1-1 魔法使いの弟子の一日の始まり
「けんっ、けんっ、けほっけほっ、ごほっ……」
苦しそうな咳が室内に響く。その直後、気色の悪い笑顔の老人の彫像がついた古い柱時計が二度鳴り響き、二時を報せる。
ユーリ・トビタは心配そうな顔で、咳のした方を見る。ユーリの師匠が、祭壇に向かって祈りながら、ずっと咳を続けている。
読んでいた本を閉じ、ユーリは祭壇の方へと歩いていくと、祭壇の前にいる黒白はちわれ猫の背を優しい手つきで撫でる。
「これ、大丈夫だよ。気にするでない。勉学に戻……けほっけほげほっ……戻れ……。いちいち来るでない。マイナス1するよ」
猫の口から、怒ったような老婆の声があがるが、途中でまた咳が出た。ユーリは命令に従わず、師匠である猫の背を撫で続ける。咳が落ち着くまで、癒しの魔力を込めて撫で続ける。
修行中の魔法使いであるユーリの師匠は、猫である。名をミヤという。その長く伸びたツヤの乏しい毛が、かなり老齢であることを示しているが、毎日ユーリが入念にとかすため、乱れることはなく、綺麗にまとまっている。
猫は神聖な生き物とされている。魔力も高いので、魔術師も多い。しかし猫は人より寿命が短い。魔術を極めた猫でも、五十年も生きれば長生きと言われている。ミヤの正確な年齢はユーリも知らないが、相当な老齢であり、魔王がいた時代から生きているということは知っていた。
「くだらんことに魔力を無駄遣いしおって。この馬鹿弟子が。マイナス2ポイント」
「えー、マイナス1じゃないんですか? 2に増えてるし……」
ようやく咳が止まったので、癒しの魔法を止めたユーリに向かって、ミヤが憎まれ口を叩く。いつものことなので、ユーリは腹を立てることもない。ユーリが物心ついた時から、ミヤはずっとこんな感じだ。頑固で、時折理不尽で、いささか口が悪い猫だ。
ユーリは不安だった。師であり育ての親でもあるミヤは、一昨年から苦しそうに咳をすることが増えていたからだ。
(抜け毛も増えたような気もする。歳だから仕方無いとは思うけど)
案じながら、ユーリは玄関の外に向かい、ポストから朝刊を取ってくる。新聞の存在により、ア・ハイ群島全域に情報は伝達されている。
「昨日、ア・ハイ群島全域で、『人喰い絵本』の発生が六件もあったそうですよ。魔物による殺害事件も二件起こったそうです」
朝刊の内容を報告するユーリ。
「一日に六件も人喰い絵本が現れたのかい……」
ミヤが呆れ声を出す。これは非常に大きな数字だ。人喰い絵本の出現は、大抵は一日に一、二件。多い時でも三件ほどで、発生しない日も珍しくは無い。
「『魔王が滅びて三百年。今なお世界は魔王の呪いで蝕まれているまま』か……」
ミヤが新聞を覗き込み、その一文を口にして読む。
「人喰い絵本が現れれば、それだけ犠牲者も増えますよね。当たり前のことですが」
ユーリが憂いを帯びた顔で言った。
「これは儂の推測だが、嬲り神が干渉するせいでもある……がっ。ごほっ、げふっ」
喋っている間にまた咳こむミヤ。しかもただの咳ではなかった。咳と共に血が出て、床に血が飛び出ていた。
ミヤはぎょっとして、大急ぎで魔法を使い、床に飛び散った血を蒸発させる。ユーリに吐血を見られたくは無かった。魔法の発動もユーリに気付かれないように、こっそりと行ったので、非常に気を遣った。
その時、呼び鈴が三回続けて鳴った。これは仕事の依頼で訪れた事を報せている。そういう取り決めだ。
「ゴートかい。今出るよ」
ミヤが言うと、帽子掛けに掛けてあった小さな中折れとんがり帽子と、マント掛けに掛けてあった小さなマントが宙を舞って、どちらもミヤの元に飛んでいく。ミヤが玄関に向かって歩いているうちに、中折れとんがり帽子が頭に被さり、マントが首へと結ばれた。
