2-1 ミヤと野良猫
夕方。ノアは母親のマミと共に、首都ソッスカーの中腹繁華街を歩いていた。
ア・ハイ群島の首都ソッスカーは、一つの大きな山に建設されている都市だ。ア・ハイ群島にはほとんど平地が無い。ほぼ全域火山島であり、人々は丘陵地帯に住んでいる。ソッスカーはその中でも比較的ましな方で、中腹と山頂にはなだらかな平野が存在した。
「見てよ、ノア。このカレーとマンゴーの香り付きのヒポグリフ型懐中時計。肌身離さず持っていると恋愛運が上がるんだって。よさそうだと思わない?」
怪しいグッズが大好きなマミが上機嫌で、店の商品を物色し、ノアに伺う。
「いいんじゃない」
内心凄まじくどうでもよいノアであったが、そんな態度をおくびにも出さない。母親の機嫌を損ねたら、酷い仕打ちが待っている。
「さてと、ちょっと早いけど酒場に行ってくるわ。ノアは宿でいい子にしておきなさい」
「わかった」
そう言い残して去るマミの背を見送り、ノアはうんざりする。
マミが酒場に何をするのかはわかっている。男漁りだ。マミは極めて好色で淫奔だった。そしてノアから見てそれは、母親の大嫌いな部分でもあった。
(俺にもあれの血が流れている。そしてあれに育てられてきた。いつかあんな風におぞましく汚らしくなるのか? 生まれる前からそんなぜんまいが巻かれて、変えられない運命をただ一直線に辿るのか? 嫌だ……。絶対に嫌だ)
自分がそのうち、手当たり次第に男と寝るようなふしだらな女になるのかと意識すると、ノアは身の毛がよだつ。マミの影響で、ノアは性に対して徹底的に忌避していた。
「キィイィィ!」
ノアが宿の部屋で一人くつろいでいると、憤怒のマミが戻ってきて奇声をあげた。
「何よあの男! せっかく私のお眼鏡にかなうルックスだったってのに、コブつきだったのよっ! いい感じで会話も弾んでいたのに、途中から女も混じってきてさ! こんなの許せる!? ええっ!?」
マミが喚きながら、ヒポグリフ型懐中時計でノアに殴りかかる。
「ちょっと……落ち着いて母さん……」
無駄と知りつつも、ノアは制止するが。マミは殴るのをやめない。
(いつまでこんなことが続くんだ。もう本当にうんざりだ。もう嫌だ……)
マミから八つ当たりを受けながら、ノアは自身の日常に心底嫌気がさしていた
***
その日、ミヤとユーリは朝から買い物をしに、山頂繁華街を歩いていた。
「ふにゃーん……ふにゃーん……」
買い物を終えて帰路に着こうとした所で、弱々しい鳴き声が聞こえ、ユーリは足を止める。
毛並みが悪く、汚れた白猫がよたよたと近寄ってくる。
「師匠、野良猫です」
「見ればわかるよ」
ユーリが嬉しそうな声をあげるが、ミヤは心なしか嫌そうな声をあげる。
「ふにゃーん……」
その猫の鳴き声を耳にして、まるで助けを求めるかのようだと、ユーリには聞こえた。表情を見てもそのように感じられた。辛そうな顔だ。そして足取りもよたよたと力無い。
「一度、人に飼われていた猫だね」
ミヤが言った。
「結構歳とった猫ですねえ」
ユーリがかがんで白猫の喉を撫で、ミヤの方を見た。
「言いながら儂を見るな。ノミだらけだね。ったく……」
ミヤが魔法で、白猫のノミを駆虫した。ノミ以外にも寄生虫がたっぷりついていたが、それらも魔法で全て取り除く。
「しかもこれ雄ですよ。師匠と仲良くなれそうですね」
「儂を野良猫の爺とカップリングさせるつもりかい……」
ユーリの台詞を聞いて呆れるミヤ。
「そうですよね。駄目ですよね。師匠も体調がよくないですし、高年齢出産は負担がはっ!?」
「ふざけるんじゃないよ。少しは言葉を慎め。ポイントマイナス7」
ミヤがユーリに念動力猫パンチを放ち、憮然とした顔で言い放つ。
「ふざけてないですよ。真面めべっ!」
「本気なら尚更タチが悪いわ。さらにポイントマイナス11」
「二桁マイナスですか……」
ミヤがかなり本気で怒って嫌がっていると見るユーリ。
「師匠は猫の言葉はわからないんですよね?」
「魔法を使えば、何を訴えているかくらいはわかるよ。この爺さん猫の場合、腹が減っていることと、体のあちこちが痛くて辛いってことだね」
言いながらミヤは白猫の体を魔法で透視する。
