私のことが「好き」な人の声だけが「ヘリウムガスを吸った声」になる呪い
私の名前はアリア・フォン・ブランウェン。
ブランウェン伯爵家の長女であり、王都の社交界では密かに『氷の令嬢』と呼ばれている。
理由は至極単純だ。私が夜会でどんなに甘い愛の言葉を囁かれても、情熱的な瞳で見つめられても、決して顔を赤らめることなく、すまし顔で冷ややかに微笑んでいるだけだから。
「アリア嬢は決して靡かない」「男の純情を嘲笑う氷の彫像」などと陰口を叩かれていることも知っている。
けれど、これだけは声を大にして言いたい。
私が無表情を貫いているのは、決して冷酷だからでも、男性に興味がないからでもない。
ただ単に、その場で吹き出しそうになるのを、腹筋を総動員して必死に堪えているだけなのだ。
「ああ、美しいアリア嬢。君の瞳は夜空の星よりも輝いている。どうか、この私と一曲踊っていただけないだろうか?」
たとえば今、目の前で仰々しく跪き、私の手を取って甘い言葉を紡いでいるこの男性。
王属騎士団の若きホープであり、多くの令嬢から黄色い悲鳴を浴びている美形騎士、セドリック卿。
本来ならば、彼の低く甘いバリトンボイスでこんなことを言われれば、大抵の令嬢は頬を染めて卒倒するだろう。
しかし、今の私の耳に届いている彼の声は、これだ。
『アぁア、うツくシいアりア嬢ォ! きミの瞳ワぁ……』
まるで、遊園地で配られている風船のヘリウムガスを限界まで吸い込んだ直後のような、キュルキュル、ピーピーとした、アニメの小動物キャラクターと見紛うほどの超高音ボイス。
そう。私には、物心ついた頃から奇妙な『呪い』がかかっている。
それは、**『私に対して恋愛感情(好意)を抱いている人間の声が、ヘリウムガスを吸った声に自動変換されて聞こえる』**という、悪魔の嫌がらせとしか思えない呪いだ。
しかもタチの悪いことに、この呪いは相手の「好意の強さ」に比例して声が高くなる仕様になっている。
ちょっと「いいな」と思われている程度なら、少し声が上ずるくらいで済む。しかし、セドリック卿のように本気で口説きにきている(好意ゲージが高い)状態だと、もはや人間の発声器官の構造を無視した超音波レベルの裏返り方をするのだ。
(だめ、今日のは一段と高い……っ! 腹筋が、腹筋がちぎれる……!)
私は扇で顔の半分を隠し、ピクピクと引き攣りそうになる口角を必死に押さえ込んだ。
「申し訳ありません、セドリック卿。少し体調が優れませんの。またの機会に」
「そ、そうか……。君がそう言うなら仕方がない。どうかお大事に……」
(そォおカァ……ドうカ、おダイじニィィ……!)
落ち込んだ様子のセドリック卿だが、声が完全に甲高い珍獣のそれなので、シュールすぎて一切の同情が湧かない。
私は優雅にカーテシー(淑女の礼)をして彼から離れると、壁際の目立たない場所まで逃げ込み、ようやく小さく息を吐き出した。
「はぁ……今日もまた、笑い死ぬかと思ったわ」
私はグラスの水を飲み干し、煌びやかなシャンデリアを見上げた。
恋に恋する年頃の令嬢にとって、この呪いは致命的だった。どれだけ顔が良くて条件のいい男性でも、私を好きになった瞬間に声がおもしろ生物になってしまうのだ。これではムードも何もない。ときめきなんて生まれるはずがなかった。
「もう、一生独身でいいかしら……」
私が半ば人生を諦めかけていた、その時だった。
◇◇◇
「アリア! 一大事だ!!」
夜会から帰宅した数日後。
父であるブランウェン伯爵が、血相を変えて私の私室に飛び込んできた。
「お父様? ノックもせずにどうなさいましたの」
「そ、それどころではない! 皇帝陛下から……『冷血帝』ルシウス陛下から、直々に我が家へ呼び出しの書状が届いたのだ!」
「えっ……ルシウス陛下から?」
その名を聞いて、私は手の中のティーカップを取り落としそうになった。
ルシウス・フォン・グラディウス。
この広大なグラディウス帝国を統べる若き皇帝であり、同時に、周辺諸国から最も恐れられている『冷血帝』。
感情の起伏が一切なく、些細なミスでも容赦なく首を刎ね、逆らう者は一族郎党すべてを氷の魔法で凍てつかせるという、まさに血も涙もない暴君だ。
社交界に出入りしない彼に関する噂は、恐ろしいものばかりだった。
曰く、地を這うような恐ろしい低音の声を持つ。
曰く、彼に睨みつけられただけで心臓が止まった者がいる、等々。
「私に、何か心当たりは……いえ、ありませんわよね? 陛下とは一度もお会いしたことがありませんし」
「わからん! だが、名指しで『アリア・フォン・ブランウェンを連れてこい』と書かれているのだ! 万が一、不敬を買うようなことがあれば、我がブランウェン家は取り潰しに……っ!」
「落ち着いてくださいませ、お父様」
私は青ざめる父をなだめながら、冷や汗が背中を伝うのを感じた。
なぜ、あの恐ろしい皇帝が私を?
