19-1 社畜を救え
ユーリの母は祈りをかかさなかった。五歳までしかない母親の記憶の中で、一番覚えている母の姿は、母が祈る姿だった。
『お祈りを忘れないようにね。自分のためだけじゃなく、自分以外の誰かのためにもお祈りしてあげるの』
そしてこれが、五歳までしかない母親の記憶の中で、一番印象に残っている台詞。心に焼き付いている台詞。ユーリに何度も言って聞かせた台詞だ。
ユーリの母は優しかった。自分を見下ろし、微笑む顔を見上げるのが好きだった。自分と同じ目線になった時の母親の顔を間近で見るのも好きだった。
しかし今、その顔は目の前でどろどろに溶けている。
五歳のユーリはその現実を受け入れられず、命の危険に晒されているというのに、解けた母親の亡骸の前で泣きじゃくり続けている。
『おかーちゃ~ん、死んじゃった♪ おかーちゃ~ん、くたばったー♪』
泣きじゃくるユーリの耳に気色の悪い声と歌が響いた。それが嬲り神との出会いだった。
嬲り神がどうして自分を助けてくれたのか、ずっと謎だ。ミヤにその話をすると怒られる。そして口外するなと口止めされている。
その後宝石百足とも出会い、以降、ユーリの心は宝石百足の心と繋がっている。
セントと名乗った宝石百足に関しては、本人によって口止めされている。ミヤにすら話していない。宝石百足の謎も解き明かしたいと思っているが、手がかりは得られない。セントに話しかけても答えてくれない。セントそのものをこちらの世界に呼びたいと願っているが、その方法もわからない。
「先輩、話聞いてる?」
「あ、ごめん。ぼーっとしてた」
物思いに耽っていたユーリの顔を、ノアが間近から覗き込んでいた。
「すまんこって言おう。この前の絵本世界での、教祖モズクの説教、覚えてる? 俺はスピリチュアルな感じしてキモかったけど、それでも記憶に焼き付いちゃってる。これが教祖の言霊パワーなのかな?」
「プラスの波動を持つ人と、マイナスの波動を持つ人の話?」
「それ。俺の母さんは正にマイナスの塊だった。先輩と婆はプラスだ。婆は俺にマイナス評価つけるから、その時はマイナスになるけど」
陰鬱な表情になって語るノア。
「フェイスオンはプラスの人だと感じる。でもそんなプラスのフェイスオンでも、自分の医療技術の向上のために、こっそりと人を殺して実験台にしていた。そしてそのマイナスの行為は、プラスに変わっている」
「一概に人を白黒で決めるのはよくないって話だよ」
「うん、そう思う。モズクのあれ、嫌な考え方、嫌な見方だ。でもさ、嫌なのに意識してしまうんだ。俺の頭の中にこびりつきそうで、それがもっと嫌だ。いちいち人をプラスマイナスで判定しそう。婆が、俺達の発言や行いや成果に対して、一つ一つにプラスマイナスつけるのはいいんだ。一応師匠だしさ。それにあれが婆の面白い所でもある。でも人そのものを見て、いちいちプラスマイナスで判定ってのは何か凄く嫌だ」
「うーん……。師匠にも相談してみたら? あるいはアルレンティスさんの誰かとかさ」
「一番相談しやすいのが先輩だから、先輩に相談したっていうのに、他の人に相談しろってどうなの?」
「あ……そうだったんだ……」
むくれ顔になって訴えるノアに、ユーリは頭を掻く。
「でも僕には今言ったような、ありきたりな答えしか思い浮かばないや。ごめん」
「感じたままでいいよ。わからないならわからないでいい」
「感じたままなのが、その考えはよくない。と、これだけだよ。ノアと同じだよ。で、他の人に相談したら? に戻っちゃうな。僕なんかより、師匠とかの方がいいアドバイスくれると思うしさ」
「むー……じゃあいい。先輩に聞いたのに……」
ユーリの回答に対し、ノアが不服げに唸ったその時、呼び鈴が三回鳴った。仕事依頼の合図だ。
「やっほ~、今回はちょっくら深刻な事態ですよ~」
扉を開くと、黒騎士団副団長のイリスが飛び込んできて、広間を飛びま寄りながら弾んだ声をあげる。
「そんな事態はうちにもってこなくていいよ。ブラッシーにでも回しな」
祭壇の前で祈っていたミヤが、イリスを一瞥してすげない口調で言い放つ。
「あははは、そうしたくても出来ないんですよね~。何しろそのブラッシー殿が絵本世界に救助に入ったまま、もう四日も帰ってこないんですよー」
椅子にとまったイリスが笑う。
「あのブラッシーさんが……」
驚くユーリ。魔王直属の大幹部八恐の一人であり、リビングレジェンドとなっているブラム・ブラッシー程の人物が未帰還とは、たたごとではない。
