5-1 俺だけ救え
ノアはその日、朝から嫌なものを見た。
街中で見た幸せそうな一風景。楽しそうに遊んでいる幼い兄妹。
そこに母親が来て、笑顔で母親にとわりつく兄妹。何とも微笑ましいやり取り。
(ムカつくな。あんなもの俺に見せて。俺には無いものだ。俺が得られないものだ)
家族を凝視して、ノアの中に暗い感情が渦巻く。
(殺してやろうかな……。羨ましくさせて、妬ましくさせて、俺を嫌な気分にするためにいる奴等だ。殺せばきっと気持ちよくなる。母さんの許可無く殺しは御法度だけど……もう、そんなのどうでもいいじゃないか)
殺意が発生しかけたノアだが、瞑目して大きく深呼吸し、気を落ち着けた。
(いや、今は余計なことをしたら駄目だ。それがきっかけで、どんな落とし穴にはまるかわからない)
それはノアが母からしつこく言われてきた事だ。慎重を期して動けと。余計なことをするなと。それでアシがついたり、思わぬ事態を引き起こしたりすると。しかしそう教えたマミ自身、感情任せになって、慎重さをかなぐり捨てた結果、とうとうバレてしまったので笑えない。
「そこのお兄ちゃん、落とし物だよー」
移動しかけたノアを、小さな女の子が呼びかけた。
振り返ると、先程の子供二人が笑顔で並んでいる。妹の方が財布を差し出している。
「あ、ありがと……」
うっかり落とした財布を女の子から受け取り、戸惑い気味に礼を述べる。
(俺としたことが、迂闊)
恥ずかしい気持ちでいっぱいになり、足早にその場を立ち去る。
(もし殺してたら、財布は落したまま無くなった?)
歩きながら、そんなことを考える。
「馬鹿らしい……」
己の考えを打ち消すように、ノアは声に出して呟く。
***
地下室には血と肉辺が飛び散っている。
マミはその前で荒い息をついている。ノアは本を読んでいる
ノアが読んでいる本は、魔王についての文献だ。ノアは魔王に憧れていた。三百年前、世界を徹底的に滅茶苦茶にした存在からだ。小さい頃からずっと妄想していた。自分も魔王になりたいと。そして世界を破壊しまくりたいと。
本を読むのを中断して、ノアはマミを見る。マミは人を魔法でばらばらにして、殺害している最中だった。
(母さん、全然楽しそうじゃないな)
ノアが息を吐いた。いつもなら、殺しをした後は上機嫌になるマミだが、今のマミは殺人後にも関わらず、険しい表情だ。
今のマミは、XXXXとしては活動していない。死体を晒し物にして、血でXXXXと犯行の書置きはしない。ただ人を殺すだけだ。
マミはそれがストレスで仕方が無かった。殺人欲は満たされても、これでは自己顕示欲が満たされない。死体を晒し、XXXXの犯行だとアピールする事が大事なのだ。
現在、ノアとマミは大きな屋敷に潜伏している。屋敷の地下室には、貴族の一家と召使い十名弱が監禁されていた。ここは貴族の屋敷だ。当主と一部の召使いだけは、魔法で操り人形にされ、滞在中に怪しまれないように、仕事や接客をさせている。毎日に一人ずつ、地下室に監禁している者を殺している。
ノアはその地下室にいた。地下室で拘束されて転がっている者達は、救いを求めるように視線をノアに向けている。
(こいつらは同情に値しない。だってさ、きっと俺より幸せな人生送っていたんだ。俺より幸せな人が全て地獄に落ちますように。それだけで罪だから)
視線を冷ややかに受け止めながら、ノアは思う。
(ああ、それ以前に、こいつらに魂は無いんだったね。俺をムカつかせるために、神様が悪意を込めて作ったシチュエーションの配役でしかない。母さんの言葉を信じる。つまりムカつく必要も無いのか。魂の無いただの状況、ただの風景なんだから。いや……待てよ)
そこまで考えた所で、ノアはふと大きな矛盾に気が付いた。
(その思想だとおかしいことになる。母さんは人の形をした風景を壊して楽しんでいるって話になる。そんなことして何が楽しいの? それならやっぱり魂はあった方がいい。その方が殺し甲斐がある)
「どうしたの? ノア。難しい顔しちゃって」
物思いに耽っているノアを、マミが訝る。
「いや、以前母さんが言っていた――」
考えていたことを話そうとしたノアだが、地下室の突然の変化を目の当たりにし、絶句した。
(え? これは?)