伯爵家の長女に過ぎない私が、国家の反逆罪に問われるようなことをした覚えはない。だが、相手は理由もなく人を処刑すると噂される冷血帝だ。
(……とにかく、粗相のないようにしなければ。声を出さず、ひたすら頭を下げていよう)
私は覚悟を決めた。
◇◇◇
数日後。
私は重苦しい空気の漂う帝城の最奥、広大な謁見の間に通されていた。
「これより、皇帝陛下がお出ましになる。頭を垂れよ」
近衛騎士の威圧的な声が響き、私は大理石の床に膝をつき、深く頭を下げた。
ギィィ、と重厚な扉が開く音がする。
コツ、コツ、と軍靴の足音が響き、私の数メートル手前で止まった。
室内の空気が一瞬にして凍りつき、肌を刺すような冷気が漂う。これが、絶対的な権力と恐怖を象徴する男の覇気。
心臓が早鐘のように打ち、喉がカラカラに乾く。
「……面を上げよ」
頭上から降ってきたのは、予想通りの、いや、予想以上に恐ろしく、重低音の――
『――オもテをアげヨォ!』
「…………え?」
私は、ピシッと固まった。
幻聴だろうか。
今、玉座の前に立つ皇帝陛下から、風船の空気が抜ける時のような、ピーピーと甲高い声が聞こえた気がした。
恐る恐る、顔を上げる。
そこには、漆黒の軍服に身を包み、鋭い氷のような銀の瞳で私を見下ろす、絵画のように美しい皇帝ルシウスの姿があった。
その表情は噂通り、一切の感情を排した氷の彫像のように冷酷だ。
「ブランウェン伯爵令嬢、アリアだな」
彼の薄い唇が動く。
そして、そこから紡ぎ出されたのは。
『ぶラんウぇンはクしゃクれイじョう、アりアだナァ!?』
(………………っ!!?)
私は、危うく自らの舌を噛み切るところだった。
間違いない。私の耳にははっきりと、ルシウス陛下の声が、限界までヘリウムガスを吸い込んだ直後のような、キュルキュルとしたアニメ声で届いていた。
それはつまり。
この、国中で最も恐れられている、血も涙もないと言われる冷血帝ルシウスが。
(わ、私に対して、尋常じゃないレベルの『恋愛感情』を抱いているってこと……!?)
しかも、ただの好意ではない。過去に言い寄ってきたセドリック卿の比ではないほどの、もはや超音波一歩手前の裏返り方だ。
これほどの高音ボイスを出させるということは、彼は私に対して、狂おしいほどの、激重な愛情を抱いているということになる。
「……いかにも、怯えているようだな。無理もない。私の恐ろしさは、貴様も耳にしているだろう」
ルシウス陛下は、微かに目を細め、威圧的に口角を上げた。
本人は間違いなく、魔王のごとき底冷えのする声で私を威嚇しているつもりなのだろう。
だが、私に聞こえているのは。
『いカにモォ! おビえテいルよウだナァ! ムりもナいィ! わたシのオそロしサはァ……!』という、愉快なマスコットキャラクターのセリフである。
「ぷっ……」
静まり返った謁見の間に、私の小さな吹き出し声が響いてしまった。
「……なんだ。今、笑ったのか?」
『ナんダァ!? いマ、わラっタのカァ!?』
凄む皇帝。
裏返る声。
そのとてつもないギャップに、私の腹筋はすでに限界を迎えていた。
「ぷっ……」
静まり返った謁見の間に、私の小さな吹き出し声が響いてしまった。
その瞬間、周囲に控えていた近衛騎士たちの顔色が、一斉に恐怖に染まる。
「……貴様、今、皇帝陛下の御前で何を……っ!」
側近の騎士が、剣の柄に手をかけながら私を怒鳴りつけようとする。
当然だ。暴君として知られるルシウス陛下の前で失笑するなど、万死に値する不敬罪。アシュベリー伯爵家の取り潰しどころか、私自身の首が今すぐ飛んでもおかしくない状況だ。
(だ、ダメ、笑っちゃダメ……! でも、でも……!)
