いきなり遭難
全ての原因はクラウスにある。
これは長年の経験から体に刻み込まれた、レネの人生の教訓だ。
「もうさ、本当……何でこうなった?」
普通ならこんな展開はあり得ない。
もしこれが小説なら駄作もいいところ。
いきなり、唐突に、何の前触れも伏線もなく。
レネとクラウスはなぜか……夜のアカネの森にて、絶賛遭難中だった。
元々、パンの材料を摘むため頻繁に出入りしているから、迷うはずなどなかったのだ。
奥に踏み入ろうとすれば必ず魔物除けに突き当たるため、レネがいつも歩き回る辺りは広大な森のごく表層にすぎない。太陽の位置さえ把握していれば何の問題もなかった。
それなのに、久しぶりの再会だからとクラウスがどこまでも離れないから。
背中に張り付き変態的なことを囁き続ける彼が邪魔すぎて、何とか逃げようと躍起になって、けれどしつこい勇者が相手では至難の業で、そんなこんなで白熱している内にいつの間にか時が過ぎ……現状ココだ。
当然明るい間に帰る予定だったので、ランタンなど持ってきていない。
所持品はハーブ入りの籠のみ。
正直、途方に暮れている。
魔物が現れる可能性もあるし、さすがに夜の森というのは怖い。
だがレネにとっては、こんな状況にもかかわらず隣でニコニコしているクラウスと二人きり、という事実の方が恐ろしかった。
本当に、何でこんなことに。
「ねぇねぇねぇ、レネ。これはやっぱりあれじゃない? フラグってやつじゃない?」
クラウスは恐ろしいことに、むしろ機嫌がよさそうな弾んだ声をしている。
そして、月明かりがほとんど届かない森の中においても、彼の存在感だけは際立って見える不思議。金髪も青い瞳も冴えざえと輝き、黙っていれば近寄り難くすら感じる。
レネは現状の何もかもを拒絶したくて、顔ごと視線を逸らした。
「……嫌な予感しかしないから聞きたくない」
「もうっ、そんなつれないこと言わずに。男女が遭難っていう状況だとさ、やっぱり僕的には裸になって温め合うあのフラグが発動するしかないと思ってるんだけど……」
「ここは雪山でもないし雨に降られたわけでもないしどっちも体調悪くないし」
「っていうわりにレネも結構あるあるに詳しいね」
「ってすぐさま反応できるあんたにだけは言われたくないわよ」
同じ環境で育ったのだ、互いが見聞きしてきたことにも大差はない。
レネは頭痛をこらえながら、深々とため息をついた。このような状況下でも阿呆なことを口走れるのだから、いっそ感心してしまう。
「本当、あんたといると人生楽しいわ……」
「僕も、君がいればそれだけで幸せだよ」
「分かってると思うけど、皮肉よ」
足元は不明瞭だし、自分達がどの辺りにいるのかも分からない。
魔物除けといっても、聖なる文字が彫られた板が等間隔に並んでいるだけなので、彼らが嫌がる程度の効果しかない。人間を見つけたら気にせず境界を飛び出してくるだろう。
魔物が彷徨く領域に近付いてしまう危険性を考えれば、朝が来るまで動かずにいた方が無難だ。
そうなると、まずは食料が必要か。
「今夜は森で野宿するしかなさそうね。ハーブじゃお腹は膨れないし、手分けして食べれるものを探してみましょう」
「うん、一人じゃ危ないから一緒に探そうね」
「そう言うと思ってたけど」
レネの意見を聞き入れないことは想定済みだったので、反論せず歩き出す。アカネの森に出現する魔物に手こずったことなどないのに、とは思うが。
万が一にも境界に踏み入れないよう、目印を作った方がいいかもしれない。
レネはスカートの裾を裂き、手近な木の枝にくくり付けた。
何度か同じことを繰り返したレネは、背後にいるはずの幼馴染みがやけに静かなことに気が付いた。
嫌な予感がして振り返る。
クラウスは、布の切れ端をいそいそと鞄にしまおうとしていた。
言うまでもなく、レネのスカートの裾だ。
――あぁ、こいつが変態すぎるせいで一生帰れないかもしれない……。
ここまで目印にしてきた全てが同じ末路をたどったのだろうと分かるからこそ、レネは真顔で絶望した。もう怒鳴る気力も湧かない。
それにしても、彼が持っている革製の鞄はかなり小型だ。レネのスカート生地でパンパンになっているでもない限り、何か仕掛けがあるはずだった。というかそうであってほしい。
「何それ。魔法のポケット?」
「みたいなものだね。勇者一行の魔法使いが開発したものなんだ」
クラウスの説明によると、魔法で空間を拡張させてある魔導具らしい。
魔導具の存在は知っているが、高価なものゆえ田舎にはあまり出回っていない。レネも現物を見るのは初めてだった。
「命あるものは収納できないとか、色々制約はあるけどね。でもこれのおかげで肌身離さずレネのブラウスを持ち歩くことが……」
「すごい発明品をしょうもないことに使うな!」
大声で突っ込んだあと、慌てて口を塞ぐ。
この森には魔物だけでなく獣だっているのに、軽率だった。
周囲で草を踏む音がしないことを確かめてから、安堵の息をもらす。そしてふと気付いてしまった。
「あんた……もしかしてその鞄の中に……」
恐るおそる問うと、クラウスは無言で笑みを深める。そうしておもむろに取り出したのは――果物と携帯食料。
レネはがっくりとその場に座り込んだ。
「探し回った意味……」
「はぁぁぁっ。ほんのちょっとだけでも、レネとしっぽり散策ができて幸せだった♡」
「あんたさっき私がいればそれだけで幸せって言ってたのに、欲望に際限がないわね……」
しかもこれっぽっちもしっぽりしていない。それだけは断言させてもらおう。
目の前に差し出された青林檎を、レネはのろのろと受け取った。
丸のままかじれば、口の中に爽やかな香気が広がる。パンやパイの材料にするなら水分の少ない赤林檎の方が扱いやすいけれど、加熱しないなら、昔から青林檎の方が好きだった。
何だか肩の力が抜けてしまった。
息を潜めていなければならない今は、力の限り彼を張り飛ばすことができない。
だからこうして、クラウスが村に戻って以来、初めて穏やかな時間が流れたとしたって……きっと不可抗力というやつなのだろう。
レネは、隣でおいしそうに青林檎をかじっているクラウスを眺めて小さく笑った。
「……おかえり」
「ーーえ?」
「まだ、言ってなかったから」
彼が驚いていることは手に取るように分かったから、レネは全力で視線を逸らす。
しばらくの沈黙ののち、クラウスの吐息が静かな森に響いた。
「……うん。うん、ただいま。レネ」
「でも、仲間に無理なお願いしちゃ駄目よ。あんたがいなきゃ魔王討伐もできないんだから、我が儘は今回だけにしときなさい」
「えー、さよならをした次の瞬間には会いたくて苦しくなるのに?」
「格好いい感じで言ってるけど、あんただと本当にただの変態だからね」
「洗濯ものの警戒が厳しくなったし、しばらくはこのスカートの切れ端でしのぐしかないか……」
「しばらくも何も、もう二度と帰郷の許可なんて下りないわよ、この犯罪者が」
ちなみに、クラウスの鞄には飲料水やランタン、天幕、くつろぎ空間を演出するベッドや揺り椅子まで入っていたが、方位磁針もあったためすぐに遭難問題は解決した。
もう勇者って何でもありだなとレネは思った。