「おはようございます。ミヤ殿。人喰い絵本の対処依頼に参りました」
玄関の扉を開けると、巨体を黒い甲冑で包んだ、髭もじゃの中年男が破顔して一礼した。彼の名はゴート。黒騎士団の団長を務めている。
「ふん、またかい。今月に入ってこれで四度目じゃないか」
「御存知の通り、ミヤ殿に持ってくる仕事は選んでおりますよ。昨日現れた人喰い絵本の対処に赴いた魔術師二名と騎士三名が、未だ帰らぬのです。嬲り神がいたかもしれません」
「難儀な仕事ばかりもってきよって、良い選考だね。マイナス1しておくよ」
「ははは、これは手厳しい」
ミヤへの依頼は基本的に、他の救出部隊が失敗したと思われる仕事だ。自然、難易度が高いと見なされる仕事になる。そして失敗した魔術師とその護衛の騎士の救出までもが、仕事の内容に入る。
ユーリもとんがり帽子を被り、マントを羽織って、仕事自宅で玄関へと出る。
訪れたのはゴートだけではなく、他に若い騎士も二人連れていた。初めてここに訪れる騎士で、ミヤとユーリの姿を見て息を飲んでいた。
魔術師はローブ姿が正装とされる。しかしユーリとミヤは、マントにとんがり帽子、あるいは中折れとんがり帽子である。これは魔法使いの正装だ。マントの下は自由な服装を許されている。
「魔法使い様と任務に着くのは初めてです。とても光栄です」
「いえいえ、僕はまだ修行中の身ですから」
若い騎士の一人が恭しく一礼すると、ユーリが謙遜する。
(綺麗な顔立ちだ。女の子かと思ったけど、男の子だった)
もう一人の若い騎士は、ユーリの中性的な美貌に見惚れていた。加えて、緩いウェーブのかかった長い髪が腰まで伸びているせいで、ぱっと見には少女のように見えた。
家を出る前にユーリは立ち止まり、手を合わせて瞑目する。
「仕事が無事に終わりますように。できれば犠牲者が出ませんように。神様が意地悪しませんように」
祈りを捧げてから、ユーリは騎士団が用意した馬車へと向かう。
馬車は草花の生い茂る平野を走る。ア・ハイ群島では珍しい光景だ。首都ソッスカーの山頂部は、一面の開けた平野になっている。
馬車の中で、ユーリはまた朝刊を読んでいる。
「師匠、またXXXXの殺人事件ですって」
ユーリが朝刊に書かれていた事件を話題に持ち出す。
XXXXとは、ア・ハイ群島では有名な連続殺人鬼だ。殺人現場に必ず、四つのXの字を被害者の血で描くために、XXXXと呼ばれるようになった。その犯罪は、およそ十年前から続いている。
「十年以上捕まらない連続殺人鬼って凄いですね」
呆れと感心が混ざったような声をあげるユーリ。
「魔術師の仕業だとも言われて……おっと、失礼。我々としては頭が痛い所です」
ゴートが神妙な面持ちで言った。
「それにしても十年捕まらないのは異常さね」
と、ミヤ。
「模倣犯が何人もいますがね。模倣犯はわりと捕まっておりますよ。犯行はア・ハイ群島全域に跨っていますが、現在は首都ソッスカーや首都近郊で多発しています。兵士団と騎士団だけではなく、魔術師達も動員して捜査しているのですが……全く尻尾を掴めずで」
「ふん、とうとう魔術師の仕事に、人間の犯罪取り締まりまで加わったのかい」
ゴートの話を聞いて、ミヤが鼻を鳴らした。
魔術師の仕事は幾つもある。魔術を組み込んだ技術開発。医学薬学の補助。あらゆる動力源たる『エニャルギー』の製造。魔物や人喰い絵本から人々を護るための治安維持他。
魔術師の上位互換である魔法使いも、その仕事内容はさして変わらない。ミヤとユーリは、主に治安維持を担当している。治安維持と言っても犯罪の取り締まりではない。それらは基本的に魔術師や魔法使いの範疇ではなく、兵士団や騎士団の領分である。ミヤ達の仕事は、大抵が人喰い絵本の対処だ。ごくたまに、魔物退治の依頼もあるが。