私は必死に唇を噛み切り、湧き上がる笑いを腹筋の奥底へと封じ込めようとした。
頭では分かっている。これは命がけの場面だと。けれど、私の耳に届く皇帝陛下の声が、あまりにも、あまりにも……!
「下がっていろ」
ルシウス陛下は、私を咎めようとした騎士を一喝した。
その一言で、騎士は弾かれたように動きを止め、恐怖に震えながら後ずさる。
そして。
皇帝陛下は、ゆっくりと玉座の階段を下り、私の目の前まで歩み寄ってきた。
軍靴の音が、コツ、コツ、と、死のカウントダウンのように響く。
見上げれば、そこには絵画のように美しい、けれど一切の感情を排した冷酷な仮面のような顔があった。鋭い氷のような銀の瞳が、私を射抜くように見下ろしている。
その圧倒的な威圧感に、私は金縛りにあったように動けなくなる。
(……来る。殺される。笑った報いを受けるんだわ……!)
私が死を覚悟した、その時。
「……私の顔に、何かおかしいものでもついていたか?」
『……わたシのオかシな顔ニィ、なニかオかシなモのデもォ……?』
(………………っ!!!)
私は、危うくその場に崩れ落ちるところだった。
間違いない。私の耳にははっきりと、ルシウス陛下の声が、過去最大級のヘリウムボイスで届いていた。
人間の発声器官の構造を無視した、キュルキュルとしたアニメの小動物のような超高音。
これほどの高音を出すということは、彼は私に対して、セドリック卿の比ではない、狂おしいほどの、激重な愛情を抱いているということになる。
「い、いえ……! とんでもありませんわ、陛下……っ!」
私は、引き攣りそうになる口角を必死に扇で隠し、掠れた声で答えた。
「……そうか。ならば、なぜ笑った?」
『……そォかァァ! なラばァ、なゼわラっタのカァァ!?』
凄む皇帝。
裏返る声。
そのとてつもないギャップに、私の腹筋はすでに限界を超え、断末魔を上げていた。
笑ってはいけない、笑ってはいけないと思えば思うほど、ルシウス陛下の高音ボイスが脳内でリフレインし、笑いのツボを爆撃してくる。
「それは……その……陛下の、お声が……」
私は、正直に「おもしろ生物の声に聞こえます」などと言えるはずもなく、必死に言い訳を探した。
「……声?」
『……こエェェェ?』
ルシウス陛下が、怪訝そうに眉をひそめた。
「お、お噂で、陛下は地を這うような、恐ろしい重低音のお声をお持ちだと伺っておりましたので……」
「……ほう」
『……ほォぉぉォォォん?』
「けれど、実際にお聞きした陛下のお声は……その、とても……とても……」
私は、言葉を選びに選んだ。
「……とても、『愛らしい』お声でしたので……つい、微笑ましい気持ちになってしまいましたの」
(……言っちゃった! 暴君に向かって『愛らしい』なんて言っちゃったわ!)
私は、自分の発言の恐ろしさに、今度こそ血の気が引いた。
いくらヘリウム声に聞こえているとはいえ、本人は間違いなく、魔王のごとき重低音で凄んでいるつもりなのだ。それを『愛らしい』などと形容するのは、最大級の侮辱に他ならない。
(……今度こそ、殺される。首を刎ねられて、氷漬けにされるんだわ……!)
近衛騎士たちも、私の発言に呆然とし、もはや言葉も出ない様子で立ち尽くしている。謁見の間は、死のような静寂に包まれた。
ルシウス陛下は、感情の読めない銀の瞳で、じっと私を見つめている。
一秒が、永遠のように長く感じられた。
やがて。
ルシウス陛下は、薄い唇をゆっくりと開いた。
「……愛らしい、か」
『……あイラシいィィ、カァァァ……』
(……ヒィッ!)
