意味
子供の背丈ほどの草が辺り一面青々と茂っていて、夏の高い太陽が、爽やかな見た目とは裏腹に粘着質の熱を地上のいたるところに撒き散らしていた。
そのもうもうとした景色の中を、虫取り網を手にした子供が無邪気に走り回っていた。目に入るのは、太陽に焼かれた草の葉が苦し紛れに吐き出したつばきとしか思えない飛び跳ねる小さな虫たちや、太陽にその存在を脅かされてひところにまとまって隠れていた暗闇たちが意を決して広い世界に飛び出したのではないかと思われる黒い翅のあやしい虫などであって、決して美しい蝶や、玩具のように飛び跳ねるバッタのように子供に好まれるものではなかったのだけれど、他に狙うものもないので、子供は一心にそれらを追い続けた。
子供にとっては、それが何の虫であるかというのは実はたいした問題ではなかった。その証拠に、子供は捉えた虫を嬉々として祖母に見せ「これは何だ」と尋ねるのだが、例えば例の黒い翅虫を捕えて見せたとき、祖母は「それは蛾じゃ」と答えたのだけれど、実際それはガというよりもハエやカの類に近いもので、全くもってガとは無縁の代物だったのだけれど、子供は満足げに頷き、もう次のときにはすっかり祖母の言葉を忘れ、同じような虫を捕えては祖母に見せつけていた。
このとき、祖母は「それは蜂じゃ。危ないからすぐに逃がしんさい」と言ったのだけれど、やはり実際には同じ虫で、ただ光の具合で鮮やかな黄色が見えるような気もして子供はすっかり怯えてしまい、ついには虫の方で網の中の狭い世界に退屈して遠くに飛び去ってしまった。
こうして夢中で虫を追い回しているうちに、子供は世の中の見方を学んでいった。すなわち、全てを焼き払おうと旺盛な意欲を持った太陽が放つ強烈な黄金の輝きと、その潤沢なエネルギーを享受しつつやはりあまりに強引すぎる黄金色を猛々しい生命力で跳ね返そうとする草の葉の鮮やかな緑色との間に、いわば一種のカスとして生み出される陰影の中に、例えば安全を脅かすカマキリのような存在、さらにはそのカマキリさえをも含めた生態系全体の安寧を脅かす人間の子供といった存在からその姿を隠して息をひそめる幼いバッタたちの姿をだんだんと見分けられるようになっていったのである。むろん、子供の目には、幼いカマキリも写っていたにいるに違いない。
その証拠に、哀れなカマキリはその十分後に、子供の小さくて柔らかな指の先で鎌の付け根を痣が残りそうなほどの力で圧迫されて、草の葉にしがみついての抵抗も虚しく、鎌の付け根の痛みもすっかり現実とも思えなくなって、もう全てをやけくそに放り出したときには、子供の虫かごの中に囚われていた。
子供はその虫かごを祖母に見せた。祖母は一言「とうろう」と呟いた。しかし、子供にとって虫かごに囚われているのは唯一の名前をもってカマキリでしかありえなかったから、祖母の意味不明の戯言について深く考えることはせず、再び生い茂る草の中に消えて行った。
ところで、この子供が無責任に飛び回っているこの草原は、実は去年亡くなった大地主の土地であって、その大地主は大地主であったけれども、所有する土地をどうこうする意志など全くなく、人々は大地主を大地主と呼ぶだけ呼んで、役所の書類上でも大地主は大地主であって、大地主も自分のことを大地主だと思ってはいたが、はたして本当に大地主が大地主であったかは誰にもわからないことであった。これを誰かに聞いて確かめるのは無駄なことである。誰も彼もが口をそろえて「大地主は大地主であった」と答え、ついでに「大地主の親も大地主であった」と付け加えるのがオチである。
そして、この土地が大地主の土地であることは、すなわちこの土地が大草原であることを意味し、すなわち見ず知らずの帰省中の子供が駆け回るということを意味し、すなわちまた、互いに十分すぎるほどに見知った顔たちが集まる集いの場であるということを意味した。全ては当然の理であり、説明の余地もない。