やがて馬車は平野の道から、都市区画へと入る。貴族や豪商や高級職人や魔術師達が住まう、上流階級居住区だ。
何人もの騎士達と、野次馬達が集まる前で、馬車が停まる。
騎士達の後方には、空間の歪みが現出していた。ここは人喰い絵本が出現した現場であり、空間の歪みは、人喰い絵本の入口だ。
「おっ、黒騎士団長のゴート殿だ」
「おい、あの子とあの猫の格好、魔法使いだ……。しかも二人」
「あれは大魔法使いミヤ様ですよ」
「ぷにぷにっ」
「しかもあの綺麗な顔の子は、黒髪に黒い瞳――東洋人なのね」
「アタイ、アノカワイイオトコノコ、ホッペ、ナメタイ……ズズズ……」
野次馬達が、ユーリとミヤの姿を見てざわつく。これらのリアクションには、二人共馴れてしまっているので、何とも思わない。しかし、不気味な台詞を口にしている貴族の太った女の子にだけは、引いてしまうユーリだった。
馬車から降りた一向を見て、野次馬の貴族達がざわつく。
「被害者の数は二名。時計細工の高級職人です。救出に入って戻らない者達は騎士が三名、魔術師が二名です」
空間の歪みの前にいた騎士が、ミヤに報告する。
人喰い絵本なる存在の正体が何であるか、様々な説があるが、その正体はわからない。魔王が残した災厄であるということだけが知られている。三百年前、魔王が討伐された後に世界中に現れるようになったので、それが通説になっている。
人喰い絵本が現れた瞬間、周囲にいる人間は吸い込まれる。必ず人がいる場所に現れ、必ず人を吸い込む。吸い込まれた者は最低でも一人は、絵本の登場人物に成り代わり、絵本の物語に沿う形で死に至るケースが多い。吸い込まれた者を放っておくと高確率で死ぬので、騎士や魔術師が救出を行う。
(よし、今回も頑張るぞ)
空間の歪みを見て、ユーリは気合いを入れる。
十年前、ユーリの母の命を奪ったのも、人喰い絵本である。ユーリはその際、ミヤと、そしてある存在によって救われた。
「畜生ォォーっ! 何でアベルがっ、うちの息子が平民を助けるために、死ななくちゃならないんだあーっ! ふんぬぅぅうぅぅっ!」
身なりのいい中年男が、両手をぐるぐると振り回しながら叫び声をあげている。
「あれは?」
「昨日人喰い絵本に入った救出隊の騎士の親です。『選民派』の貴族のようですね」
ユーリが喚いている男を見て伺うと、若い騎士の一人が答える。
「カイン・ベルカ。最近、貴族連盟議会にも顔を出すようになった男ですよ。議会でも頻繁に醜態を晒しています」
さらにゴートが、喚いている男に関して伝えた。
「糞虫のような平民何百兆人の命より、貴族一人の命の方が大事だろうにーっ! 平民なんざ皆糞虫だーっ! その命の価値も糞虫程度だーっ!」
「何と傲慢で愚かしい発言だ……。騎士は国の秩序を護るためにある。平民を守る事も、当然その役割の一つにあたるだろうが」
ゴートが怒りを滲ませた口調で言い、腕を回して叫び続ける貴族の中年男を睨む。
「私は認めえええぇぇぇん! 私のアベルを返せ~っ! うおおおん! みーんみーん!」
泣きながら貴族の中年男カインは木に登り出し、木の幹にしがみついて号泣しながら、蝉の鳴き声をあげはじめた。
「人喰い絵本の中において、騎士は命懸けで魔術師を護るのが任務だ。騎士になった時点で、人喰い絵本の中に入った時点で、死は覚悟済みよ」
ゴートが腕組みして、厳めしい表情で言い放つ。
「ああ~……何てことだあぁぁ。アベル~っ。うわあぁぁん。みーんみーん!」
「狂ったのかの……?」
嘆き、泣き喚き、何故か蝉の真似もしている貴族を見上げ、ミヤが呆然とする。
「私は残った一人息子まで失うというのかあ~。平民に家族全員の命を奪われるというのか~。おーいおいおいおいっ! みーんみーん!」
(平民に家族の命を奪われた?)
