戸籍トンネル ――消えた姉の名前は、金を洗う通路にされていた
戸籍トンネル
第1話 消えた姉
「お姉さまの戸籍は、こちらでは追えません」
窓口の女性は、申し訳なさそうに言った。
佐伯敦は、聞き間違いかと思った。
午後二時過ぎの区役所は混んでいた。番号札を握った老人、ベビーカーを押す若い母親、転入届らしき書類を広げる学生。どこにでもある役所の、どこにでもある平日だった。蛍光灯の白い光が天井から落ち、アクリル板越しの声は少しだけくぐもって聞こえる。
その日常の中で、姉の名前だけが消えていた。
「追えない、というのは」
敦は声を抑えた。
「死亡しているという意味ですか」
「いいえ。死亡の記載はありません」
「では、転籍ですか」
「転籍とも、少し違います」
女性職員は端末画面に目を落としたまま、言葉を探していた。困っている。だが、ただ面倒な客に当たった時の困り方ではなかった。画面の向こうに、彼女自身も扱いかねているものがある。敦はそう感じた。
「お姉さま、佐伯麻子さんは、数年前に養子縁組をされています」
「養子縁組?」
敦は思わず聞き返した。
姉は四十一歳だった。すでに離婚して旧姓に戻っていると聞いていた。親族関係を整理する必要があり、母の相続手続きのために戸籍謄本を取りに来た。それだけの用事だった。
なのに、そこに養子縁組という言葉が現れた。
「養親の氏名を確認できますか」
「ご本人、または法定代理人の確認が必要になる部分があります」
「私は弟です。相続手続きのためです」
敦は名刺を出した。
法律事務所に勤める弁護士。名刺の肩書は、たいていの窓口で効力を持つ。だが女性職員は、名刺を見ると逆に表情を硬くした。
「少々お待ちください」
彼女は奥へ消えた。
五分ほどして戻ってきたとき、手には一枚の書類があった。全部事項証明ではない。必要部分だけを伏せた照会用の写しだった。
敦はその紙を受け取った。
姉の名前は、たしかにそこにあった。
佐伯麻子。
その横に、養親として記載されていた名前を見た瞬間、敦は喉の奥が乾くのを感じた。
成瀬恭一。
敦が勤務する成瀬法律事務所の所長だった。
「どういうことだ」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
成瀬は六十三歳。刑事事件、相続、企業法務を幅広く扱う老練な弁護士で、地元では名士として通っている。敦にとっては、大学卒業後に司法試験を目指していた頃から世話になった恩人でもあった。
その成瀬が、敦の姉を養子にしていた。
しかも敦には、一度も知らされていなかった。
役所を出ると、細かい雨が降り始めていた。十月の雨は冷たかった。敦は庁舎前の庇の下で、さっき渡された紙をもう一度見た。
養子縁組届出日。
夜間受付。
代理人提出。
その三つの文字が、妙に黒々として見えた。
姉はなぜ、成瀬の養子になったのか。
成瀬はなぜ、それを黙っていたのか。
そして役所の職員はなぜ、姉の戸籍を「追えない」と言ったのか。
敦はタクシーを拾わず、雨の中を歩いた。事務所までは二十分ほどだ。傘は持っていたが、開く気になれなかった。雨粒がコートの肩に吸い込まれていく。濡れていく感覚が、かえって頭を冷やした。
成瀬法律事務所は、駅から少し離れた古いビルの四階にある。入口のガラスには、金色の文字で事務所名が貼られていた。敦はエレベーターに乗りながら、スマートフォンで姉に電話をかけた。
呼び出し音は鳴らなかった。
現在使われておりません、という機械音声だけが返ってきた。
事務所に戻ると、古参の事務員である津島節子が受付にいた。六十近い女性で、成瀬が独立した頃から勤めている。事務所の人間関係も、書類の置き場所も、成瀬の機嫌の波も、すべて知っている人だった。
「津島さん」
敦は彼女を呼んだ。
津島は顔を上げた。いつもなら柔らかく笑う人だったが、その日は敦の顔を見るなり、目を伏せた。
「少し、聞きたいことがあります」
「所長なら、午後は外出です」
「所長ではありません。姉のことです」
津島の指が、受付机の上で止まった。
それだけで、敦には十分だった。
彼女は知っている。
「姉が、所長の養子になっていました」
津島はしばらく黙った。
奥の部屋から、コピー機の動く音が聞こえていた。紙が吸い込まれ、排出される。その単調な音が、妙に大きく響いた。
「先生」
津島は低い声で言った。
「今夜、倉庫には入らないでください」
「なぜです」
「お願いです。今夜だけは」