そういうわけで、祖母と同じくらいに歳をとった女性が小さな包みを持って草の海原に歩いてきた。それは一種の合図であった。たちどころにやはり皆同様に歳をとった女性たちが集まってきて、いつの間にやら人数分の腰掛までもが用意され、それぞれがそれぞれの収まるべきところに収まって、互いに聞こえづらくなった耳とガサついた声とを十二分に働かせながら、それぞれの用意した話題を議論の輪に好き放題吐き出していく。
そこに、虫かごと虫網を持った子供が走り込んできた。子供は今しがた世界の理を知った。つまり虫かごの中の幼い蟷螂が、同じく無念の捕虜として放り込まれたバッタの子を無残に食い荒らしてしまったのである。全く蟷螂と言うのは残忍な肉食の獣であって、子供はその荒々しさと強さとにすっかり魅せられてしまったのだった。
一方のバッタの子は、これまた可愛らしい幼獣であって、見ず知らずの虫かごという特殊な環境に戸惑い、動揺している間に、一瞬と言うには余りに長すぎた隙をつかれて、背後から死のクサビを打ち込まれてしまったのだった。その顔に幼獣のあどけなさとかわいらしさを残したまま、その身体は蟷螂のキバにバリバリと砕かれて二つに断裂し、子供には何ともわからない内臓が顕わになってしまっていた。
そのとき、子供は、物理学における万有引力の法則がどんなに特別な虫かごの中でも成り立つのと同じように、生物学における食物連鎖の法則が手の中の小さな虫かごの中でもやはり成り立つのだという当然の事実に気がつき、感動さえしていた。そして、その森羅万象の生命の原理に関する発見を祖母に伝えようと意気込んでいたわけであるけども、子供を待ち受けていたのは祖母一人だけではなく、祖母と似たり寄ったりの年老いた女性たちの集団だったのである。
女性たちにとって、この子供を見るのは初めてであった。というのも、この子供は四年前の春に生まれたのだ。五年前にこの子供の親、すなわち祖母の子供は生まれた地を出て遠くの地の果てに住み着き、それ以来つい三日前まで二度とこの地に戻っては来なかったのだ。
つまり女性たちにとってこの子供は異物と言ってもよく、異物は吐き出すより前によく検分するのが世の習いである。女性たちは一人ずつ子供の手を取り、頭を撫で、それが一周済むと、一斉にガサついた声を浴びせかけた。
子供はすっかり委縮してしまった様子で、つい先ほど自分がかの偉大なチャールズ・ダーウィンの進化論に匹敵するのではないかと、知識不足から本人がそう思ったわけではないにしても、傍からはそうとしか形容のできない誇らしい気持ちで、つまり、せっかくの駄弁を台無しにすることを恐れずに書けば、偉人の一人に名を連ねたかのような清々とした気分のことはすっかり忘れてしまって、祖母の横に委縮した子供の様に、そして実際委縮してしまった子供として突っ立っていた。
この子供の態度は全く都会的なもので、大地主の土地が大草原のまま遺族会議の議題に上がったのかどうかさえ定かではないままに高齢の女性たちの集会所となるようなこの土地には全く馴染まないものであった。
しかし、人間の原理を貫いているものは今も一世紀昔もあまり変わっていないのだから、あるいはその場の人間はみなそう信じていたから、高齢女性たちが積み重ねてきた誠実な八十年間の経験をもってして、この都会的な人見知りを発揮する子供は、その仲間内の孫であるという特権的立場もある程度作用して、歓待された。
「これを食いんさい」
つい十分ほど前、この場に集う皆を導く目印となって、祖母の後には最初にやって来た女性が、その手に持っていた包みを広げた。その中身を見て、子供の大きな目、一般的に大きな目はかわいらしいと言われるが、敢えて言ってしまえばグロテスクなカマキリのような目は、さらに大きく見開かれることになる。
薄汚れたタッパーにいっぱいに詰め込まれていたのは、かの幼獣とそっくりの小さな生き物たちであって、彼らはみな死体となり、絶対に不本意であることは間違いがないのだが、全身を茶色く汚れた粘着質な液体で絡められていた。