「ブラッシーは俺の会社の社員だし、絶対見過ごせない。絶対に救出して、絶対に馬車馬のように働かせ続けないと」
「そんなに仕事沢山させてないでしょ。そもそもノアのイベント会社って、たまにしかイベント開かないしさ」
やる気を見せるノアに、ユーリが突っ込んだ。
「そっか……。チャバックのために作った会社だけど、チャバックは魔術学院に入っちゃうし、どうしたものかな……。ブラッシーだけでも働かせるかな。ていうかブラッシーを人喰い絵本攻略に働かせて、そのお金はどうなってるの? 社長の俺の断りも無しに人の会社の社員こき使って、こっちにはお金無し?」
ノアが喋っている途中にはたと気付き、イリスに問いかける。
「はあ? そんな話は初耳よー。そっちにお金払う義理も無いし、払わなくちゃならない法律も無いってのー」
「むむむ……」
うるさそうに答えるイリスに、ノアは眉間にしわを寄せて唸る。
「難易度が高い世界なら、救助隊だって数日かかることはあるさね。儂等もそれくらいかかったことはある。しかし……まあ気になるのは確かだね」
「気になる?」
ミヤが口にした一言が、ユーリは引っかかった。
「ああ、ずっと気になっていたことがある。今回は間違いなく嬲り神の干渉がある絵本だろう。そして……嬲り神は本格的に動くかもしれないってのが、気になっていることだよ」
「本格的に動く?」
ミヤの口にしたその台詞が、ノアには引っかかった。
「師匠、嬲り神とこそこそ話してたし、何か知ってそう」
「まだ推測レベルだけど、あいつが何か企んでいることは間違いない。気になる台詞が幾つもあったからね」
ノアが口にした言葉を聞き、ミヤが言った。
(そして……儂のせいで、時期が早まっちまった。ま、放っておいても、その時は来るんだけどね)
口の中で呟き、小さく嘆息するミヤ。
(嬲り神……何をするつもりなんだろう)
ユーリが表情を曇らせて思案する。今回は大ごとのような予感がする。
(神様、お願いします。今回も皆が無事で帰還できますように)
ユーリが手を合わせて祈った。
***
現場に赴いたミヤ、ユーリ、ノア、イリス、他騎士二名は、そこで黒騎士団団長ゴートと出会った。黒騎士団達もいる。
「あれま、団長殿、どうしてここに~?」
「渋い顔してるね。何かあったのかい?」
イリスとミヤが声をかけると、
「実は先程、サユリ殿が勝手に絵本の中に入られてしまいまして……」
「げええぇっ! サユリ・ブバイガっ!」
「はんっ、サユリかい……」
「ですね……」
ゴートの報告を聞き、イリスは大袈裟に叫び、ミヤはキャットフェイスを思いっきりしかめ、ユーリも同意した。
「サユリ・ブバイガって、ア・ハイ群島で名の知れている七人の魔法使いの一人だよね? 確か序列三位」
ノアが確認する。名前は知っていたが、会った事は無いし、どういう人物かも知らない。
「序列はあまりあてにならないけどね。サユリは序列三位と言っても、序列二位のアザミと遜色の無い実力者だ。今はサユリの方が、アザミより上かもしれない。それに序列四位のシクラメの方が、妹のアザミより明らかに上だし」
「じゃあ師匠の序列一位ってのは?」
「ふんっ、それはあてにしていいよ。それだけは確かさ」
ノアが尋ねると、ミヤは鼻を鳴らして言い切った。
「で、皆の反応からするとヤバい奴?」
「まあ……ヤバいというより……うん、まあ、そうだねえ……」
ノアの問いに、口を濁すユーリ。イリスとミヤとゴートも答えづらそうにしている。
ミヤ達が絵本の中に入る。
常ならば、人喰い絵本に入った瞬間、脳内に直接絵本を見せられる事になる。そうなるであろうと、一同予期して疑っていなかった。
しかし絵本を見ることはなかった。全員目食らった様子で互いを見合わせる。
「わーお、絵本が無かったですよー。情報ゼロで手探りですか~」
「人喰い絵本の中に何百回も入ったけど、最初に絵本無しってのは初めてさ。嬲り神め……」
イリスがせわしなく翼をはためかせて戸惑いを表現し、ミヤが不機嫌そうにぐるぐると唸る。
「また先輩だけはぐれてる。念話も通じない」
ノアが言う。確かにユーリだけがいなかった。
「はぐれるにしても、出来れば、ユーリの側にお前がいてほしかったね」
ミヤがノアを見やる。
「師匠、わりと心配性なんだね。先輩には過保護」
「そうかもね」
ノアが冗談めかすと、ミヤはゆっくり首を振って言った。
「どーしてですかー? ユーリ君はしっかり者じゃないですかー。ノアちゃんが一人になった時の方が心配だと思うけどな~」
不思議そうに尋ねるイリス。
「このインコ、俺のこと何だと思ってるんだ。調教してやる」