「倉庫に何があるんですか」
津島は答えなかった。
敦は、その沈黙を聞いた瞬間、自分が何をすべきか理解した。
その夜、事務所に最後まで残った。
成瀬は戻らなかった。若手の事務員も、午後八時には帰った。津島も何度か敦の部屋の前を通ったが、何も言わずに帰っていった。
午後十時過ぎ、事務所の照明を半分だけ落とし、敦は倉庫の鍵を開けた。
倉庫には、過去の事件記録が年度ごとに並んでいる。相続事件、離婚事件、少年事件、債務整理。埃と古い紙の匂いがした。敦はスマートフォンのライトをつけ、戸籍関連のファイルを探した。
棚の一番奥に、背表紙のない黒いファイルがあった。
ラベルには、ただ数字だけが書かれていた。
A-17。
中を開いた瞬間、敦の背筋に冷たいものが走った。
養子縁組届の写しが、何十枚も綴じられていた。
届出人の名前はばらばらだった。高齢者、独身女性、施設出身者、借金を抱えた若者、失踪歴のある者。だが、養親欄には同じ系統の名前が並んでいた。成瀬恭一。成瀬の親族。成瀬と関係のある法人役員。
そして、それぞれの書類の右上に、鉛筆で小さく番号が振られていた。
M-03。
K-12。
S-21。
敦はページをめくった。
麻子の名前が出てきた。
M-19。
署名は、姉の字に似ていた。だが、印鑑が違う。姉が昔から使っていた丸みのある印影ではなく、安物の認印のような硬い文字だった。
書類の下には、別紙が挟まっていた。
そこには、口座番号、法人名、送金日、金額が記されていた。
金額は、どれも数百万円から一千万円台。大きすぎず、小さすぎない。疑われにくい額だった。
その横に、手書きで短く書かれていた。
身元整理済。
敦は声を出さずに息を呑んだ。
養子縁組は、人を家族にする制度だ。
だがここでは、人を番号にしていた。
名前を移し、住所を移し、家族関係を変え、資産の流れを分散させる。表面上は親族間の援助や相続対策に見える。だが実態は、金の出所を曖昧にするための通路だった。
戸籍を通る金のトンネル。
姉は、その中にいた。
背後で床板が鳴った。
敦が振り返ると、倉庫の入口に津島が立っていた。
彼女は、驚いていなかった。
「見てしまったんですね」
「これは何ですか」
敦はファイルを掲げた。
「姉は、何に使われたんですか」
津島は目を閉じた。
「麻子さんは、最初は自分からでした」
「最初は?」
「守りたい人がいたんです」
「誰を」
津島は唇を噛んだ。
「先生の知らない、麻子さんの子どもです」
敦は、意味がわからなかった。
「姉に、子ども?」
「戸籍には載っていません。載せられなかったんです」
雨音が、窓を叩いていた。
敦は、自分の立っている場所が急に狭くなったように感じた。倉庫の棚、古い紙、番号の振られた戸籍届。そのすべてが、自分を中心に少しずつ回り始める。
姉には、子どもがいた。
自分は知らなかった。
そしてその子どもを守るために、姉は成瀬の養子になった。
それが、誰かの金を洗うための通路に変えられていた。
津島は言った。
「ここにあるのは、戸籍の在庫です」
「在庫?」
「必要なときに使える名前。動かせる親族関係。傷のある人ほど、扱いやすい。身寄りのない人、借金のある人、家族から逃げたい人。所長は、そういう人たちに言っていました。これは救済だと」
敦は、ファイルを握る手に力を入れた。
「救済?」
「そう信じたい人には、そう見えたんです」
津島の声は、震えていた。
「でも、途中から違うものになりました」
第2話 番号で呼ばれた家族
翌朝、敦は成瀬の執務室を訪ねた。
成瀬恭一は、革張りの椅子に座り、いつものように新聞を読んでいた。背後の窓から朝の光が入り、机上の万年筆を鈍く光らせている。
「姉のことを聞かせてください」
敦は挨拶を省いた。
成瀬は新聞を畳んだ。
「どこまで知った」
その言い方が、何よりも答えだった。
「養子縁組の書類を見ました。姉の名前が番号で管理されている。送金記録もありました。あれは何ですか」
成瀬は少しも動揺しなかった。
「相続と扶養と保護のための整理だ」
「資金移動のための名義貸しに見えます」
「見え方の問題だ」
「姉はどこにいます」
成瀬は、そこで初めて敦から目を逸らした。
「知らないほうがいい」
敦は机に手をついた。
「ふざけないでください。あなたは私の姉を養子にした。本人の家族にも知らせずに。しかもその名前を、金の流れに使っていた」
「麻子さんは同意した」
「同意?」
敦の声が荒くなった。