すなわち子供が目にしたのはタッパーいっぱいに詰められたイナゴの佃煮であり、それはそのタッパーの持ち主の柔らかくてあたたかな人となりと、黒々ときらめく醤油の輝きによって、何ともおいしそうではあったのだが、子供の目はやはり当然のことながら、タッパーの中一面に散らばる幼獣たちの死んだ顔へと向けられていた。
子供がタッパーに手を伸ばさないことを不審に思うものは誰一人いなかった。当然に起こるべきことが起きたまでのことであり、当然に外れるくじが外れただけのことであった。どこか遠く都会的な陰鬱さをまとう子供が差し出されたイナゴを夢中でばりばりと頬張るようなら、この場に集った全員が都会という魔の世界に大いなる恐れを抱いたに違いない。
全員が子供にちらちらと視線を投げながら、醤油漬けにされた幼獣たちを食べた。それは好き嫌いをする子供に模範的な大人として何でも食べて見せる親のそれであって、集まった女性たちは、普段はお喋りに夢中で見向きもしないイナゴの佃煮を、この日ばかりはバリバリと食うのであった。
その様子が子供に想起させた光景は、最早書くまでもないだろう。それをわざわざ描くことは、時間と文字数の浪費に他ならない。
子供はバッタを喰らうカマキリたちを真剣に見つめていた。
カマキリという虫は、実に乱暴で凶悪な肉食の獣であり、全くその性格は粗野そのものと思われるかもしれないが、実はかなりのきれい好きである。食事のときに獲物の体液で自慢の鎌が汚れてしまうと、急いでそれを舐め取るのだ。口から唾液が糸を引き、鎌は一層に汚れたように思われるあもしれないが、実は唾液というのは殺菌成分やその他諸々が含まれた天然の消毒液なのである。
まだ幼いこの子供がそんな知識を持ち合わせていたかどうかは別として、ことに唾液と言うものに関して、誰にも普遍の価値観があるのではないだろうか。という問いは、実はこの光景の前にすでに破綻していて、女性たちは指についた醤油を舐め取っては、その唾液をたいして拭うわけでもなく、また次のイナゴをつまむ。つまみ上げる前に、これはやせっぽちだ、これは土臭いなどと言って、十匹程度のイナゴを吟味し、やっと気に入った一匹を口に運ぶのだった。
ただでさえグロテスクな食べ物に、見ず知らずの高齢女性たちの唾液がまんべんなく回されていき、しかし、負の数と負の数を掛け合わせると結果は正の数になるというのは、中学生が負の数を学ぶ上で暗記しなければならない重要な法則であり、同じ法則がこの佃煮に働いたかどうかは定かではないが、やはり無駄な心遣いと誰もが思いながら、それでも柔らかくあたたかな人間の性として二度目にタッパーが子供の前に差し出されたとき、子供の手は意外なほど素直にタッパーの中へ伸びたのである。
全員のあからさまな注目を浴びながら、子供は幼獣を咀嚼し、女性たちの唾液をからめとり、一切を腹の奥へ飲み下した。
この子供が幼いゆえの精神の敏感さを全て活用して描き出した全ての意味の体系は、つまらない小さなごみのようなものとなって、子供の胃の消化液の中へ、まるで初めから存在していなかったかのように落ちて消えて行った。
子供はそれを、侵略の感覚として克明に感じ取っていた。虫かごの中には、無残に引きちぎられた幼獣の死体が散らばっており、すっかりその空間の王者として君臨した幼い蟷螂が天井の隅に頑として長い肢を踏ん張っていて、子供の口の中には、いつまでも他人の唾液の冷たさが他のすべてを追いやって居座っていた。これらは、侵略性の悪性腫瘍が身体の隅々に深く染み渡っていくのに似ていた。
さて、太陽は少し傾いたものの、やはり残酷なまでの暑さの熱の光線を地上に放ち、そのエネルギーは、草たちを大いに茂らせる。その様子は、この物語の冒頭から一切揺らぐことはなく、子供の内部で進行する些末な事情には全くかかりがないのであった。
「うまいか」
女性のうちの一人が子供に聞くと、子供は微妙にはにかんで見せた。