三つのプロローグ
それは確率にして何兆分の一か、何京分の一か、何垓分の一か、無量大数よりも低い偶然か。あるいは、この世にはやはり運命を操る神に相当する者がいて、人々の運命を弄んでいるが故の必然の結果なのか。
彼女は食事中に気が付いた。覚えのある臭いが微かに混ざっていた事を。
それは本当に微かな臭いであったが、確かに感じた。加工されていてもわかった。覚えていた。
気のせいという事にしておけば、何も始まらなかったかもしれない。より多くの悲劇が生じなかったかもしれない。
彼女は恐る恐る、魔法をかけた。それは場所や物体の記憶を辿る術だった。術をかけられた対象は、何時間でも、何日でも、何年でも、記憶を巻き戻して観ることができる。
「げぼーっ! うげーっ! ふぎいぃぃぃ!」
恐れていた推測が当たっていた。おぞましき記憶、おぞましき光景を見た彼女は、食べたものを吐き出し、悲痛に満ちた鳴き声をあげた。
「どうしたのっ? 猫ちゃんっ」
同じテーブルで食事をとっていた少女が驚き、いきなり食事を吐き出した、黒白のはちわれ猫を心配そうに覗き込む。
「あの子……あの子が……ウうゥぅ~……」
彼女が唸る。人の言葉で喋りながら、同時に猫の声で唸ってもいた。
「猫ちゃん、不味かったの? もしかして腐ってた?」
「あの子を……私が……。これ、あの子だよう……」
猫は悲痛な震え声で同じ台詞を繰り返す。泣いていた。少女は猫が泣く場面など初めて見た。
「あの子って?」
少女は心配そうに猫を覗き込んでいたが、彼女は怒りに魂を焦がされ、悲しみに心を貫かれ、それどころではなかった。
「これは……あの子の肉……」
彼女は真実を知ってしまった。
それは三百年以上昔の話。
***
三百年以上前、彼女が真実を知ることさえ無ければ、その出会いは無かったであろう。
甲冑に身を包んだ騎士が五人、激しい雨に打たれながら直立不動の姿勢で、待機していた。
それは重要な任務である。彼等の背後には空間の歪みがある。その中にうっかり入る者がいないように、見張らなくてはならない。そこが途轍もなく危険な場所であることは多くの者が知っているが、世の中には想像を絶する愚者もいるし、認知症の徘徊老人もいるが故に、見張りは必要だと考えられている。
やがて空間の歪みの中から、一人の男と、一匹の黒白のはちわれ猫が姿を現した。男は魔術師を象徴するローブを纏っており、ローブに子供をくるんで抱いている。猫の方は中折れ帽子を被り、マントを羽織っている。
「ミヤ様、お疲れ様です」
空間の歪みから出てきた魔術師と猫を見て、騎士の一人が声をかける。主に魔術師ではなく、猫を見下ろして、騎士達は揃って恭しく一礼した。
「その子は?」
魔術師が抱く幼子を見て、騎士の一人が尋ねる。魔術師は幼子が雨に濡れないように、ローブで顔以外をくるんで抱いていた。まだ五歳か六歳程度と思われる男の子だ。
「この子の母親は、絵本世界の中で溶けて果てておったよ。可哀想にのう……」
猫がしわがれた老婆の声で報告した。
「母親だけですか? 父親は?」
「わからん。骸は母親だけさ。酷い状態だけど、亜空間ポケットに入れて搬送している」
「そうですか……。お疲れ様です」
猫の報告を聞き、騎士が敬礼する。
「魔王の負の遺産は……どれだけ私達を苦しめるのでしょうね。魔王が討たれてから三百年以上も経つというのに、魔王が残した災厄は、未だに世界を蝕み続けている」
「ああ……本当に酷い話さね」
騎士の嘆きを聞き、猫は重々しい声で同意した。
「この子は……才があるね。魔力に満ちているよ」
魔術師に抱かれた子を見上げ、猫は言った。
「魔法使いの才がある。この子は儂が引き取って面倒みることにするよ。文句は無いね?」
「いえ……ミヤ様が仰るのであれば、異論はありませぬ」
「一応、報告だけはさせて頂きます」
猫が伺うと、騎士達は猫に向かって畏まったまま告げる。
猫は魔術師の方を一瞥して、雨の中を歩き出す。降りしきる雨は全て猫を避けている。足元の水たまりの水さえ、猫を濡らさないようにと、横に逸れていく。
猫が歩きだして距離を取ると、魔術師と幼児に雨が降り注ぐ。魔術師は呪文を唱えて、淡く光るヴェールを纏い、自分と幼児に雨がかからないようにして、猫の後を追った。
それが十年前の話。
***
夜。廃屋の中。
ノアの前で、一目で貴族とわかる服装の中年男が、両手両足を不可視の力で束縛されている。
「た、助けてくれっ。どうか……この鎖を解いてくれっ。いや、人を呼んでくれっ」
貴族の男は、ノアに向かって必死の形相で懇願する。
「いい服着てるね。貴族だから当たり前か」
ノアはくだらないものでも見るかのような目つきで、壁に繋ぎ止められている貴族の男を見やる。
「私には妻も子もいるんだあ~っ。だからぁ……どうか助けてくれぇ~」