「正しい情報を与えられない同意に、何の意味がありますか」
成瀬は新聞を机の端に置いた。
「君は法を扱う人間だ。ならば感情で話すな」
「法を悪用している人間に言われたくありません」
成瀬の目が細くなった。
部屋の空気が、一段冷えた。
「この国の制度は、綺麗ごとだけでは人を救えない。親に殴られて逃げる子ども。配偶者から身を隠す女。借金取りに追われる若者。彼らをそのまま表の制度に乗せれば、すぐに見つかる。だから名前を逃がす道が必要になる」
「それをトンネルと呼ぶんですか」
「呼び方は何でもいい」
「そのトンネルに金も通していた」
成瀬は黙った。
敦は、一枚のコピーを机に置いた。
「この送金記録。姉の番号M-19を経由して、成瀬総合福祉財団から北辰ホールディングスに九百八十万円が移っています。名目は生活支援費。しかし北辰は、あなたの顧問先です」
成瀬はコピーを見なかった。
「大きな組織を動かすには、汚い金も必要になる」
「認めるんですね」
「私は誰も殺していない」
「人生を消している」
敦の言葉に、成瀬の眉がわずかに動いた。
「麻子さんは、自分から消えた」
「なぜ」
「子どもを守るためだ」
敦は奥歯を噛んだ。
「その子はどこにいるんです」
「知らない」
「嘘だ」
「本当に知らない。麻子さんが最後に頼った相手までは知っている。だが、そこから先は私にも追えない」
「あなたがそういう仕組みを作ったからでしょう」
成瀬は静かに笑った。
「そうだ。だから安全なんだ」
敦は、その笑みを見た瞬間、理解した。
成瀬は自分のしたことを悪だと思っていない。
彼にとって戸籍の操作は、制度からこぼれた人間を救うための裏口だった。だが、その裏口はいつしか金の通路になり、秘密を隠す倉庫になり、人の存在を番号に変える市場になった。
善意から始まったとしても、仕組みになった時点で腐る。
腐った仕組みほど、最初の善意を盾にする。
「先生」
敦は、あえて昔の呼び方をした。
「姉のファイルをすべて渡してください」
「断る」
「では、証拠保全を申し立てます」
「身内の恥を晒すのか」
「恥ではありません。犯罪です」
成瀬は立ち上がった。
背は高くない。だが、法廷で何十年も人を黙らせてきた男の圧があった。
「君にできることは少ない。養子縁組届は形式上有効だ。署名もある。押印もある。金の移動にも名目がある。善意の保護活動だと言えば、世間は迷う」
「裁判官も迷いますか」
「迷う」
成瀬は断言した。
「人は、わかりやすい悪だけを罰したがる。わかりにくい善は罰しにくい。特に、救われた人間がいる場合はな」
敦は何も言わなかった。
そこが一番厄介だった。
この仕組みの中には、実際に救われた人間がいる。暴力から逃げた者、借金取りから隠れた者、戸籍上の家族から切り離されなければ生きられなかった者。
成瀬は、その人たちを盾にしている。
麻子もまた、その盾の一枚にされている。
「姉は、あなたを信じたんですね」
敦が言うと、成瀬の顔から笑みが消えた。
「麻子さんは賢い人だった」
「賢い人を騙したんですか」
「違う。彼女は最後まで、自分で選んだ」
「選ばされたんです」
敦は執務室を出た。
廊下で、津島が立っていた。彼女は敦に小さな封筒を差し出した。
「これを」
「何ですか」
「麻子さんから預かっていました。先生が、いずれここに辿り着いたら渡してほしいと」
敦は封筒を受け取った。
中には、古い写真が一枚入っていた。
姉が写っていた。三十代半ば頃だろう。今より少し痩せていて、疲れた顔をしている。それでも、腕に抱いた幼い女の子を見下ろす表情は、敦の知る姉そのものだった。
写真の裏に、姉の字があった。
この子の名前を、表に出さないで。
敦は写真を握りしめた。
表に出せない子。
戸籍に載せられなかった子。
姉が自分の名前を差し出して守った子。
すべてが一本の線でつながり始めていた。
その夜、敦の自宅ポストに封筒が届いた。
差出人はなかった。
中には、戸籍抄本のコピーと、短いメモが入っていた。
返してほしい。
あの子のために。
文字は姉に似ていた。
だが、姉の字ではなかった。
第3話 偽りの署名
敦は、筆跡鑑定人の柿沼を訪ねた。
柿沼は、裁判所近くの古いビルで個人事務所を構えている。元警察の鑑識官で、退職後は民事事件や遺言書の筆跡鑑定を請け負っていた。灰色の髪を後ろに撫でつけた痩せた男で、書類を見る時だけ異様に目が鋭くなる。
「似せていますね」
柿沼は、麻子の署名と封筒のメモを見比べて言った。