周囲の空間が歪んでいく様を見て、ノアは困惑する。拘束された貴族の一家と召使い達も驚愕している。
「これは……この中の誰かが選ばれた。いや、全員かしら」
何が起こったのか、マミだけが状況を把握していた。
激しく空間が歪んだかと思うと、地下室にいた者達全員、空間の歪みに向かって物凄い勢いで吸い込まれ始める。
***
・【ステラ族の勇者】
俺はステラ族の中では変わり者だった。
ステラ族は平和に暮らしていた。平和だったが故に、他種族に対して無警戒だった。
そんなステラ族の中にありながら、俺は警戒心が強く、粗暴な性格をしていた。しかし仲間達はそんな粗暴な俺ですら受け入れて、仲良くしてくれる。
俺がこんな性格になったのは、幼い頃、村の裏の海岸にある忌み神の像の下で、母親を失い、母親の腕の中で泣いていたからではないかと、俺は勝手に考えていた。母親の死因はわからない。
忌み神は昔、大いなる災いからステラ族を救ってくれたという伝説がある。しかし悪い神なので、ステラ族は忌み神に対し、最低限の礼を尽くして奉じる事はあっても、崇めて信じる事はしなかった。
ある日、人間達がやってきて、俺の仲間を次々と殺していった。父親も兄弟も殺された。
ステラ族は戦う術をもたず、それどころか人間を前にすると、ろくに逃げることも出来ない者が多数だ。襲われて命の危険に晒されても、恐怖で身がすくんで動けなくなるような、極めて臆病な者が多いのだ。
さらには、襲われた仲間を気遣って、人間達に殺されるのがわかっているのに、傷ついた仲間や逃げ遅れた仲間を助けに行く者もいる。助けに行くと言っても、助けられるわけでもない。仲間に寄り添って声をかけるだけだ。そうして余計に殺されてしまう。
そんなステラ族の行動を見て、人間達はステラ族の女を捕まえて、死ぬ寸前まで傷つけたうえで、晒し物にした。そうしてステラ族が助けに来るように誘き寄せたのである。
「あれは罠だ。行っちゃ駄目だ。行っても助けられないし、殺されるだけだ」
俺は仲間達を必死に制止しようとしたが、仲間達は聞き入れなかった。そして人間達の目論見通り、罠にかかって、あっさりと殺されていった。
我慢がならなくなった俺は、人間達と戦おうと仲間達に何度も訴えた。しかし臆病な仲間達は、首を縦に振らない。ただ震えて蹲り、殺されるのを待つだけ。
「わかった。もういい。お前達は滅べばいい。俺だけでも戦う」
俺は言い捨て、戦う道を選んだ。一人でも生き残ってやると心に決めた。もう自分に仲間はいないものとして、切り捨てた。
しかし俺一人で人間達に敵うはずもない。俺は藁にも縋る気分で、村の裏の海岸の忌み神の像の元に行った。
「昔も災いから俺達を救ったんだろう? 今度も救ってくれよっ。村の奴等は救わなくていい。俺だけ救えっ!」
俺が忌み神の像に向かって叫ぶと、像が突然動き出し、像の下から大きな赤い宝石がついている、凝ったデザインの篭手が現れた。
篭手をはめると。赤い宝石が光り、手から赤い光の刃が飛び出た。それが武器であると、俺は理解する。
人間の狩人の頭目ポポフは残虐極まりない男で、仲間達を殺して楽しんでいる様子だった。しかし俺の心はすでに絶望して凍り付いていたので、そんな光景を見ても、怒りも悔しさも感じない。ただ、俺は同じようになってたまるかという思いだけだ。
俺は忌み神より授かった赤い宝石がついた篭手で、人間達を殺して回った。人間達はステラ族が反撃してくるとは思っていなかったようで、俺に襲われると、あれよあれよという間に殺されていった。
赤い光の刃は、人間達の武器を切断し、鎧も容易く貫いていく。だがこの武器の真価は、ただ切れ味の鋭い刃というだけではない。
やがて俺は頭目ポポフと対峙する。流石に頭目のポポフは一味違う。まるで俺を歓迎するかのように、にやりと笑って得物を抜き、身構える。俺も赤い光の刃を伸ばし――
***
頭の中に瞬時にして流れた絵と音声は、中途半端な所で突然途切れた。
「今のは……ここは……?」
周囲の風景を見るノア。一緒に空間の歪みに吸い込まれた貴族や召使い達も同様に、戸惑って辺りを見回している。屋敷の地下室にいたかと思ったら、突然青空の下、海辺の近くにいたからだ。
「人喰い絵本に食われたのよ」
マミが冷静に述べた。
ノアはマミの姿を見てさらに驚く。服装が変わっていた。頭の中に流された映像の中に出てきた、狩人の頭目ポポフと同じ服を着ている。
「人喰い絵本の中に入るのはこれで二十回以上になるけど、私が物語の登場人物になったのは初めてね。吸い込まれたのもね」
「二十回以上も?」
「貴女には教えてなかったわね。昔ね、私はある目的で、人喰い絵本を見つけては中に入っていたのよ。その服、似合ってるわよ」
マミのその台詞を聞き、ノアは自分の服装も変化している事に気付いた。先程の絵本の主人公――ステラ族の変わり者の男の服装になっている。
(俺と母さんが、絵本の登場人物にされている。しかも対立する者同士で?)
状況を意識して、ノアは期待感に包まれる。人喰い絵本は、物語を正しい形で進めると、脱出することが出来るという。そうなるとこれは、マミと対立する話になるのであろうし、自分でもマミを殺せる可能性も出てくるのではないかと。
「ある目的って何?」
「『イレギュラー』を手に入れられないかってね」
ノアの疑問に答えたマミが、気配を察して振り返る。
「へ~、イレギュラー目当てに人喰い絵本に入る、勇敢な冒険者様がいたのか~。こいつは面白いなあ。知ってたし、何度も御目にかかったけどなー」
全身に汚い布を何枚も何重にも纏い、体の至る場所に何本も紐に括り付けた、腰の曲がった男。顔は真っ黒で、開いた口から覗く歯も汚い。何本もの伸びた紐の先には、それぞれゴミとしか思えないものが括り付けられている。腰は老人のように大きく湾曲している。
「嬲り神」
汚らしい乞食のようなその男を目にして、マミがその名を口にした。