「……クックック……」
「……え?」
ルシウス陛下の喉から、予期せぬ声が漏れた。
それは、彼が生まれて初めて発したかのような、ぎこちない、けれど間違いなく『笑い』の音だった。
「……ハハハハハ!」
「……え、えええ!?」
皇帝陛下が、爆笑し始めた。
一切の感情を排した冷酷帝が、声を上げて笑っている。
「……愉快だ。私の声を『愛らしい』と言ったのは、貴様が初めてだ」
『……ゆカいダァァ! わたシのこエをォォォ……!』
「……アリア・フォン・ブランウェン。貴様を気に入った」
『……ありア・ふォん・ぶランウぇン! きサまをキにイっタァァ!』
ルシウス陛下は、笑いすぎて涙を浮かべながら、私に向かって手を伸ばした。
「……今日から、貴様を私の専属の語り部とする。毎日、その『愛らしい』声で、私を愉快な気持ちにさせろ」
『……きョうかラァ、きサまをォォォ……!』
(……え、ええええええええええ!?)
私の腹筋は、ルシウス陛下の高音爆笑ボイスと、あまりにも斜め上の展開に、完全に崩壊した。
氷の令嬢と呼ばれたアリア・フォン・ブランウェン。一生独身を貫こうと決意していた彼女の人生は、ヘリウムボイスの冷血帝によって、とんでもない方向へと動き出したのだった。
◇◇◇
帝城での謁見から三日後。
私はなぜか、皇帝直轄の離宮にある、目眩がするほど豪奢なスイートルームで優雅に紅茶を飲んでいた。
(……どうしてこうなったのかしら)
あの謁見の後、「専属の語り部」という謎の役職を与えられた私は、有無を言わさず帝城への登城――実質的なお引越し――を命じられた。
父であるブランウェン伯爵は、「殺されなかったどころか、見初められただと!? でかしたぞアリア!」とお祭り騒ぎで私を送り出したが、私の胃の腑は鉛を飲んだように重い。
この部屋にあてがわれた専属のメイドたちは、私のことを「あの冷血帝をたった一度の謁見で骨抜きにした恐ろしい魔性の毒婦」として見ているらしく、ひどく怯えた様子で給仕をしてくる。
違うのよ。私はただ、陛下の声がファニーすぎて吹き出してしまった不敬極まりない女なだけなのよ。
「アリア様。皇帝陛下が執務室へお呼びです」
メイド長が、青ざめた顔で呼び出しを伝えにきた。
私は小さく深呼吸をして、立ち上がった。
(いいこと、アリア。今日は絶対に笑わないのよ。気を抜けば不敬罪で首が飛ぶわ。腹筋に力を入れて、無の境地に至るのよ……!)
自らに固く言い聞かせ、私は重厚な扉の向こう、ルシウス陛下の待つ執務室へと足を踏み入れた。
◇◇◇
「……遅いぞ、アリア」
執務机の奥、山積みになった書類から顔を上げたルシウス陛下は、不機嫌そうに眉をひそめた。
窓から差し込む光が彼の銀髪を輝かせ、漆黒の軍服がその圧倒的なカリスマ性を引き立てている。黙って座っているだけで、一枚の絵画のように完璧な美貌だ。
しかし。
『……オそイぞォォォ! アりアァァァ!』
私の耳に飛び込んできたのは、部屋の空気を震わせる重低音ではなく、鼓膜を突き破らんばかりのキュルンキュルンなアニメ声だった。
(だ、駄目だわ……っ! 慣れるわけがない……!)
私は入室五秒で己の敗北を悟り、ドレスの襞をきつく握りしめた。
三日前より声が高くなっている気がする。ということは、この三日間で、彼の中の私に対する「好意ゲージ」がさらに上昇したということだ。会ってもいないのにどうして!?
「も、申し訳ありません、陛下。離宮からの道に迷ってしまいまして……」
「……ふん。帝城は広いからな。次からは、私が直接迎えに行ってやろう」
字面だけ見れば、不器用な皇帝なりの甘やかし発言である。
周囲に控えている近衛騎士や文官たちも、「あの冷血帝が、自ら女の迎えにいくなどと……!」と驚愕に目を見開いている。
だが、私に聞こえているのはこれだ。
『……フんッ! てイジォウはヒロいカらナァ! つギかラはァ、わたシがチォクせツゥ、むカエにいッてヤロうゥゥゥ!』
(直接迎えに来るな!!! 城中の笑い者になるわ!!!)