情けない声をあげて哀願する男の言葉に、ノアの表情が一変した。目を大きく見開き、憎悪と瞋恚に宿った視線を男にぶつける。
「へえ? つまり幸せなんだよね? 少なくとも俺より幸せだよね」
冷めた声で口にしたノアの台詞を聞いて、男の恐怖が増す。
「ここで問題。どうして不幸な人生送っている俺が、俺より幸せな人の命を助けてあげなくちゃいけないの? そんな馬鹿な話、無いでしょ? おかしいよね? ここで助けたら、貴方はまた俺より幸せな人生を生き続ける。そして俺は不幸なまま。おかしいよね? ムカつくよね? 癪だよね? 俺に何の得も無いし、助けたところで、頭にくる記憶が俺の人生に刻まれるだけだ。俺は惨めに生きているのに、俺を助けた奴が俺よりずっと幸せに暮らしていると、意識しながら生きていかなくちゃいけないんだよ? ねえ、ここまで説明すれば、そろそろ気付いてくれたかな? 俺が貴方を助けるという行為が、どれほど馬鹿げたことか?」
ノアがまくしたてた台詞を聞いて、貴族の男はますます絶望した。これは話が通じる相手ではないと。しかしそれでも彼は諦めずに食い下がる。
「礼は十分にするっ! だから助けてくれ! 一生遊んで暮らせるだけの金をくれてやるから!」
「くれてやるから――その物言いが、すでに笑える。俺のこと見下しちゃってる証拠な物言い。これはウケる。これは良かった。最高。今のは俺の琴線に触れた」
ノアがくすくす笑う。笑いながら、人の気配の接近を感じる。
(時間稼ぎは終わり。恐怖を駆り立てる作業も終わり)
気を良くしていたノアだが、急に虚しくなった。自分の役割が終わったからだ。
ノアの後ろから、一人の女が現れた。二十代前半に見える。顔立ちは整っているが、歪んだ笑みが張り付いている。ノアが避けるように横にどいた事を見ても、仲間であることは明白だった。
突然、貴族の体が宙に浮きあがった。
「な、なんだ、これは!?」
これまで以上に激しく恐怖する貴族。
(魔術? いや、呪文を唱えていない。さっきの子供に手足を縛られた時もそうだった。もしやこれは魔法……こいつらは魔法使いなのか?)
そこまで考えたところで、貴族は手足に激痛を覚えた。
見ると、手足が先端から少しずつ溶けていっている。
「ぎゃああぁあああああっ!」
「下品な声ねえ。でももっと大きな声で叫んでちょうだい。私もノアも、恐怖の絶叫が大好きだから。ねえ? ノア」
「うん、母さん」
にんまり笑って伺う女に、ノアも笑顔で頷いた。
(別に好きじゃない)
心の中で否定の言葉を吐き捨てるノア。
その後、貴族は全身をじわじわと溶かされていき、殺害された。最終的に首だけが残っている。これはあえて残したのだ。
女が貴族の頭部を一瞥する。
またもや呪文も唱えず、魔力が作用した。首の断面から血が伸びると、転がる頭部の周囲の壁に四つのXの字が血で描かれる。
「キーッ! 何これ! 一つ字が歪んじゃったじゃない!」
女が金切り声をあげてヒステリックに叫ぶと、物凄い形相でノアの方を向き、睨みつける。
ノアはこれから理不尽な暴力が振るわれる事を予感し、身をすくめる。
予感した通り、女はノアの髪を両手で掴み、力いっぱい引っ張った。
「ノア! あんたのせいよ! あんたが私の後ろで呼吸してるから、私はそれを意識して、私の魔力の制御が少し狂っちゃったのよ! どうしてくれるの!? Xの字が一つ汚くなっちゃった! 間抜け面の貴族をブッ殺して気分爽快だったのに、これのせいで気分台無しになっちゃったじゃなーい!」
女は喚きながら、髪を引っ張るだけではなく、ノアの肩や背中や腰に、渾身の力をこめて爪先で蹴りを何発も入れていた。
「ごめんなさいごめんなさいお母さんっ」
「何の役にも立たないっ! この使えない無能のボンクラがっ! 屑がっ! 顔だけ! あんたのいい所は顔だけよ! 顔以外一切価値の無い駄目な娘よ! あ、違った、息子よっ! キーッ!」
必死に謝るノアに対し、女――ノアの母は散々罵倒しながら、蹴りを続けた。
やがて解放され、ノアは地面に這いつくばる。背中も肩も腰もひどく痛む。さっさと魔法で治したいがそれも出来ない。母から折檻を受けている最中にそんなことをすれば、余計に母を怒らせるとわかっているから。
「自分は愚か者です役立たずですと言いなさい! 手をついて、誠意を込めて言いなさい! 謝罪なさい! さっさと謝りなさい!」
母より自虐的な台詞と謝罪を強要され、ノアはその場に土下座した」
「俺は愚か者です役立たずです母さんごめんなさいすまんこ」
「ウッキィーッ! ほぼ棒読みじゃないの! 誠意を込めろって言ったでしょ! やらされている感ハンパ無いからダメーッ! やりなおしーっ!」
(いつまでこんなこと……続くんだよ……)
地面に押し付けた頭に何度も蹴りを入れられながら、ノアは心底うんざりしていた。
それは昨日の話。