「内臓も弱っている。仕方ない……。ユーリ、飯をおやり」
「はい」
ミヤに促され、ユーリは買い物の中から、ミヤの食事を出して、白猫の顔の側に置く。小さな肉の塊だ。
白猫は出された肉を嗅ぎ、口を開いて食べようとするが、途中で止める。そしてしばらくしてまた口を開くが、また途中で止めてしまう。
「中々食べませんね。警戒してるのかな?」
不思議がるユーリ。
ミヤが再度透視魔法をかける。
「ふん。腹は減っているが、口の中にできものが出来て、それが痛くて食えないみたいだね。どれ……」
ミヤが癒しの魔法をかける。口の中のできものが無くなった白猫が、さらに食事にトライする。今度は普通に食べることができた。
(今は食べることが出来ても。もう内臓の機能もろくに働いてないし、消化も難しいんじゃないかね……)
ミヤが息を吐く。
「仕方ない。この爺さんをうちに連れていくかね」
「え、猫が猫を飼うんですか」
「飼いやしないよ。しばらく家に置いておくだけさ」
意外そうに言うユーリに、ミヤが告げた。
***
家の中に入れられた白猫は、安堵しているように見えた。
「やっぱりこの猫は、元々屋内で飼われていた猫のようだ」
くつろいでいる白猫を見て、ミヤが言った。
「捨てられたんですか」
ユーリがいつもミヤに使っている櫛を使って、白猫にブラッシングを始める。
「そうとは限らん。もっと悪いことかもしれん。飼い主が死んでしまって、それで一人で生きていくことになった可能性もあろう」
「いずれにしても可哀想な話です。僕達が新しい家族として迎えたからには、幸せにしてあげたいですよね」
「飼わんと言ってるだろう。つーか……お前はよくそんなクサい台詞を、臆面も無く口にできるもんだよ」
爽やかな笑顔で話すユーリに、ミヤは呆れを通り越して感心していた。
「え、おかしいですか? 別におかしくないと思いますけど。他の人の前ならともかく、師匠の前ですし」
「お前は時折無礼で無神経になるね。マイナス……は免除してやるか」
自分の前だから遠慮はいらないというユーリの台詞を聞いて、ミヤは苦笑いを浮かべた。
「みゃあ……」
白猫がミヤを見て、弱々しい鳴き声を漏らす。
「何と言ってるのですか?」
「うん? ただの挨拶みたいだよ」
「師匠が近くにいることも安心している理由かもですねえ」
「ふーむ……同族の猫がいるから安心するものなのかねえ?」
「師匠は猫なのに猫の性質がよくわからないんですね」
「人の言葉を話せる動物は皆、メンタリティーが人のそれだからね」
ユーリがおかしそうに言うと、ミヤは真面目に返した。そして人語を話せる動物は、ア・ハイ群島に限らず大抵の国で、人と同等に扱われる。
「この子の名前どうしましょう?」
「お前が好きにつけるがいいさ」
「僕がですか。どうしようかなあ……」
白猫のブラッシングを終え、額を撫でながら思案するユーリ。
その日のうちに白猫の名前が決まることは無かった。
***
ミヤの家は、入口から入ってすぐ大広間になっている。ミヤは大抵ここにいるし、ユーリの修行もここで行う。食事もここで取る。客人もここに迎える。ミヤの自室もあるが、ミヤは広間で寝ることが多い。
夜。まだ名もつけていない白猫は、広間にて、ミヤと少し離れた場所で寝ている。
「なあ、爺さん猫や。お前はどのくらい生きたね?」
中々寝付けなかったミヤは、寝ている白猫の方を向いて語りかける。
「儂は三百年以上も生きてしまった。ひょっとしたら、この世界で一番長生きした猫かもしれんね。そろそろ――逝こうかな……なんて思ったことも何度もあったし、十年くらい前――本当なら儂の命は尽きていたはずなんだよ。何もしなければ、きっと逝っていただろうね。でも、逝けない理由ができちまって、それであれやれこれやと色々手を尽くして、命を永らえさせていたけど……げほっ、ごほっ」
咳き込むミヤ。すると白猫が目を覚まして、ミヤの方を見た。
「げほっ、けふっ、こんっ……。ああ、起こしちまったか。悪かったね」
目を覚ました白猫に向かって、ミヤが謝罪する。
「この通り……無理して命が尽きるのを先伸ばしている分、苦しみもひとしおさ。でも、仕方ないよ。けふっ。けんっ。けほっ」