私が必死に唇を噛み締めてプルプルと震えているのを、「皇帝の威圧感に怯えている」と勘違いしたらしいルシウス陛下は、少しだけ声のトーンを落とした(つもりなのだろう)。
「……そう怯えるな。取って食おうというわけではない。貴様は私の『語り部』だ。そこに座り、私の仕事が終わるまで、適当な話を聞かせろ」
『……ソうオビえルなァ! トッてクおウといウワケでワなイィ!』
私は言われた通り、執務机の向かいにある豪奢なソファに腰を下ろした。
彼が書類にサインをする羽ペンの音だけが、静かな部屋に響き渡る。
ふと、疑問が湧いた。
そもそも、どうしてこれほどまでに、皇帝陛下は私に好意を抱いているのだろうか。
呪いの仕様上、声の高さは好意の強さに直結している。今のルシウス陛下の声は、私に熱烈な求婚をしてきたセドリック卿の比ではない。ヘリウムガスを三本くらい一気飲みしたような高さだ。
一目惚れにしては、あまりにも重すぎる。
「あの……陛下」
「なんだ」
『ナんダァ?』
「恐れながら、一つお伺いしてもよろしいでしょうか。……陛下は、以前どこかで、私とお会いになったことがおありですか?」
私がそう尋ねた瞬間。
ピタッ、と。ルシウス陛下の羽ペンが止まった。
そして、彼はスッと顔を上げ、氷のように冷たい銀色の瞳で私を真っ直ぐに見つめた。
部屋の空気が、一気に緊張感に包まれる。文官たちが「余計なことを聞いたせいで、ついに陛下の逆鱗に触れたか」と息を呑むのが分かった。
「……気づいていなかったのか」
低く、凄みのある(はずの)声。
「五年前だ。先代皇帝が主催した、建国祭の夜会。……バルコニーで、一人泣いていた私に、ハンカチを差し出した令嬢がいた」
『ゴねンまエだァァァ! バルこニィでェ! なイてイたワたシにィィ……!』
(……あっ!)
私はハッとして記憶を遡った。
五年前。まだルシウス陛下が皇太子ですらなく、冷遇されていた第三皇子だった頃。
夜会の喧騒から逃れるようにバルコニーに出た私は、暗がりで一人、血の滲むような拳を握りしめて涙をこぼしている見知らぬ少年を見つけたのだ。
当時の私はまだ呪いのこともよくわかっておらず、ただの親切心から「泣かないでください」と刺繍入りのハンカチを渡しただけだった。
あの時の少年が、まさか今の皇帝陛下だったなんて。
「あ、あの時の……」
「……そうだ」
ルシウス陛下は、ふっと自嘲するように笑った。
「誰からも忌み嫌われ、命を狙われていた私に、打算のない優しさを向けたのは貴様だけだった。あの夜から、私はずっと……貴様のことだけを見てきた」
ドキン、と私の心臓が大きく跳ねた。
五年間。彼はずっと、私のことを想い続けてくれていたのだ。
冷酷な血みどろの権力闘争を勝ち抜き、皇帝という孤独な座に就きながらも、ただ一人の少女の幻影を心の支えにして。
それは、どんな恋愛小説よりも劇的で、情熱的で、甘く切ない愛の告白だった。
……もし、私の耳が正常であったなら。
『アノよルかラァ! わたシはずッットォォォ! きサまノこトだケをォォォ! 見テきタァァァァァァ!!!』
(声が高すぎるぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!!!!)
