消えた時間
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ねえ、こーちゃんの初恋って、いつ?
僕? 僕は4歳ぐらいのころかなあ。幼稚園に通っていたときに、一緒の組にいた女の子。昼寝の時間とか、さりげなーく隣で横になったり、外遊びのときに誘ったり、どさくさに紛れて手を握ったり、ぎゅーっとしたり……。
――ん? なによ、その顔? 「いまどきになって仕入れた知識を入れ混ぜて、生々しく脚色してんじゃねえ」といったところかい?
ははは、作家センセイたるこーちゃんともあろうものが、子供をなめちゃいけないよ。
大人はややもすると「子供がこんなことするはずない」とか切って捨てることがあるけど、その実、こざかしいマネは大人以上に考えるし、実行する。
こーちゃんだって子供時代はそうだったんじゃないの? 表に出さなかっただけでさ。おかげで子供の立場を利用して、あくどいことやっている人も世の中多いんじゃないの?
でもね、自分が周りより大人っぽいのでは、と自覚することがあったら、注意した方がいいかもしれない。
僕の歳の離れた兄ちゃんの話なんだけど、聞いてみない?
僕の生まれるより前、兄ちゃんが幼稚園に通っていたころの話みたい。
兄ちゃんは自分で、早熟な方だと話していた。
いわゆる、エッチイな情報も耳が早いけれど、それ以上に身体の育ち具合が並みを上回っていた。
幼稚園でひとり、柱のごとき景色を形作ることもあるけれど、それ以上に毛が生えるのが早い。
脇、胸、へその下。みんなの前で着替えることさえ、度胸がいる状況だったとか。
このころの子供は敏感だからねえ。毛が生えているところなんざ見られたら、即おじさん認定だ。そしておじさんときたら、どこか汚いイメージがつきまとうなんて偏見も、往々にして持っている。
バレるわけにゃいかねえ。
そう考える兄ちゃんは、幼稚園児にして自分の身体の毛を剃ることを考え始めたらしい。
ひげまでは生えてこないのは、不幸中の幸いと呼んでいいのか?
そう思いながら毛を処理する兄ちゃんだったけど、ほどなく新たな課題が。
「ねえ、あんた風邪を引いてるんじゃない?」
最初は母さんたちからのツッコミだった。
確かにのどから声を出しづらい気がする。かといって、タンなどが絡んだ感じはあまりしないのだけれど。
ときどき、想像以上に低いオクターブを出して、友達にぎょっとされることもあったみたいだ。兄ちゃんはもしやと思い、思春期関連の知識を漁っていき、思い当たるのはひとつ。
声変わりだ。
もしやと、鏡を見てみるとのどぼとけが、微妙に前へ張り出してきている。首のあたりにかすかだけど隆起が見られるんだ。
早く大人になりたいと、思ったことはあった。けれども、それはもっときれいでさわやかな印象があった兄ちゃんには、困った仕打ちだったのだとか。
そんなある日。
兄ちゃんは幼稚園の先生に、個人的に声をかけられた。
いまは親の迎えを待つ、自由時間。いつになく神妙な面持ちの先生は、空いている教室に兄ちゃんを引っ張っていくと、椅子に座らせて、自らも真ん前へ座った。
「ちょっとごめんね」と先生が、兄ちゃんの頭に手を伸ばす。つむじあたりを掴まれた感触があったが、かすかな音とともに感覚も途切れる。
ふっと、先生が引き寄せた握りこぶしを、兄ちゃんの前で開いてみせた。
白髪だ。指の長さほどある白髪が、先生の手に3本おさまっていたんだ。
意味の分からない兄ちゃんじゃなかった。自らも頭に手をやり、手当たり次第にむしりかかってみる。
結果、手を入れた箇所ほとんどで、黒髪がみるみる抜けて指にはさまった。
そこに白いものも三分の一ほど混じっていたんだ。
「どうやら、若さを奪われている」
先生はそれを見て、つぶやいたのだとか。
世に言う、早熟な人たち。それは自らの力にくわえて、何者かが手を貸してくれることもあるのだとか。
先生も詳しいことは分からない。ただ彼らは、「失われる時間」が好物らしい。
目をつけたターゲットの発育を促し、一足早く大人の身体にする代わり、幼子として送るべきだった時間を食べてしまうのだと。
寿命が縮むと言い伝えられているけれど、本来その人がどれだけ生きられたかなど、誰にも分からない。
人間側としては早く大人になれたこと。向こう側としては、時間をむさぼることができることで、ウィンウィンの関係。
けれど、ときに加減の分からない奴が出てくる。子供が心地よいと感じたことを、つい何度も繰り返してしまうように、彼らもまた際限なく対象から時間を奪おうとしてしまう……。
ごほり、と話を聞いていた兄ちゃんがせき込む。
思わず当てた手に血が付いたし、そこから新しい血が鼻からぽたりと垂れて、加わる。
先ほどまでなんともなかった胸のあたりが、にわかに痛みを発し始めた。
「狙われているのを外そう」
先生は立ち上がると、兄ちゃんの背後へ回る。
ぐっと、つむじのあたりに力がかかった。床屋などでもこの頭の指圧をされたことがあるものの、先生の指の運びは渦を巻くようだったとか。
つむじの周りを外側へかけて、ゆっくりと。けれども気持ち良さを超えて、痛さを兄ちゃんは感じっぱなしだったらしい。それほどの力だ。
頑丈に中へしまわれているものを、押し出そうとする意志。それに流されるまま、うつむき気味の兄ちゃんは、また自分の鼻と口へ、せり出してくるものを感じた。
だが、出てきたのは血じゃなかった。
おかゆを思わせる、白い液体。足元へ水たまりを作るほど、どんどんと流れ出たそれの中に、これもまた白い髪の毛が何本も混じっている。
先生の指は内から外へ、外から内へ一往復。目の前の光景に兄ちゃんがうろたえそうになるたび、なお力を強めて先生は押しとどめた。「動いてはいけない」と。
そうして、先生が指を離して、兄ちゃんがつい顔を上げて視線を外した直後、見下ろした床にはもう、あの白い水たまりはなくなっていたんだ。
「こいつで、彼らは君に愛想をつかしたはずだ。もう、時間を奪われることもない」
先生はそう告げた。
実際、兄ちゃんが各所の毛を生やすことはしばらくなくなったが、張り出しかけたのどぼとけは戻らず、背も大人並みのままだ。
そのまま成人するまで、兄ちゃんは周囲ほど大きな成長を迎えることはなかったらしい。
自分の時間がどれほど食べられてしまったかは、神のみぞしる……といったところだと話していたよ。