「みゃあん」
ミヤが再び咳き込むと、白猫が小さく鳴いて立ち上がり、ミヤの側にやってきて、顔を軽くこすりつけてきた。
「おやおや、儂よりずっとお迎えが近いのに、儂のことを心配してくれるのかい? 優しい爺さんだね」
白猫の挙動を見て、ミヤが笑い声を漏らす。
白猫はミヤの隣に寝そべる。ミヤを案じて、寄り添ったまま離れない。
(ありがたいけど、ユーリに見られたい場面ではないね)
ユーリが目を覚まさないで欲しい、目が覚める前に白猫にどこかに行ってもらいたいと、切に思うミヤであった。
(ユーリ、お前と出会ったから、儂は実りある晩節を過ごせている。お前がいなかったから儂はとっくに死んでおる。儂こそお前に感謝している)
本人に対しては恥ずかしくて絶対に言えないことを、心の中で告げる。
(こんなことを考える時点で、儂はろくでなしの罰当たりだけどね。償いのはずだったのに。その償いを楽しんじまっているんだからさ)
***
白猫の名はシロと名付けられた。名付け親はユーリだ。
「一応突っ込んでおくよ。そのまんまだね」
「いいじゃないですか」
シロはミヤにもユーリにも懐いていたが、一日経過する度に、目に見えて状態が悪くなっていった。動きは鈍くなり、声に力が無くなり、やがて見えそのものを発しなくなっていた。
そしてシロがミヤ邸に連れてこられてから四日後の朝。
「今日の修行は無しだ」
ミヤは神妙な面持ちでユーリに告げた。
「どうしてですか?」
「今日は一日、その子の面倒を見ておやり」
尋ねるユーリに、ミヤは少し重い口調で答える。
ユーリは意味するところを察した。シロはぐったりとしている。
(師匠の癒しの魔法でもどうにもならないくらい、弱っているのか……)
シロを抱え、ユーリは窓から陽の射す場所へと連れて行く。
日を浴びながら、シロはゆっくりと呼吸していたが、やがて動きが完全に止まった。
「師匠でも延命は無理でしたか」
ぽつりと呟くユーリ。
「これでも色々と試したさ。魔法は万能じゃないんだよ。この爺さん猫は、もう癒しの魔法も効かないほど弱っていた。口の中のできものは治してやれたが、変形し、衰弱し、ろくに機能しなくなった内臓を補うのは無理だった。ずっと魔法がかかったままの状態で維持させようにも、それさえ体に負担になった」
実は同じような魔法を、ミヤは自身に施しているが、それは口にしない。
(師匠も……それで咳を止められない? 咳を止められないほど弱ってるってこと?)
(ああ……余計なこと言っちまったね。ユーリめ、儂の体もそうなんじゃないかって目で、儂のことを見ておる)
ユーリの視線を見たミヤは、シロに心配されて添い寝されたことを思い出す。
「お前も儂を案じておるのか?」
「ええ……だって師匠も……」
「はん、要らぬ心配だよ」
「ていうか、お前もって?」
「ああ……忘れな。ただの言い間違いさね」
言い間違いではないような気がしたユーリだが、ミヤが嫌がっているようなので、これ以上触れないでおく。
「師匠……しばらく家に置いておくって言ったのは、師匠はこの猫が長くないと知って、死ぬ間際は独りぼっちじゃなくて、誰かに見守られて安らかに死ねるように、うちに連れてきたんですね?」
「はあ……本当にお前は恥ずかしい奴だね。そんなこといちいち言葉にして確認するんじゃないよ。いいからシロを埋葬してやろう」
ユーリが指摘すると、ミヤは不機嫌そうに言った。
シロを抱え、外に連れて行くユーリ。ミヤも後を追う。
ユーリの手の中にいるシロを見ていたミヤだが、一瞬ぎょっとした。白猫が別の猫の姿になって見えたのだ。
(嗚呼……嫌なものが見えちまった)
自分が冷たく硬くなって、こうしてユーリの手の中で抱かれているヴィジョンを見てしまったミヤである。
(頑張ってもう少し生きないとね。せめてこの子が一人前になるまでは)
ユーリを見て、ミヤは強く思う。
シロは家の脇に埋葬された。ユーリとミヤ二人がかりで魔法で穴を掘って埋め、魔法で作った小さな墓石も立てた。
(儂が死んだらこの隣に埋めて貰おうかねえ)
ユーリと並んで、シロの墓石の前で瞑目しながら、ミヤはそんなことを考えていた。