「本人ではない?」
「本人の字を長く見ていた人間でしょう。線の入り方は真似ている。ただ、止めが違う。佐伯麻子さんの字は、最後に少し迷う癖がある。こちらは迷いがない」
「迷いがない?」
「手本をなぞる人間の字です」
敦は息を吐いた。
「養子縁組届の署名はどうですか」
柿沼は拡大鏡を当てた。
「これは本人の可能性が高い。ただし、押印は後から押されています」
「後から?」
「署名のインクと印影の沈み方が違います。紙の保管状態にもよりますが、少なくとも同じ場で同時に処理されたものではない」
敦は、胸の中で何かが固まるのを感じた。
姉は署名した。
だが、すべてに同意したわけではない。
署名だけを取られ、後から印鑑と書類が組み合わされた可能性がある。
「もう一つ見てください」
敦は、倉庫で見つけた送金記録のコピーを出した。
柿沼は数字の横に書かれた小さな記号を見た。
「これは筆跡というより、管理記号ですね」
「管理記号?」
「同じ人間が、同じルールで書いています。M、K、S。おそらく人名か分類。右側の数字は通し番号でしょう」
「Mは麻子のMですか」
「わかりません。ただ、こちらを見てください」
柿沼は、M-19の横にある小さな点を指した。
「この点、ただの汚れではない。チェックマークを消した跡です」
「どういう意味ですか」
「元の書類には、何か別の状態が記されていた。たとえば未使用、保留、凍結。後から消した」
敦は、柿沼の事務所を出ると、すぐに津島へ電話をかけた。
「M-19の状態を知りたい」
電話口で、津島はしばらく黙った。
「倉庫の黒いファイルだけでは足りません」
「他にもあるんですね」
「所長室の金庫に、台帳があります」
「番号の台帳ですか」
「はい。誰の戸籍が、いつ、何に使われたか。そこには、表向きの書類に出ないことも書かれています」
「金庫の番号は」
「知りません」
津島は小さく息を吸った。
「でも、開けられる人ならいます」
その日の夕方、敦はかつて事務所で働いていた司法書士、白石美緒に会った。
白石は三年前に成瀬法律事務所を辞め、今は小さな司法書士事務所を一人で営んでいる。駅前の喫茶店で向かい合うと、彼女は敦の顔を見るなり言った。
「とうとう、そこに行きましたか」
「知っていたんですか」
「全部ではありません。でも、私が辞めた理由はそれです」
白石はコーヒーに口をつけず、両手でカップを包んだ。
「最初は、本当に保護活動でした。DV被害者や虐待から逃げる子に、法的な避難先を作る。戸籍をきれいに動かして、加害者から追えないようにする。私も、必要な仕事だと思っていました」
「それが変わった」
「顧問先が絡み始めたんです。福祉法人、医療法人、投資会社。支援金という名目で金を動かす。戸籍上の親族間なら、説明がつきやすい。寄付、扶養、立替、相続対策。名目はいくらでも作れます」
「姉は」
白石は目を伏せた。
「麻子さんは、一度だけ会いました」
「いつですか」
「四年前。成瀬先生に連れられて来ました。小さな女の子を連れていた。怯えていました」
「姉が?」
「いえ。女の子が」
敦は写真の中の子を思い出した。
「その子の父親は誰です」
白石は即答しなかった。
店内の時計の針が、かちりと進んだ。
「北辰ホールディングスの社長、北見亮介です」
敦は名前を知っていた。
地元では有名な実業家だ。介護施設、児童福祉施設、葬祭会社、マンション管理会社。表向きは地域福祉の旗手として知られている。成瀬の顧問先の一つでもあった。
「北見は既婚者です。麻子さんとの関係は外に出せなかった。子どもの存在も、北見側には都合が悪かった」
「姉は、子どもを隠すために戸籍を動かした」
「そう聞いています」
「誰から」
「麻子さん本人から」
敦はテーブルの下で拳を握った。
「姉は今どこにいます」
「わかりません。ただ、彼女は最後に言っていました。自分の名前が、あの子の逃げ道になるなら、それでいいと」
敦は目を閉じた。
姉らしい、と思ってしまった自分が嫌だった。
麻子は昔からそうだった。自分の分を削って、誰かに渡す。母が病気になった時も、敦が司法試験で行き詰まった時も、いつも姉は自分の不満を後回しにした。
だが、それは美談ではない。
誰かがその優しさに値札をつけた瞬間、善意は商品になる。
「金庫を開けたいんです」
敦が言うと、白石は顔を上げた。
「無理です。成瀬先生は慎重です」
「あなたなら、暗証番号に心当たりがある」