ユーリは中年貴族カインのその台詞が気になった。
「あれは放っておきましょう」
ゴートが溜息混じりに言った。
「よし、入るよ」
「はっ」
ミヤが促すと、ゴートが頷き、騎士三名が先に空間の歪みに入る。その後でミヤとユーリが続く。
空間の歪みに入った瞬間、全員の頭の中に音声が流れ、映像が映し出された。
***
・【暴君と婆や】
その国の王様は、とても自分勝手で乱暴者でした。
家臣にも国民にも暴力を振るい、気に入らない者は国外追放し、酷い時には殺してしまいます。おかげで皆、王様を恐れていました。
しかし王様は何故か、召使いの婆やに対してだけは、接し方が違いました。
「婆や、今日は疲れているなら、早めに休んでいいぞ」
「婆や、肩を揉んでやろうか? 国王の肩揉み捌き、味わってみるがよいぞ」
「婆やに意地悪をする家臣がいたら、遠慮なく申せ。すぐに首をはねてやるぞ」
こんな調子で、召使いの婆やに、王様はとても優しかったのです。
王様が婆やにだけ優しい理由は誰も知らず、家臣達は首を傾げていました。
ある日、王様に娘を手籠めにされた家臣が怒り、王様に斬りかかりましたが、騎士達が王様を護って家臣を逆に斬り殺し、家臣の家族も皆殺してしまいます。
家臣の家族の親戚がこの暴挙に怒り、王様に恨みを抱く同志を募り、三人の暗殺者を雇い、王様の暗殺を企みました。
暗殺者三名は、王様が特別扱いしている婆やに目をつけました。王様が心を許している婆やを利用すれば、王様を暗殺できると目論んだのです。
「婆や殿、こっそりとこの薬を王の酒に入れるのだ。王が唯一心を許している婆や殿であれば、それが出来るはず」
暗殺の首謀者が恫喝すると、婆やは余裕をもって笑います。まるで復讐者達を蔑み、嘲るように。
「何故王様が私にだけは心を許し、特別扱いするか、御存知ありませんのね?」
突然、折れ曲がった腰の婆やが、真っすぐに立ち上がりました。
暗殺者達は笑顔の婆やを見て、恐怖します。彼等はその時、本能的に危険を察したのです。
「ヒッヒッヒッ、それはねえ……王様はババ専で、私にメロメロだからなのですよーっ! あきゃーっ」
婆やの姿が変わりました。牙を剥き、爪を伸ばし、全身の筋肉が膨張し、奇声をあげながら暗殺者達に襲いかかります。
暗殺者達三名は逃げ出し――
***
頭の中の映像が消える。物語は中途半端な所で途切れる。
人喰い絵本に入った際、頭の中に絵本の映像と音声が途中まで流れる。それが人喰い絵本の常だ。
ユーリ、ミヤ、ゴート、他騎士二名は、全く違う風景の場所にいた。土が剥き出しの荒涼たる平野だ。あちらは――現実世界の方は晴れていたのに、こちらは――絵本世界の中は曇っている。
平野のはるか先には、城下町があった。
「相変わらずですね……」
「嬲り神め。改ざんするにも程があるだろうに。ふざけすぎだよ」
頭の中に映し出された映像を思い出し、ユーリとミヤは呆れていた。