おまけ
夜、午前二時過ぎ頃。すなわち、丑の刻の頃。隣で動く気配に、景明の意識は覚醒する。ただし、瞼はまだ閉じたまま。
障子が開く。ぺたりぺたりと、裸足の足音がする。
数秒後、景明はようやく目を開ける。上半身を起こして、障子の方を見た。一枚分が開いている。冷たい空気が入って来て、思わず顔を顰めた。
現在は十月下旬。ゆっくりと冬の気配が近付いてきている。雪が降るのはまだ先だが、吹く風は冷たく、肌寒い。
景明は枕元に置いていた羽織を肩にかけると、開いている障子を抜け、廊下に出る。勿論、障子はしっかり閉めた。
長い廊下。しかし、前方に人影はない。
庭の方を見る。月明かりに照らされて輝く、純白の毛並みが見えた。
景明は、すぐ近くに置かれていたサンダルに足を突っ込む。
誰の物かは知らないが、サイズ的に男物なので、十中八九、豊のものだろう。たまに拝借している。
山上神社は、東方に連なる山の一つにある。長い階段の上にあるので、神社と、この家の三方向は木々に囲まれている。
庭を突っ切り、神社の裏に行く。並ぶ木々の中で、純白の狼が駆け回っていた。
一週間に一度か二度の頻度である。景明の妻という扱いになっている従姉、紗重は、夜な夜な起きては、己の本性である狼の姿で山を駆けている。
豊と幸子に訊いてみたが、彼らは気が付いていなかったらしい。
本人には訊いていないが、普段の様子から自覚がないように見える。まるで夢遊病のようだが、詳しいことは景明にはわからない。
いっそのこと、紗重の本来の人格である、この山の女神に問えれば答えは返ってくるだろうか。ただ、女神は気まぐれで、今のところ、肉体の主導権は紗重に一任している。
そういえば、先日は紗重の意志に関係なく、出てきたようだった。景明と因縁がある、狐姿の山の女神が現れた時のことではない。わざわざ、自らの毛を切って、キーホルダーに詰めてくれた時のことだ。
かつて、景明を攫った女狐は、この東山に君臨する狼女神を恐れているようだった。プライドが山より高い女なので、自ら認めることはないだろうが、景明がその山を出て、下田小学校に行っただけで遥々、姿を現したのがその証拠。とはいえ、景明に同伴していた女が、その狼女神の化身だとは気が付かなかったようだ。
幻術になかなか気付けない狼女神もだが、神というのは、どこかしら抜けているものなのだろうか。
いや、人間も妖も、誰かしら、なにかしらの欠点があるのは、当然のことだ。
初めは警戒からだった。いくら助けてもらったといえど、己をいいようにし続けた女狐と同じ、山の女神。それだけで、信用しきれなかった。今も、少ししていない。
だが、紗重としての人格は信用に足りると思った。何故かは知らないが、女神としての自覚がない彼女は、自分をただの人間であると認識していた。
ならば、あの強大な姿をして炎を操った女狐は、恐ろしかったはず。だというのに、紗重は景明を連れて逃げた。景明を見捨てることも、恐怖に心を壊すこともなく。その勇気がどれほど強く、得難いものか、これまで、あの女狐に蹂躙されてきた者達を見てきた景明にはわかる。
寝惚けた白狼ではなく、ちゃんと目覚めている彼女に会いたいと、漠然と思った。
「……寝よう」
景明は、かじかむ両手の指を擦り合わせた。
踵を返し、来た道を引き返す。神社の境内に入り、本殿の横を通って、参道へ――
『ところで、あなたは気が付いたかしら』
「え?」
背後から聞こえた声に、景明は勢いよく振り返った。神社裏に置いてきたはずの狼がいた。しかし、その中身は先ほどと違うとわかる。
「あなたは、大口真神……」
『そうね、一応』
景明は石畳に膝を突こうとした。
『まぁ。楽にしていいわよ。あなたは"私"の夫でしょう? それとも、そう言われるのはお嫌かしら』
「……そのようなことは……」
少し前ならば、神の伴侶など、二度と御免だった。
だが、人間は容易く心変わりするもの。たとえ、景明の肉体が既に人間から逸脱してしまっているとしても、本人は昔も今も、これからも人間のつもり。
「それで、気が付いた、というのは、どのような意味でしょうか」
景明は話題を変える為に問いかけた。狼は咎めることもなく、答える。
『ドウカと名乗った娘がいたじゃない? アレ、狐よ』
「は?」
狐。と聞いて真っ先に思い浮かんだのは、かつて己を攫った北山の女神。
『あの子じゃないわ』
景明の内心を見通したように、狼は否定する。
『でも、似た存在よ。ドウカと名乗ったのなら、御先稲荷と言った方がいいのかしらね。つまり、オサキ。狐の憑き物』
「憑き物……。なら、使役している人間がいる、ということですか?」
オサキは狐憑き、憑き物筋と呼ばれる人間達に憑き、使われている。
『さぁ、どうかしらね。ドウカの単独である可能性の方が高いわよ。アレは、あの子――北山の狐の姉妹みたいだし。個人的に、己の姉妹のお手伝いをしたかったんじゃないかしら』
「姉妹?」
景明は驚いた。あの女狐に姉妹がいるなんて、初めて聞いた。
いや、家族のことのみならず、あの女狐のことはなにも知らない。知っているのは、加虐的で、残虐で、短気なことぐらい。
『あの子は元々、とある神の遣いだったのよ。家族皆。でも、家族のひとりが罪を犯したせいで、一族郎党、神使から妖に堕ちた。他の家族は知らないけど、あの子はその後、運良く北山の人間に祀られて、神格を得たの』
あの性格の悪さだ。真正の神には到底思えなかったが、妖上がりならば納得できる。妖の多くは、人間に恐怖を与えるものだからだ。
『当分、この山から外に出ることはお勧めしないわ。少なくとも、ドウカの動向がどうなっているか、確認しないと』
狼はフサフサの尾を一振りすると、その姿を変える。長い黒髪を垂らした美しい女へ。
「ごめんなさいね」
見た目は、藤田紗重。だが、表情や仕草は違う。紗重よりも遥かに老成した雰囲気。加えて、早朝の森の中のような、澄んだ空気を纏っているからだろうか。
「あなたには、まだ不自由をかけるわ」
狼女神は眉を下げ、心底申し訳なさげに言う。
「……別に、いいです」
なんとなく直視し難く、景明はそっぽを向く。
本当はよくはない。だが、いつか自由を得られるとわかっているのなら、待てる。なんの根拠もなく、あるかもわからない助けを待つよりも、遥かにマシ。
狼女神が一つ、手を叩く。
「さぁ、寝ましょう。明日もお仕事があるんでしょう?」
そうだ。だが、それは紗重も同じ。
「……彼女はどうして、夜中に狼の姿で走っているんですか?」
今なら訊けそうだと、景明は思った。
数歩先を行った狼女神は、黒髪を翻して振り返る。
「ただのストレス発散よ」