白石は苦く笑った。
「弁護士らしくない聞き方ですね」
「弟として聞いています」
白石はしばらく黙った後、紙ナプキンに四桁の数字を書いた。
「これで開くとは限りません」
敦は数字を見た。
0718。
「何の日ですか」
「成瀬先生が、最初に保護した子の誕生日です」
その夜、敦は事務所に戻った。
所長室は無人だった。成瀬は会食で外出している。敦はドアを閉め、金庫の前に膝をついた。
0718。
電子音が鳴った。
鍵が開いた。
中には、黒い革表紙の台帳が一冊入っていた。
敦は表紙を開いた。
ページの上部に、こう書かれていた。
戸籍移動管理簿。
そしてM-19の欄に、姉の名前があった。
佐伯麻子。
状態欄には、赤いペンでこう記されていた。
凍結解除。
北見案件に転用。
本人所在不明。
子の保護先、未確認。
敦は、その一行を何度も読んだ。
姉は、自分で消えたのではない。
少なくとも途中からは、消された。
第4話 戸籍在庫
敦は台帳をコピーしようとして、手を止めた。
このままコピー機を使えば履歴が残る。スマートフォンで撮影すれば、証拠能力を争われる。だが何もしなければ、明日には処分されるかもしれない。
彼は深く息を吸い、台帳をバッグに入れた。
その瞬間、所長室のドアが開いた。
成瀬が立っていた。
「窃盗だぞ、佐伯君」
敦はバッグを肩にかけた。
「証拠隠滅を防ぐためです」
「君はまだ弁護士でいたいのか」
「そのつもりです」
成瀬は静かにドアを閉めた。
廊下のほうから、誰かの足音が近づいてくる。敦は、所長室に自分と成瀬だけではないことを悟った。
「台帳を置いていきなさい」
「嫌です」
「そこには、守られるべき人間の名前もある」
「利用された人間の名前もあります」
「同じことだ」
「違います」
敦は成瀬を見た。
「守るために隠すことと、使うために隠すことは違う」
成瀬の顔に、初めて怒りが浮かんだ。
「君は何もわかっていない。この制度の外に落ちた人間を、表の正義は救ってくれない。裁判所は遅い。警察は動かない。役所は書類が足りないと言う。ならば、こちらで道を作るしかない」
「道ではなく、在庫です」
敦はバッグの中の台帳を押さえた。
「番号を振って、金の流れに合わせて使っていた」
「必要な金だ」
「北見のための金でしょう」
その名を出した瞬間、成瀬の顔が変わった。
やはりそこが中心だった。
北見亮介。
成瀬の顧問先であり、姉の子の父親であり、この戸籍トンネルを利用して資金を流していた男。
「北見は何を恐れているんですか」
「知らない」
「姉の子ですか」
「知らないと言っている」
「北見の隠し子が表に出れば、彼の福祉法人は終わる。補助金も、政治家との関係も、すべて調べられる。だから姉と子どもを消した」
成瀬は答えなかった。
その沈黙こそ答えだった。
廊下の足音が近づく。敦は窓を見た。四階。飛び降りるには高すぎる。所長室の奥には、会議室につながる小さなドアがある。昔、避難経路として作られた扉だ。
敦は一歩後ろに下がった。
「台帳を返すんだ」
「法廷で会いましょう」
敦は会議室への扉を開け、走った。
背後で成瀬が叫んだ。廊下の向こうから男たちの声がした。敦は会議室を抜け、非常階段へ出た。雨が降っていた。鉄の階段が濡れて滑る。足音が反響する。
三階、二階、一階。
裏口から外へ出ると、黒い車が止まっていた。
運転席の窓が下がる。
白石美緒だった。
「乗って」
敦は迷わず助手席に乗った。
車が走り出す。背後で、事務所の裏口から男が二人出てきた。だが追ってはこなかった。
「なぜここに」
「津島さんから連絡がありました。あなたは無茶をするから、と」
白石は前を向いたまま言った。
「台帳は?」
「あります」
「なら、すぐに保全しましょう。私の事務所にスキャナーがあります。時刻入りで読み込んで、複数箇所に送ります」
「違法に持ち出した証拠です」
「それでも、消されるよりましです」
白石の声は震えていなかった。
その夜、二人は白石の事務所で台帳を読み込んだ。ページ数は百二十を超えていた。番号、氏名、生年月日、届出日、用途、関連法人、送金額、状態。
M-19、佐伯麻子。
用途欄には三つの記載があった。
保護対象者の親族化。
北辰福祉財団支援金経由。
北見案件、子の存在非開示。
敦は、画面の前で動けなくなった。
姉は、最初に子どもを守るために署名した。
成瀬はそれを使い、北見の資金流用を隠した。
