Episode-3-6
「はぁっ……はぁ、はぁっ…………くうっ……!」
月森を背中に抱えて、俺はアパートまで戻った。
今、時間はどのくらいだろうか……感覚からして、まだ六時にはなっていないはず……。
とにかく必死だった。
俺は夕暮れとは裏腹に蒼ざめた月森の表情を見て焦燥する。ポシェットから束になった鍵を取りだして、適当にはめ込んだ。
手が震えているのか、鍵が合わないのか、鍵を飲み込んだノブはうんともすんとも言わない。
何度かそれっぽい鍵を試して、強引にこじ開ける。
投げるように靴を飛ばし、聖剣を床に放り投げる。
動かない月森を居間の床に降ろした。
「……はぁ…………ふぅ…………はぁ…………」
「月森っ!」
肩を揺さぶるが反応はない。息は……している、が、動悸が荒い……握った時の手の体温が、異常に冷たい……額は、額はどうだ……?
おでこにある銀色の髪を掻き分けて、手のひらで熱を測る。
やはり、冷たい……三十五度もあるかどうか分からないように感じる……。
とにかく、身体を温めないと……!
炎天下には遠いが、夜の近くなったこの時間でもそれなりには暑い。だと言うのに、月森の身体は反比例してどんどん寒くなっていく。
一人だけ雪山で遭難したんじゃないかってくらいに肌が冷えている。悪い、月森……ちょっとタンスの中開けさせてもらうぞ……!
俺はタンスの中をひったくるように漁る。
一段目には薄着、二段目には下着……三、四、五と開けても暖房性に優れた服は出てこない。真夏に冬用の服があるわけもないか……。
そう言えば、寝室の方にもタンスがあった……もしかしたらそっちの方に……いやいや、厚着に時間をかけるよりも、毛布だ……毛布さえあれば……!
寝室の扉を開けて、押入れにあった毛布を持ってくる。
俺は毛布を広げて月森の身体を包んだ。小柄な彼女の体躯には少し大きめだが、今は余計なことを考えてる場合じゃない……。
みの虫のようになった月森を横に寝かせて、俺は様子を見る。
「どうしちまったんだよ、月森……!」
反応はない。閉じた睫は殻に引き篭もった貝のようだ。
おずおずと額に触れる、
「熱っ!?」
今度は、彼女の体温が急上昇している。額に粒状の汗がぶわっと滲み、断続的な呼吸がどんどん荒いものに変貌していく。
「痛い……苦しいっ……あ、くぅっ……!」
激痛に身をよじって、月森の背中が弓なりに反る。暴れる彼女を俺は懸命に押さえた。
どうすればいいんだ……。
俺はふらふらと彷徨う月森の右手を掴んで悲願を訴える。
フラン……フランなら何か分かるかも……ポケットから携帯を取りだして、時間表示を食い入るように覗き込む。六時、十三分……駄目だ、待ち合わせ時間は七時……多少早くても三十分は戻ってこないだろう……。
俺は急速にパズルが解けたような驚き方をした。
そうだ、聖剣だ。治癒能力のある聖剣を使えば、きっと回復に向かうはず……!
どたどたと部屋を駆けて、聖剣を回収する。それを月森の両腕にくるめるように握らせて、再び毛布で身体を閉じた。
「月森、大丈夫か……?」
「はぁ……はぁ……あ、うくぅ…………っ!」
何も変化がなかった。月森は依然として痛みに悶えている。
こうなったらしょうがない。俺は携帯電話を取り出し、電話帳に控えてある市内の病院へ電話をかけることにした。手が震えて上手いこと目的の項目を開くことができない。
ようやく番号を発見して電話をかけようとした時、俺の手首辺りを毛布から手を伸ばした月森が掴んでいた。
「……だ、だめ…………」
苦しげな表情からだされた声も、やはり苦しいものだった。
今にも滑り落ちそうな指で俺の腕を握っている。
「どうしてだっ……! そんなに苦しいんでるじゃないか、だったら病院に行ってちゃんとしたところで診てもらわないと……!」
ふるふると、月森は小さく首を振るった。
「……多分無理、なの……風邪とか、じゃ、ないから……お医者さんでも、きっと、無理……」
「そんなっ!」
じゃあどうすればいいんだよ、と叫んだところで月森が答える。
「……お願い、傍にいて……。私の手を握ってて下さい……」
「月、森……」
力なく指先が俺の腕から離れる。
暗闇で探るように宙を掻く月森の手を、強く両手で受け止めた。
俺の脳内では、三年前の光景がフラッシュバックしていた。妹が事故で車にはねられ病院に運ばれた、集中治療室の前で神に祈りを捧げた、寒い寒い夜のことを。
その時と同じ苦闘の時間が、俺の精神を侵食し始めた。
※
六時十五分、月森が気を失った。長い戦いの幕開け。
六時三十五分、部屋にある時計の針に苛立ちを覚える。
六時四十五分、昨日、教会を通った辺りの時間だ。
六時五十二分、十分前行動から二分は遅れた。あいつは何をやっている。
六時五十五分、五分前行動……やはり戻ってこない。
七時丁度、気晴らしにつけたテレビの挨拶に嫌気がさして消す。フランはこなかった。
七時二分、十秒単位で時間を気にするようになる。新しい氷を用意した。
七時五分、痛みから月森が俺の手に爪をたてる。血が流れたがどうでも良かった。
七時六分、遅い……フランは何をやっているんだ、早く来てくれ……!
