雰囲気と分かりやすさ
「薬屋のひとりごと」というアニメで話題になった作品内で出てきた日本語について、である。
ざっと眺めてみると、だいたいがバカな判断、というかやってはいけないこと、みたいな論調であった。
しかしドラマなどで英語で書かれているはずの文章が日本語になっている作品を見たことがないのか?と私は思った。すなわち私達が今見ているその作画はすでに翻訳されている、と考えるべきなのでは?と。
そもそも視聴者とは違う国、世界を舞台とした作品で必ず出てくる問題である、その言語はどこのなんという言語なのか、とかその言い回しやモーションは固有の文化に基づいたものではないのか?という問題である。
例を上げれば、例えば「葬送のフリーレン」という作品の名詞がだいたいドイツ語由来であることや、ポーズとしてのガッツポーズやファッキューが通じるのか、四面楚歌とか呉越同舟とかの固有名詞が含まれている言い回しの問題である。さらに加えて言えば、異世界にじゃがいもを利用した料理があり、じゃがいもがじゃがいもと言われる問題、度量衡が日本と同一な問題などである。
これらは全て、私たちがその物語を理解しやすく、読みやすいようにすでに翻訳されているものだ、という概念で全て説明がつく。
逆に言うと、この辺を厳密にやっていくと、人間が全く読めない、理解できないものが出来上がってしまう。
槍玉に上がりやすい異世界ものなどを厳密にしていくと、そもそも空気の組成がこちらと同じであるとか、土地、星としての感覚が同じであるとか(水平線で船がマストから見えてこない作品など私は見たことがない)、違和感は出てくるものだ。しかしそれらを逐一オリジナリティあふれる設定に変えていったものを、果たして皆はエンターテイメント作品としてそれを受け取ってくれるのだろうか?
いちいち度量衡がオリジナルで、色の表現も違う、知っている名詞が出てこない作品など私は読みたくない。
それにたまたま1メートルと同じ1カッシュなる単位があったとして、メートルだけ同じであっても意味は薄く、1センチも1グチズであり、3カッシュ53グチズと書くなら、もう3メートル53センチでいいと思うのだが。メートルやセンチが同じであるという都合の良さを使っているならもうごまかし無しで分かりやすいものでいいではないか、と。
そもそも異世界に人間が居て、たまたま交流できるレベルにあったとするのはおかしい、というSF脳はSFでやってほしいものである。そんなことを言い出していたらきりがないからだ。それがテーマになりうるSFなら割とありだけど、かなり難解で難しい作品となると思う。だからSFというジャンルは滅びた。(厳密には滅びていないが、SFと書くとうるさがたが涌いてくる)
何が言いたいのか、というとケチをつけるなら筋が通ったものにしてくれ、という感じだ。パルスのファルシのルシがパージでコクーンはもう古いのだろうが、これで懲りていてほしいのだけど。
話を最初に戻すと、あのシーンで例えば中国語で書くと、あの舞台が中国であるということになってしまう。あの世界は中国に似ているけど全く違う異世界なので中国語であってはいけないのだ。
ならば異世界語をでっち上げれば良い、のだろうが、そこには予算と手間がかかる上に、視聴者には理解できないものとなる。あのシーンでは視聴者があそこに何が書かれていたのか理解しないとお話が理解できないので、結局字幕などの翻訳をつけることになる。すなわち異世界語には雰囲気という意味しかなくなる。そこに予算と手間を使うのか、という制作の問題にもつながってくる。急にそこにだけ字幕が入ったら見ずらいというのもあると思う。ならば割り切ろう、という話なだけだ。
そもそもすでに中国風の異世界であるのに皆日本語で話をしているのだから、あの世界では日本語が使われている、でも一向に構わないはずである。
なぜ文字だけ異世界語で話をしている言語は日本語なのだろうか? そこに異議を唱えないなら今回のツッコミは片手落ちであり、難癖に過ぎない。それとも全編、異世界語で話し、視聴者は字幕を追うのが精一杯という国産アニメを見たいのだろうか?
そうではないと思う。
だからあの文字は私達視聴者に分かりやすく翻訳されたものを見せてくれただけに過ぎない、と考えるほうがお互いに楽だと思う。
一年以上前に書いた文章です。今後はそんなに時事ネタは扱わないはずなのでご勘弁ください。