最高潮に達した彼の激重感情に比例し、ルシウス陛下の声はもはや人間の可聴域を超えんばかりのモスキート音と化していた。
純愛の極み。感動のピーク。
なのに、私の脳内では、風船を持った小動物が全力で愛を叫んでいる映像しか浮かんでこない。
「っ……ふぐっ……!」
私は両手で顔を覆い、ガクガクと肩を震わせた。
泣いているのではない。笑いを堪えるのに、全身の筋肉が悲鳴を上げているのだ。
「アリア……?」
ルシウス陛下が、私が感動のあまり涙ぐんでいると勘違いし、執務机から立ち上がって歩み寄ってくる。
「……そんなに震えるな。もう、貴様を一人で泣かせたりはしない。私が、この手で貴様を守り抜いてみせる」
『モォゥ! きサまをヒトリでナカせタりはシなイィィィ! わたシがァァァ! このテでェェェ!』
彼の手が、優しく私の肩に触れる。
その瞬間。
「ぶふっ! あっはははははははははっ!!」
ついに限界を迎えた私の腹筋は木っ端微塵に崩れ去り、謁見の間に次ぐ、本日二度目の大爆笑が執務室に木霊した。
「なっ……!?」
ルシウス陛下は目を見開き、固まった。
感動的な愛の告白の直後に、意中の相手から腹を抱えて大爆笑される。これほどプライドをへし折られる出来事もないだろう。
文官たちは「終わった……この令嬢は今度こそ処刑される……っ!」と泡を吹いて倒れそうになっている。
「あーっはっはっは! む、無理です陛下、そんな、そんな真面目なお顔で……っ! ひぃっ、お腹痛いっ……!」
私はソファを転げ回りながら、笑い涙を拭った。
もう殺されてもいい。この呪いと、彼のあまりにも巨大すぎる愛のギャップは、私の理性ではどうにもならない。
「……アリア」
ルシウス陛下が、低く凄みのある声で私の名前を呼んだ。
私はビクッと体を震わせ、ついに処刑の命令が下されるのだと覚悟を決めて顔を上げた。
すると、ルシウス陛下は。
「……そんなに、私の声が嬉しいか」
『……そンなニィ! わたシのコエがウレしイカァァァ!?』
耳まで真っ赤にして、ひどく照れ臭そうに、そっぽを向いていたのだ。
(……えっ?)
「……私が愛を告げただけで、それほどまでに喜んで笑ってくれるとは。……貴様は本当に、変わった女だ」
『……ソレほドまデニィィ! ヨロコんデわラっテくレるトワァァァ……!』
照れと嬉しさのあまり、彼の声はさらにキュルンキュルンに跳ね上がっている。
どうやらこのポンコツ……いえ、冷血帝様は、「爆笑された」という事実を「嬉しすぎて笑いが止まらないのだ」と、とてつもなくポジティブな方向に脳内変換してくれたらしい。
「あ、ええと……はい。とても、とても嬉しくて……っ! ふふっ、あははははっ!」
「……そうか。ならば、何度でも言ってやろう。愛しているぞ、アリア」
『……アイしテいルぞォォォ! アりアァァァァ!』
ドヤ顔で放たれる超高音のモスキート告白。
私は再び腹を抱え、執務室の床に突っ伏した。
冷血帝と呼ばれる彼は、実はただの重すぎる純情オタクで。
氷の令嬢と呼ばれた私は、ただの笑い上戸で。
誰からも恐れられる皇帝と、呪われた令嬢。
絶対に交わるはずのなかった二人の奇妙な生活は、こうして爆笑の渦と共に幕を開けたのだった。
◇◇◇
私がルシウス陛下の『専属の語り部』として離宮に住まうようになってから、一ヶ月が経過した。
当初、「あの冷酷無比な暴君の傍になんていれば、三日で命を落とすに違いない」と青ざめていた離宮のメイドや護衛の騎士たちは、今や全く別の意味で遠い目をしている。
「アリア! 今日は南の属国から献上された珍しい宝石を持ってきた。君の美しい銀髪によく似合うはずだ」
執務の合間を縫って(というか半ば仕事を放り出して)、ルシウス陛下は今日も私の部屋へとやってきた。
手には、国が一つ買えるのではないかというほど巨大なサファイアのネックレスが握られている。相変わらず、表情は氷の彫像のように一切の感情が抜け落ちており、周囲の空気を凍てつかせるほどの絶対者のオーラを放っている。