「ぎゃーっ! 魔法で攻撃とかひどいっ! インコ扱いも酷い! オウギワシとインコ間違えるっておかしいでしょーっ!」
ノアが攻撃魔法を撃ちながらイリスを追い回すが、イリスは抗議の叫びをあげながら必死に逃げ回る。
周囲を見渡して状況確認する一行。
一行がいるのは崖の上だった。眼下には家屋が立ち並ぶ都がある。しかし道路に人の姿が全く無い。廃墟にしては家が綺麗だ。汚れている家もあるが、崩れてはいない。
「これ、廃墟になったとしても、そう年月は経っていないようねー」
イリスが言った。
一つ、明らかに異様な点が見受けられた。
奇妙な樹木が道のあちこちに生えている 道の真ん中から生えていたり、家の中から生えていたりする。そして樹木には奇妙なオレンジの輪がなっている。輪はサイズがばらばら。手に入るほど小さいものもあれば、人より大きそうなものもある
「あの輪は果物? 花?」
ノアが疑問を口にする。色は違うが、ガリリネの体に埋まっている輪を思い出す。
「ここからでは解析もできないよ。近付かないと。しかしあの輪……昔も見た事があるよ」
ミヤが言った。
「ノア、もう一度念押ししておくよ」
ミヤが魔法でノアにだけ聞こえる声で告げた。
「前にも言うたが、ユーリは危険な性質をしている。あれはいつも表面上こそ穏やかで優しいが、心の奥底には激しい怒りの火が渦巻いておる」
「知ってる。怒りの正体は何?」
「世界の理不尽に対する怒り……だと思うよ。人喰い絵本に連れ回したのが悪かったかもね。多感に子供の頃に、悲劇を見過ぎて、あの子の心に怒りの火がついたのかもね」
「ようするに師匠のせいか。マイナス931」
「確かに儂のせいだが、師匠の儂のポイント増減するなど、不敬にも程があろう。マイナス2」
茶化すノアに、ミヤが少し怒ったような声を出す。
「母親を失ったことも影響しているかもね。まあ……儂は罪深いという話だよ」
「師匠が罪深い?」
ミヤが言い、ノアが訝った直後、遠くから続け様に音が響いた。
「魔力が働いているね。ああ……これは明らかに戦闘が発生しているよ」
音のした方を見て、ミヤが言う。
「ブラッシーや先輩の可能性もある?」
「行ってみるよ」
ノアが問いかけると、ミヤが魔法を使った。
「おわっ」
「むっ」
魔法で騎士二人の体が浮かび上がる。ミヤの体も浮かび、三人は都市の中へと飛翔した。ノアとイリスも後に続く。
音のする方へと近づき、音の正体は判明した。ミヤが言った通り、戦闘の只中であった。
樹木になっているオレンジの輪と同じものが、体のあちこちに食い込んだ、全身黒い棘で覆われた四足獣が、何体も死体になって転がっている。犬のような口に鋭い牙が並んでいる。目が無い。輪は木になっているものと同様、サイズはばらばらだ。
生き残っている四足獣達と戦っている者達を見て、一同は驚いた。ジャン・アンリとシクラメ・タマレイ、それにロゼッタの三人だったのだ。
「サユリ殿だけじゃなくて、ジャン・アンリまでいるなんてーっ。千客万来の予感っ」
イリスが声をあげる。
「わあい、見て見て、ミヤがいるよう」
「ふむ。よりによって大魔法使いミヤが来るとはな」
「ノアもいるのれす」
シクラメ、ジャン・アンリ、ロゼッタも、ミヤ達の存在に気付く。
「向こうもこっちに気が付いたようだね」
「あの獣に助太刀して攻撃しよう」
ミヤが言うと、ノアが促した。
「あいつらと戦うことが目的で来たんじゃないよ。向こうから仕掛けられない限りは、何もしなくていい」
「えー、チャンスなのに」
ミヤに不許可を出され、ノアは微苦笑を零して肩をすくめた。
***
一方、一人はぐれたユーリは、森の中にいた。樹木には皆、オレンジの輪が食い込んでいる。あるいは実のようにぶら下がっている。
(僕だけはぐれているのに、物語の登場人物になる気配も無い。ていうか、人喰い絵本の中に入ったのに、物語が全く見えなかった。こんなことあるのか)
これまでにも自分一人離された事は幾度かあるユーリであったが、その際は、登場人物に成り代わっていた。しかし今回はそういうわけではなく、ただ一人はぐれた格好だ。
「一人ぼっちは不安かーい♪ おかーちゃんが恋しいかーい♪」
聞き覚えのある声で、ピント外れの歌が響く。
「嬲り神……。母さんをネタにしてからかうのはやめて欲しいな」
ユーリが顔をしかめて、歌声のする方を向いて、穏やかな声で訴えた。
「悪ィ悪ィ。でもしゃーねーよ。俺は嬲り神。人に意地悪して、いじめて楽しむ神様だからよォ。ギャハハハハっ!」
樹木の陰から現れた嬲り神が笑う。