北見は福祉法人への補助金や寄付金を、親族支援や施設外支援という名目で外へ流し、その一部を関連会社へ戻していた。戸籍上の親族や養子関係があれば、金の移動に生活実態という言い訳がつく。
姉の名前は、そのための通路になった。
トンネルを通った金は、出口で別の名札をつけて戻ってくる。
「これだけでは足りません」
白石が言った。
「台帳は内部資料です。相手は偽造だと言うでしょう」
「何が必要ですか」
「北見側の送金記録。法人の会計帳簿。あとは、麻子さん本人の意思を示すもの」
「姉は行方不明です」
「だから、子どもです」
敦は顔を上げた。
「子どもを探すんですか」
「探すしかありません。麻子さんが守ろうとした子が実在し、北見との関係が証明できれば、すべてがつながる」
「でも、その子を表に出すことになる」
白石は黙った。
そこが最も難しい問題だった。
姉は子どもを隠すために消えた。敦が真実を暴けば、子どももまた光の下に引き出される。
守るために暴く。
暴くことで傷つける。
法律は、時々その二つを同じ手で行わせる。
夜明け前、敦のスマートフォンに非通知で電話が入った。
敦は出た。
しばらく無音が続いた。
そして、聞き覚えのある声がした。
「敦」
姉だった。
「姉さん?」
白石が息を呑む気配がした。
電話の向こうで、麻子は小さく笑った。
「まだ、声でわかるんだ」
「どこにいる」
「言えない」
「無事なのか」
「無事、という言葉の意味によるかな」
敦は目を閉じた。
泣きそうになるのを堪えた。怒りも、安堵も、後悔も、同時に込み上げてくる。
「姉さん、あなたの名前が使われてる。北見の金に」
「知ってる」
「知ってたのか」
「途中で気づいた」
「なぜ逃げなかった」
「逃げたよ。だから今、私はいないことになってる」
敦は言葉を失った。
麻子は続けた。
「あの子を探さないで」
「でも、真実を証明するには」
「わかってる。だから証拠を送る」
「証拠?」
「北見が私に送ってきたメール。成瀬先生とのやり取り。送金の指示。全部ではないけど、足りるはず」
「姉さん、今どこに」
「敦」
麻子の声が、少しだけ強くなった。
「私を助けようとしないで」
「無理だ」
「あなたは昔からそう。自分が助けられてきたことを忘れて、今度は助ける側に立とうとする」
「姉さん」
「私は、自分で選んだことの責任を取る。でも、利用されたままで終わるつもりはない」
電話の向こうで、風の音がした。
「成瀬先生は、最初は本当に人を助けてた。だから私も信じた。でも、人を助ける仕組みは、人を消す仕組みに変わる。気づいた時には、もう遅かった」
「遅くない」
「遅くないようにして」
電話は切れた。
数分後、敦のメールアドレスに大容量ファイルのリンクが届いた。
差出人名はなかった。
白石が中身を確認し、顔色を変えた。
「これなら戦えます」
敦は画面を見た。
北見から麻子へのメール。
成瀬から北見への送金指示。
戸籍番号M-19を使うよう指示したメモ。
そして、麻子が最後に書いたらしい文書。
私の署名は、子どもを守るためにしたものです。
金を隠すためではありません。
私の名前を通路にしないでください。
敦は、その一文を何度も読んだ。
姉の声が、そこにあった。
第5話 証人のいない法廷
訴訟は、予想以上に大きな事件になった。
敦は成瀬法律事務所と北辰福祉財団、そして北見亮介を相手取り、養子縁組を利用した名義操作と不正な資金移動の差止め、関連書類の開示、麻子の氏名利用の停止を求めた。刑事告発も同時に準備した。
だが、相手は強かった。
成瀬はベテラン弁護士だ。北見には企業法務専門の大手事務所がついた。彼らは、敦の主張を「家族内の感情的対立」と位置づけようとした。
第一回口頭弁論の日、法廷は記者で埋まっていた。
福祉法人の補助金不正疑惑。
弁護士による戸籍操作疑惑。
消えた女性の名前。
世間が好む材料は揃っていた。
だが敦にとって、それは姉の人生だった。
「原告は、養子縁組制度そのものを誤解しています」
北見側の弁護士は、穏やかな口調で言った。
「本件の各届出は、いずれも形式上適法に受理されています。佐伯麻子氏本人の署名も存在する。資金移動についても、福祉支援、生活支援、親族間援助として説明可能です」
裁判官は資料に目を落としていた。
敦は立ち上がった。
「形式が整っていることは、争いません」
法廷が静かになった。
「問題は、その形式が何のために使われたかです」
敦は証拠の束を示した。