メイドたちは「ヒィッ」と息を呑み、壁際で小さく震えている。
彼らには、皇帝が『底冷えのする恐ろしい重低音で、令嬢に貢物を突きつけている』ように見え(聞こえ)ているのだろう。
だが、私の耳に届いているのは。
『アりアァァァ! きョウはァ、めズラしイ宝セキをォ! きミのウツくシい銀カミにィィ!』
完全に、某ネズミのキャラクターが夢の国から飛び出してきたかのような、ポップでキュートな超音波ボイスである。
「ぶふっ……! あ、ありがとうございます、陛下……っ。ふふ、ふふふっ!」
私はネックレスを受け取りながら、扇の陰で必死に笑いを噛み殺した。
この一ヶ月でわかったことがある。ルシウス陛下は、政務においては冷酷で有能な完璧な皇帝だ。しかし、こと私に関することとなると、五年分の拗らせた激重感情が暴走し、ただの「愛が重すぎるポンコツ純情青年」になり下がるのだ。
「……また笑ったな。私の顔を見るだけでそれほど喜んでくれるとは、本当に君は愛らしいな」
『マたワらッたナァァ! わたシのカオをミるダケでェェ! あイラしイなァァァ!』
勘違いも甚だしい。
私が毎日腹を抱えて笑っているのを、彼は「自分からの愛情表現が嬉しくてたまらないのだ」と、宇宙規模のポジティブ解釈で受け止めている。おかげで、私の不敬罪はすべて「愛ゆえの照れ笑い」として処理され、私の首は今日も無事に胴体と繋がっているのだった。
◇◇◇
しかし、平穏な(そして腹筋が崩壊する)日々は、突然の闖入者によって破られることになった。
「――ルシウス陛下! 申し上げたき儀がございます!」
ある日の午後、私とルシウス陛下が庭園のガゼボで茶を飲んでいた時のことだ。
怒り心頭といった様子でズカズカと踏み込んできたのは、帝国の内政を取り仕切る重鎮、宰相のガラム公爵だった。彼は私の存在を以前から快く思っていない、保守派の筆頭だ。
「……何用だ、ガラム。私がアリアと過ごす時間は、何人たりとも邪魔をするなと命じておいたはずだが」
ルシウス陛下の纏う空気が、一瞬にして殺気立った。
銀の瞳が眇められ、周囲の気温が急激に下がる。ガラム宰相の後ろに控えていた文官たちが、恐怖でガタガタと震え出した。
「お言葉ですが陛下! そのような素性の知れぬ伯爵令嬢を離宮に囲い、あろうことか陛下の御前で『笑う』などという不敬を許しておくなど、帝国の威信に関わります! 巷では、陛下が魔性の女にたぶらかされ、正気を失ったと噂されておりますぞ!」
ガラム宰相は、私を憎々しげに睨みつけながら声を張り上げた。
「この女は、陛下の威光を軽んじる毒婦! 今すぐ処刑し、首を城門に晒すべきです!」
その言葉が響いた瞬間。
庭園の空気が、文字通り「凍りついた」。
ルシウス陛下の足元から、パキパキと音を立てて霜が広がり、美しい薔薇の花々が一瞬にして氷の彫像へと変わっていく。
これが、冷血帝の異名の由来。彼の怒りは、周囲の空間そのものを凍てつかせる物理的な魔法となって顕現するのだ。
「……ガラム。貴様、今、私の半身に対して何と言った」
皇帝の口から紡がれたのは、絶対零度の殺意。
ガラム宰相はハッとして顔を青ざめさせ、自分が踏んではならない虎の尾を踏んだことに気づいたようだった。
「ひ、陛下……っ! 私はただ、帝国の未来を憂いて……っ!」
言い訳をしようとする宰相の首元に、目に見えない氷の刃が突きつけられる。
誰もが息を呑み、血の雨が降ることを覚悟した。周囲にいる全員が、魔王の如き重低音の死の宣告に恐怖し、平伏している。
――しかし。
ルシウス陛下の怒りは、すべて『私への強すぎる愛情と保護欲』から来ているものだった。
ということは、私の耳に届く彼の激怒のデスボイスは。
『ガらムゥゥ! きサまァァァ! わたシのハんシんニ対シてェェ! ナんト言ッたァァァァ!?』
……そう。
過去最高音を更新した、超絶ハイテンションなヘリウム・マジギレ・ボイスである。
(あ、あかん……っ!! 今はダメ、今笑ったら絶対ダメ……っ!!)
