれることを告げた」


「……全部、知ってたんだな」


「ああ。その日から、ユイにとってお主は紛れもない救世主になったのじゃ」


「月森……」


 浴槽に半身を預ける少女を見た。


「……さて、話はここまでじゃ。ヒカルよ、今から『聖水』をつくる。アンラ・マンユと相反する善の創造神スプンタ・マンユに祈りを捧げて聖なる力を水に享受してもらう。良いか、聖水を聖水たらんとするものは『清き心』じゃ。お主がユイを想う気持ちが強いほど、聖水は効果を発揮する」


「分かった……俺にできるか分からないけど……いや、やってみせる。俺を救ってくれた月森のように、今度は俺が月森を助ける番だ」


 俺は衣服に包んだ少量の塩を浴槽に流してかき混ぜる。


 準備は完了した。後は、祈りを捧げるのみ。


 月森を助けたいという気持ち、短い日常の中で培った彼女とのノスタルジアを総動員する。


 思えば、助けられてばっかりだった。自分で守れたものは何一つなく、彼女のぬくもり、俺を思って選んでくれた食材、心のこもった手料理、貸してくれた衣服、優しい笑顔、どれを取っても、死神に譲ってやれるほど生易しいものは存在しない。


 神様を信じたことはない。けれど、それでも今ここで月森の命を救ってくれるなら、俺は賭けてもいい。いるかさえ分からない神にじゃない。俺に手を差し伸べてくれた、彼女の中の神様に。


「……その神様ってやつはキリストのように十字を切るのか?」


「いや、わしにも分からん……。ただきっと、通じると信じて祈るしかない。ヒカルよ、わしからの一生のお願いじゃ、ユイの未来の為に、ただ祈り続けてくれ…………頼む」


 湖のほとりのように、水面に月の柔らかい輝きが満たされる。塩の混じった水が、月森ユイという誰かの為に必死になって生きた少女の命を包み込む。


 俺は両手を合わせた。


 フランも同じように指先を絡めた。


 まるで雨の恵みを待ち続ける行為のように純粋に祈りを捧げる。


 たった一人の少女への奇跡を願って──。


     ※


「──わしは、外にでておるぞ」


 フランがぽつりと呟いて、風呂場から退出した。


「月森……」


 俺は浴槽で眠る少女を抱き寄せた。


「ヒカル、様……」


「……意識が戻ったのか」


「はい……おかげ、さまで……」


 まだ少し青白い顔をした月森の全身を眺めた。そこには、まっさらとした彼女の素肌があり、本来の姿を見事に取り戻していた。


「良かった、本当に良かったっ……!」


 俺の目尻から産み落とされた塩っ気のある雫が、浴槽の『聖水』に混じる。


 祈りは成功していた。聖水が月森の五体を清めて、呪いを浄化したのだ。どこを触っても、一切の陰りを払拭した、美しきたわやかな月森の肢体だ。


 俺はうん、うんと納得するように頷いた。


「あの、ヒカル様……」


「どうしたっ、どこか、痛むのかっ……?」


「いえ、その、あまりカラダを……凝視しないで、下さい……」


「あっ……わわ、悪いっ……でも俺、すごく嬉しくてっ! 月森が無事で、嬉しくて……!」


 涙が止まらなかった。


 俺は月森の背中に手を回して、強く彼女の感触を確かめる。


「……ヒカル様、あの、その……そんなにしなくても……」


「駄目だ。支えなかったら、沈んでしまうだろっ……」


「……半身しか浸かってないので、沈むことは……ないですよ」


 それでも月森は嬉しかったのか、同じように俺の背に手を回してくる。


「……ごめん。俺は月森のこと全然守ってやれてなかった。救世主だなんだって言われて、どこかで浮かれていたのかもしれない。月森に甘えていたのかもしれない……だから、ごめん」


「そんなこと、ないです……ヒカル様が、こうして守ってくれたから、だから私は、生きてる……」


 俺は生まれて初めて、誰かを守りたいと強く思った。


 それは運命的に俺の前に現れて、俺の人生を変えて、そして価値観さえも変えた。


 目の前にいる彼女の存在が、俺を変えたんだ。


「辛かっただろうに、どうして、ずっと隠し通してたんだよ……」


「……素直な心で、伝えたかったから」


「え……?」


 俺は顔を起こして、月森の表情を見た。


「運命の相手って、どういう人なんだろうって……ずっと考えてた。救世主になってくれて、私を助けてくれて、歴史を紡いでくれて……でも、それじゃだめだって、自分の心で、その人のことを見つめようって……思ったの」


「……月森」


「私が教えちゃったら、きっと一生その人のことを素直な気持ちで見れない。だから……私は聖剣の主をどんなことがあっても、支えようと思ったの……」


 月森が濡れた手で俺の髪を撫でた。


「初めて会った時のヒカル様は……すごい、怖かった。自分の縄張りを荒らされてるみたいに威嚇してて、やっぱり私が来ちゃいけなかったのかなって思って……泣きそうだった」


 彼女の銀色をした前髪が垂れて、柔らかい輪郭線がくっきりと見える。


「でも、屋上で会った時のヒカル様は、すごい悲しそうだった……。自分の守りたかったものがなくなって苦しんでて……私を好きだったお父さんやお母さん、それにフランと、おんなじ顔をしてた。だから、私が守らなくちゃって……」


 髪を撫でている指先が横顔をつたって、俺の頬を刻印の描かれた手のひらで触れていた。


「一緒に下校して、買物して、部屋で過ごして……思いました。やっぱり、ヒカル様は私が思ってたヒカル様だって……私の救世主だったんだ、って……それに」


 少女は言った。


「私にとって最大の幸福は、貴方がこの世に、生まれてきてくれたことだから……」


「くっ……うううっ……月、森っ……俺は、俺はさっ……!」


 彼女の身体をひとしきり強く抱き寄せる。


 俺は彼女の心に答えた。




「………………俺はさ、月森の救世主で、いいのかもしれない……」




「ヒカル様……」


 俺は首を振って涙を払った。


 伝えなきゃいけないことがある。今、伝えなければならないことがある。


 俺は必死になって口を開いた。


「……その、ヒカル様っていうのはもう卒業だ……俺の名前は霜月ヒカル……月森ユイ……お前のことを、もっと教えてくれ……お前のことを、知りたいんだ」


「はい……」


 月森は、いや──この呼び方とも近くお別れかもしれない。


 彼女の指先が、俺の背中で文字を刻んだ。


 いち、に、さん……。


 少し離れて。


 よん、ご、ろく、なな、はち、きゅう、じゅう、じゅう、いち……。


「……私の名前です。月森、唯……貴方の、貴方の名前を……」


 俺はくすぐったそうにぴくんと跳ねた唯の背中に漢字を刻む。


 難しくないシンプルな漢字だ。一から六までなぞって、最後に払えばいい。


「ヒカ、光、様……いえ、光。それが、貴方の名前……」


「少しこそばゆかったか? 指の感触はさ……唯」


「意地悪い質問……どう答えればいいの……光」


 月明かりの下、俺と唯の間で暖かな感触がそっと触れた。


 技巧もな何もなく、ただぬくもりを確かめるだけのキスだった。


 水に濡れたお互いの唇を重ね合わせる。柔らかな紡ぎあいが、心地よい夜想曲みたいに水の音色を奏でた。もう一度、そしてもう一度、唇をあてがい、相手の心を撫でる。


 この瞬間から、俺は唯の、唯は俺の救世主になっていた。

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