「養子縁組届の署名は、子どもを保護するために取得されたものでした。しかし、その後、本人の認識を超えて、北辰福祉財団の資金移動に利用されています。戸籍上の親族関係を作り、支援金という名目で資金を流し、関連会社へ還流させる。その通路として、佐伯麻子の名前が使われたのです」
相手方弁護士が立ち上がった。
「推測です」
「推測ではありません」
敦は、一枚のメールを提出した。
北見から成瀬へ送られたものだった。
M-19を使え。
親族支援で処理。
子の件は表に出すな。
法廷の空気が変わった。
北見の顔から血の気が引いた。
成瀬は、動かなかった。
「このM-19が誰を指すのか」
敦は続けた。
「内部台帳と照合すれば明らかです。佐伯麻子です」
相手方は、台帳の証拠能力を争った。
持ち出しの違法性、作成者の不明確さ、改ざん可能性。予想された反論だった。
そこで、敦は津島節子を証人として申請した。
津島は、証言台に立つと小さく頭を下げた。顔色は悪かったが、視線はまっすぐだった。
「この台帳を作成、管理していたのは誰ですか」
敦が尋ねた。
「成瀬所長です。ただ、入力や整理は私も手伝っていました」
「M-19は誰を指しますか」
「佐伯麻子さんです」
「用途欄の『北見案件に転用』とは何ですか」
津島は一瞬、成瀬の方を見た。
成瀬は無表情だった。
「北見亮介氏に関係する資金処理に、麻子さんの戸籍上の関係を使うという意味です」
法廷内がざわめいた。
裁判官が静粛を求めた。
「麻子さんは、そのことを知っていましたか」
「最初は知りませんでした」
「最初は、ということは」
「後で気づきました。そして、やめてほしいと言いました」
「誰に」
「成瀬所長に」
敦は次の質問をする前に、一呼吸置いた。
「その時、成瀬所長は何と答えましたか」
津島の唇が震えた。
「もう戻れない、と」
成瀬がわずかに目を閉じた。
敦は机上の書類を握った。
「麻子さんは、なぜ署名したのですか」
「子どもを守るためです」
「その子どもとは、誰の子ですか」
相手方弁護士が立ち上がった。
「異議あり。未成年者のプライバシーに関わります」
裁判官は敦を見た。
敦は頷いた。
「氏名は出しません。親子関係の存否のみを確認します」
裁判官は少し考え、証言を許可した。
津島は、細い声で言った。
「北見亮介氏と佐伯麻子さんの間に生まれた子です」
その瞬間、北見が椅子を引いた。
床に脚が擦れる音が、法廷に響いた。
北見側の弁護士が何か耳打ちしたが、北見は答えなかった。額に汗が浮いていた。
敦は、姉が残した文書を提出した。
私の署名は、子どもを守るためにしたものです。
金を隠すためではありません。
私の名前を通路にしないでください。
筆跡鑑定書も併せて提出した。
裁判官は長い時間、その文書を読んでいた。
午後の審理で、白石美緒が証言した。
彼女は、成瀬法律事務所に在籍していた当時、養子縁組を使った保護案件が存在したこと、途中から福祉法人や関連会社の資金移動に使われ始めたことを証言した。
「私は、最初の目的まで否定するつもりはありません」
白石は言った。
「本当に逃げ場を必要としている人はいました。でも、その人たちの弱さや秘密が、いつの間にか管理され、番号を振られ、別の利益のために使われるようになった。それを見て、私は辞めました」
裁判官はペンを置いた。
「成瀬被告に確認します」
成瀬が顔を上げた。
「この台帳の存在を認めますか」
成瀬はしばらく黙っていた。
法廷の全員が、彼の答えを待った。
「認めます」
相手方弁護士が顔色を変えた。
「ただし」
成瀬は続けた。
「私は、誰かを救うために始めた」
敦は目を閉じた。
その言葉を、姉にも聞かせたかった。
いや、姉はもう知っていたのだろう。
だからこそ、最後に言ったのだ。
人を助ける仕組みは、人を消す仕組みに変わる、と。
第6話 出口のない名前
判決の日、雨が降っていた。
敦は裁判所の廊下で、窓の外を見ていた。濡れた街路樹の葉が、灰色の空の下で揺れている。手元には、姉から送られてきた最後のメールを印刷した紙があった。
そこには、短い言葉だけがあった。
敦。
あの子を表に出さないでくれてありがとう。
でも、私の名前は取り戻して。
名前まで誰かの道具になるのは、もう嫌だから。
敦は、その紙を折り畳んで胸ポケットに入れた。
法廷に入ると、傍聴席は満席だった。記者、関係者、北辰福祉財団の職員らしき人々。成瀬は被告席に座っていた。以前より少し痩せたように見えた。
北見は来ていなかった。
