認識の差
「あんたって男は本当に――――!!」
今日も今日とて、ルネル村にレネの怒声が響く。
手の甲で払うように両目を潰してからの、鳩尾蹴り。流れるように両こぶしを、無防備な脳天へ。
それでもなおにやけているクラウスの胸ぐらを掴み上げ、さらに追撃の往復ビンタ。
レネが繰り出す怒涛の連続攻撃を遠巻きに眺めながら、セーヴィンはごくりと喉を鳴らした。
あれが、道中散々惚気ていた勇者の幼馴染み。
「一応歴代最強と謳われている勇者を相手どり、あそこまで的確に急所を狙えるとは……」
むしろ幼馴染みを相手に、迷いなく急所を攻撃できる容赦のなさを恐れるべきなのか。
隣にいるフルールも、もはや言葉もないようだ。
さらにその隣で、レネの戦闘力の高さに笑うしかないといった様子だったヴェルヌが相槌を打った。
「あの打撃技なら、確かに魔物にも有効かもしれないねぇ。王都でもなかなか見ない水準の逸材。でも、何が一番衝撃的ってさぁ……」
ヴェルヌはローブのフード越しに背後を見遣る。
そこに広がるのは、ひたすら素朴な風景だった。
燦々と降り注ぐ日差しと、どこまでも続く青い空。弧を描いて飛ぶ鳥に、のんびりと草を食む羊の群れ。その向こうをぽくぽくと歩くロバは、隣を歩く老人とまるで散歩でもしているかのよう。
手押し車で藁を運ぶ男性も、買いものに向かう途中の女性も、繰り広げられる光景に足を止めることすらなく生活を営んでいた。
「これを見ても誰も何も反応しないって、正直一番信じられないよねぇ……」
疲れた声で呟くヴェルヌと目が合ったのか、通りすがりの年若い女性が頬を染めて近付いてくる。
見た目だけなら極上なので、旅の道中でもよく見かけた光景だった。
ヴェルヌはここぞとばかりに外套のフードを外し、輝く笑みを浮かべる。
「ねぇ、綺麗で魅力的なお嬢さん。あの二人の喧嘩って止めなくていいのぉ?」
「ありがとう、あなたもとってもいい男よ。あれは喧嘩っていうか、いつものやつだから放っておけばいいのよ。どうせまたクラウスが勝手にベッドに潜り込んでたとか、レネが家族のために作った朝食を異次元収納に永久保存しようとしたとかでしょ」
女性は当然のように笑うが、瞬時にフルールの顔色が悪くなった。
挙げられたたとえ話の内容が全部気色悪い。
そうしている間にも、幼馴染み同士の激闘は、さらなる佳境へと突入していた。
興奮した様子でレネに襲い掛かろうとするクラウスが、掌底を浴び返り討ちに遭っている。なぜ攻撃をかわそうとしないのか、その答えは何となく予想できるから絶対に聞きたくない。
「……えぇー、いつものやつ? これがぁ?」
「これが」
立ち話に付き合ってくれている女性の表情は、あくまで微笑ましげだった。
「だって都会では、こういうのを『ケンカップル』っていうんでしょ?」
「……これがぁ?」
「これが」
少しも懲りないクラウスが鬱陶しくなったのか、レネから今度こそ全力の蹴りが飛んだ。幸せそうな顔のままクラウスが吹き飛んでいく。
その軌道は高く、見上げた青空が眩しく映った。
人が中空を舞っているのに、女性は笑顔のまま軌跡を追っている。受け止めるだけで精いっぱいながら、色々と常識が違うことだけは分かった。
ヴェルヌもゆっくり墜落していく仲間を眺めながら、遠い目をしていた。
「こういうのが、都会と田舎の認識の差ってやつなのかなぁ……」
「現実逃避は虚しくなるだけだぞ」
鋭く指摘しつつ、セーヴィンはちらりとフルールに視線を送る。
副騎士団長として誠心誠意お仕えすべき、気高く美しい第三王女。
強い信念の下、勇者一行として旅をすることになった王女は、真面目すぎるがゆえに思い詰めやすいところもあった。
彼女はクラウス達を注意深く観察しながらも、終始無言だった。
◇ ◆ ◇
「――あ」
庭に干した洗濯ものに顔面を押し付け笑っていた変態を無事に撃退したレネは、遠くからこちらを眺めるセーヴィン達に気付いた。
彼らにとっては大切な仲間なのに、あまりに心無い行動だったかもしれない。
レネは居住まいをただすと、彼らに駆け寄った。
「こんにちは。すみません、たいへんお見苦しいところを……」
まだ彼らが村に来て二日目だけれど、セーヴィンとは出合い頭に色々あったため何度か話す機会があった。主に捕縛した盗賊団の処遇についてだが。
「こんにちは、レネ殿。いや、なかなか見応えがあったから気にしなくていい」