七時六分三十秒、思考が鈍る。何も考えたくなくなってきた。
七時七分────ふわり、と壁を抜けるような音がした。
「只今参上仕るである!」
フランが、姿を現した。
「いやー明日は七夕、ジャスト七時七分で帰ってくるというのも、味があって良いもんじゃのう。今年の短冊には、もちろん──」
「フランッ!!!」
俺は叫んでいた。
「何じゃ何じゃ騒々しい、一体どうし────ユイッ!?」
事態を把握したフランが俺と月森の元へ飛んでくる。フランの馬鹿面が、一瞬にして血相を変え、深刻なものになった。
「なぁ、どうしたらいいフラン……夕方から、ずっとこんな感じなんだよ……!」
わけも分からず、フランに答えを求める。
「お主、聖剣を使ったじゃろ」
フランはやや怒り気味の口調で言った。
「あ、あぁ……」
俺はアジトを探るために凌真を追ったこと、影との戦いで聖剣を消耗したこと、聖剣を使った後に月森が倒れたことを伝えた。
「フラン、月森は、月森はどうなっちゃうんだよ……!」
「……脱がせるのじゃ」
「えっ!? だ、だけどそれじゃ……!」
「いいから早くするのじゃ!!!」
フランの激昂に取り乱して、俺は急いで月森を包んだ毛布を剥いだ。かなりの熱をだして疲弊した月森の身体。露出している部分の肌に赤みがさしている。
「どこを脱がすんだ」
「とりあえず、上着をめくるのじゃ」
言われるまま、俺は月森の服をめくった。すーっとへそが見えて、細い胴体、その素肌が外気に触れる。お腹が不規則に動いていた。
「……いや、こっちはまだか……靴下を脱がせるのじゃ」
「靴下? いや、分かった」
太ももと布の間に指をかけて、月森の履いている靴下を脱がせる。半分ほど降ろした時、ぞぞっと背筋が凍りつくような悪寒に怯えた。そのまま降ろしていくと、
「ど、どうなってんだよ……」
俺は言葉を失った。彼女の足先から膝より少し下が、青と黒の入り混じった毒のようなものに侵されていた。皮膚の真下で膨張した血管が生き物のようにうごめいている。
「──三年前と、同じじゃ……」
フランがそんなことを呟いた。
「三年前? に、何があったんだよ!」
俺は、フランに食ってかかる程の勢いで責めたてた。余裕がないのか切迫しているからか、フランは意にも介さず言葉を続けた。
「質問は後じゃ、塩を持ってこい」
「あ、あぁ」
台所へと走った。調味料の並べてある棚を眺める。専用容器にさし変えられた物には、小奇麗な字体で名前が記入してある。
砂糖と塩……塩の容器だけ、空になっていた。
「くそっ、どこだ……どこかに新しい袋はないのか……!?」
俺はあらゆる棚を開けて中を覗くが、それらしい物は見当たらない。歯を食いしばりながら眉間に力を込める。悔しいが諦めて、一度フランのところへ戻ることにした。
「わ、悪い……探したんだけど、塩の在庫がないみたいで……俺、塩買ってくるよ、だから」
「ならすぐに買ってくるのじゃ! わしでは手の施しようがない、お主が何とかせねばユイは……」
『──死んでしまうぞ!』
俺の心に電流が走った。
脊髄が反応したような動きで、俺はアパートを飛びだした。