代理人だけが座っている。
裁判官が入廷し、全員が立ち上がった。
判決文の朗読は、淡々としていた。
裁判所は、養子縁組届そのものの有効性については限定的な判断にとどめた。姉の署名が存在し、当初の意思が完全に否定できない以上、すべてを無効とすることは難しい。
だが、裁判所は明確に認めた。
佐伯麻子の氏名および戸籍上の関係が、本人の当初の意思を超えて資金移動の名義上の説明に利用されたこと。
成瀬法律事務所が、複数の戸籍関係を番号で管理し、関連法人間の資金移動に用いていたこと。
北辰福祉財団から関連会社への資金還流に、不自然な親族支援名目が使われていたこと。
そして、佐伯麻子の氏名利用を停止し、関連資料を開示すること。
裁判官は最後に、こう述べた。
「法制度は、人を守るために存在する。人を見えなくするために存在するのではない」
敦は、目を伏せた。
勝った。
だが、姉は戻ってこない。
判決後、記者たちが敦を囲んだ。
「佐伯先生、今回の判決をどう受け止めますか」
「戸籍制度の問題について、今後も訴えていきますか」
「お姉さまの所在は確認できていますか」
敦は最後の質問にだけ、短く答えた。
「姉の人生は、姉のものです」
それ以上は何も言わなかった。
裁判所を出ると、津島が待っていた。
彼女は深く頭を下げた。
「すみませんでした」
「津島さんが証言してくれなければ、勝てませんでした」
「私は、ずっと見ていただけです」
「見ていた人が話すことで、変わることもあります」
津島は泣きそうな顔で笑った。
その少し後、白石が走ってきた。
「佐伯先生」
彼女はスマートフォンを差し出した。
「麻子さんからです」
画面には、メールが表示されていた。
件名はなかった。
本文には、写真が一枚添付されていた。
海辺の町らしき場所だった。古い防波堤、曇った空、遠くに見える白い灯台。その手前に、二人分の影が写っていた。顔は写っていない。大人の影と、子どもの影。
メッセージは一行だけだった。
出口はまだ見つからないけれど、息はできています。
敦は、その一行を見つめた。
姉らしい言葉だと思った。
助けてとは言わない。
帰るとも言わない。
ただ、生きているとだけ知らせてくる。
「探しますか」
白石が聞いた。
敦は首を振った。
「探しません」
「いいんですか」
「姉は、見つけてほしい時には、ちゃんと手掛かりを残す人です」
敦はスマートフォンを返した。
その日の夕方、成瀬法律事務所の看板が外された。金色の文字は、壁に薄い跡だけを残した。北辰福祉財団には行政調査が入り、北見亮介は後に業務上横領と補助金適正化法違反の疑いで報道されることになる。
だが、それはもう少し先の話だ。
敦は、姉の戸籍に残された記録を何度も読み返した。
そこにはまだ、完全な回復はなかった。消えた時間は戻らない。勝訴判決が出ても、紙の上の名前がすぐに元通りになるわけではない。制度は壊れる時には一瞬なのに、直す時にはひどく時間がかかる。
それでも、姉の名前は少しずつ、誰かの通路ではなくなっていった。
番号ではなくなっていった。
ある夜、敦は役所を訪れた。
仕事を終えた後の夜間窓口には、白い蛍光灯がついていた。かつて姉の書類が出された場所だった。窓口の奥では、若い職員が書類を確認している。
敦は何も提出しなかった。
ただ、廊下の端に立ち、しばらくその光を見ていた。
制度は冷たい。
だが、冷たいからこそ、誰かの手で温める必要がある。
温めるふりをして、人を溶かしてはいけない。
姉は、制度の中で消えた。
けれど、消えたままでは終わらなかった。
自分の名前を取り戻せと言った。
その声だけは、どんな台帳にも、どんな番号にも、消せなかった。
数日後、敦のもとに小包が届いた。
差出人はなかった。
中には、小さな赤い印鑑が入っていた。
姉が昔から使っていた、丸みのある印影の印鑑だった。学生の頃、母が姉に買ってやったものだ。側面に小さく、麻子、と彫られている。
添えられた紙には、短い文字があった。
これは、私の名前にだけ使って。
敦は、印鑑を手のひらに乗せた。
軽かった。
けれど、その軽さの中に、姉の人生が確かに残っていた。
外では、雨が上がっていた。
濡れた道路に街灯が映り、長い光の筋を作っている。どこかへ続くトンネルのようにも見えた。
敦は窓を開けた。
湿った風が部屋に入ってくる。
その風の中で、彼は初めて小さく笑った。
出口はまだ遠い。
それでも、名前は戻り始めている。
了