私は、震える両手で口元をきつく覆い、必死に下を向いた。
目の前では、帝国の重鎮が処刑されるかどうかの、シリアス極まりない命のやり取りが行われているのだ。
だが、私を庇ってガチギレしている皇帝陛下の声が、ピーピー鳴るおもちゃのハンマーで叩き回しているようにしか聞こえない。
「……アリアを処刑しろだと? 万死に値する。貴様のその舌を氷漬けにして、二度と口がきけぬようにしてやろうか」
『……アりアをォォ! 処ケいシろダトォォ!? バんシにアたイすルゥゥ! きサまノォ、そノ舌ヲォォォ!!』
「ヒィィィィッ! お、お許しを! どうか、どうかお許しをぉぉっ!」
大の大人が、涙と鼻水を流しながら土下座して命乞いをしている。
その光景と、ルシウス陛下のファンシーな高音ボイスのコントラストが、私の理性を容赦なく粉砕していく。
「ぶっ……ひぐっ……くくくくくっ……!!」
ついに堪えきれず、私の口から奇妙な呼吸音が漏れた。
全身が小刻みに震え、肩がヒクヒクと上下する。
その私の様子に気づいたルシウス陛下は、ピタリと怒気を引っ込めた。
「……アリア?」
彼は氷の魔法を解除し、慌てた様子で私に駆け寄ってきた。
そして、私の震える肩を抱き寄せ、心底心配そうに顔を覗き込んでくる。
「すまない、アリア。私の殺気で怯えさせてしまったな。大丈夫だ、お前を傷つける輩は、私がすべて排除する。だから、そんなに震えないでくれ……」
『スまナいィィ! アりアァァ! わたシのサッきデェェ! オびエさセてシまッたナァァァ!』
「ひぃっ、ははははっ! ちがっ、違うんです陛下、怯えているんじゃなくてっ、あーっはっはっはっはっ!!」
私はついに決壊し、ガゼボの机に突っ伏して大爆笑してしまった。
シリアスな処刑シーンのど真ん中で、皇帝の腕の中で腹を抱えて笑い転げる令嬢。
土下座していたガラム宰相も、護衛の騎士たちも、全員が「こいつ、完全にイカれてる……」という目で私を見ている。
「……なんだ。また私の顔を見て喜んでいるのか。本当に、お前という奴は……」
『マたわたシのカオをミてェェ! ヨロこンでイるノかァァァ! ホんトウにィィ!』
ルシウス陛下は、私が爆笑しているのを見て、ホッと安堵したように(しかも少し照れくさそうに)微笑んだ。
「お前が笑ってくれるなら、それでいい。ガラム、今日のところはアリアの笑顔に免じて命だけは助けてやる。二度と私の前にその顔を見せるな」
『アりアのエガおニ免ジてェェ! 命ダケはタスけテやルゥゥ!』
「は、ははぁっ! ありがとうございます、陛下、アリア様ぁぁっ!」
ガラム宰相は転がるようにして逃げていった。
私は笑いすぎて痛むお腹を押さえながら、ルシウス陛下を見上げた。
私を傷つけるものを許さないという、冷酷なまでの絶対的な庇護。
けれど、私に向けるその心境は、どこまでも甘く、優しく、そして情けないほどに純粋だ。
(……ああ、もう。本当に仕方ない人ね)
どれほど恐ろしい皇帝でも。
私には、彼の本音が、その好意の大きさが、声の高さとして筒抜けになっているのだ。
嘘偽りのない、まっすぐで巨大な愛。それを隠そうともせずに(本人は隠しているつもりなのだろうが)私にぶつけてくる彼を、愛おしいと思わないはずがなかった。
「陛下」
私は笑い涙を指で拭い、彼の頬にそっと手を伸ばした。
氷のように冷たいと言われる彼の肌は、私の手が触れると、微かに熱を帯びた。
「私、陛下のその『愛らしい』お声が、世界で一番好きですわ」
「……っ!」
私が最高の褒め言葉(大本音)を告げると、ルシウス陛下は目を見開き、耳の先まで一気に真っ赤に染め上げた。
「あ、アリア……お前は、本当に……っ」
『アりアァァ! おマエはァァ、ホんトウニィィィィィッ!!』
もはや言語の限界を超えた、超高周波の歓喜の叫び。
私は彼を抱きしめ返し、彼の広い胸に顔を埋めて、もう一度だけ幸せな爆笑を響かせた。
氷の令嬢と呼ばれた私にかけられた、奇妙なヘリウム声の呪い。
それはきっと、不器用で優しすぎる冷血帝の愛の深さを測るための、神様がくれた最高のプレゼントだったに違いない。