爽やかな笑みで鷹揚に返すセーヴィンに、レネはほっと胸を撫で下ろした。
何かと個性的な勇者一行において、彼は良心だ。
一方的な暴力に見えていたはずなのに事情を察してくれるあたり、レネにとっても既に信頼できるおじさんという認識になっていた。クラウスという同じ苦労を共有できる間柄でもある。
「村での暮らしはどうですか? 何か足りないものや不都合はありませんか?」
「我々は宿に滞在しているから、今のところ不自由はないな。王女殿下も村長宅にご滞在なさっているから、手厚くもてなされていることだろう」
セーヴィンが同意を求め振り返るも、フルールの顔に常の微笑はなかった。
彼女の紺碧の瞳が、ゆっくりとレネを捉える。
「……わたくし、ちょうど新しいブラシが欲しいと思っておりましたの。レネさんとはもっと親しくなりたいですし、よろしければ雑貨を扱うお店に案内してくださいません?」
「え?」
突然の指名に驚いているのは、レネだけではないようだ。
どことなく不自然な空気を破るように、セーヴィンが名乗りを上げる。
「では我々がお供いたしましょう。女性二人だけでは不用心ですし……」
「こののどかな村のどこに危険が潜んでいるのかしら? わたくしにも最低限の身を守る術はあるわ。あなた方はクラウスさんの生存を確認してきて」
「ですが、その、盗賊でも何でも、現れる時は現れるものですし……」
「盗賊集団は頭領を失って解体されたと聞いたわ。では行ってくるわね」
フルールはやや強引に話を終わらせると、レネの手を取って歩き出した。
セーヴィンとヴェルヌは追ってこない。
彼らを一度振り返って、レネもまた前を向いた。
前回のことがあってから、フルールとはたいへん気まずい。
あの時は、光の速さで宿屋への案内を終わらせたクラウスが戻ってきてうやむやになったので、今度こそ向き合う時が来たのかもしれない。
商店は村の中心に密集している。時折村人とすれ違ったりもするけれど、やがておあつらえ向きというべきか、人影がなくなっていった。
そういえば今日は、比較的栄えている隣街で市の立つ日だ。
小規模な祭りのような市が催されるのは、二週間に一度。この日のために蓄えている村人も少なくなく、そちらに人が流れているのだろう。
言葉は交わさなかった。互いに出方を窺っているような緊張感が空気を重くする。
おもむろに足を止めたのは、フルールだった。
「――再度、お願い申し上げます」
視線が交錯する瞬間、一陣の風が吹いた。
彼女の紺碧の瞳は静謐な色をたたえながらも、すくみ上がるほどの気迫があった。
レネは気圧されぬよう、全身に力を籠める。
しばらくの沈黙のあと、フルールがついと視線を逸らした。
「王国に伝わる神話はご存じですか?」
「え……あ、はい。神様から力をもらって、勇者が魔王をやっつける話ですよね」
不意の質問に戸惑ったが、レネは慌てて頷く。
ルネル村でも子どもだって知っているような、ありふれた絵本の題材だ。
魔王はおよそ百年に一度、クローディアヌス王国内に出現する。
生きている間は悪影響を及ぼし続ける、人間にとっての害悪。
けれど神は、その抑止力を用意した。
そのため、勇者もまた必ずこの国から選ばれるといわれているのだ。
フルールは薄い笑みを浮かべながら首肯した。笑っているのにどこか寒々しい、憎悪さえ感じさせる凄みがある。
「我が国は、勇者と魔王の戦いの地でもある。これにより周辺国からは『神より使命を賜りし国』と神聖視されておりますが……実際はそれほど綺麗な話ではありません」
己の甘さを断罪されているような気がして、レネはあえぐように喉を鳴らした。
彼女は王族の顔で切り捨てるように続ける。
「魔王という存在は、絵物語の脅威ではない。瘴気によって大地を穢し、水を毒に変え、動物さえも凶暴化させる。あらゆる手段で我々の生活を脅かす混沌。こうしている間にも、計り知れない損失が生じているかもしれません。抑止力である勇者が、一刻も早く魔王を滅ぼさねばならないのに……」
フルールは長く息を吐きだすと、再びひたとレネを見つめた。
「……あなたに望むことは一つだけ。どうか、クラウスさんの説得を――この通りです」
赤みがかったストロベリーブロンドが肩から流れ落ちていくのを、レネはただ呆然と見つめた。
クローディアヌス王国の第三王女であるフルールが、村娘に深々と頭を下げている。
――それは、あまりに衝撃的な光景だった。