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僕の唯一 ①

「レネのところに行ってくる。商店とかに用事があったら、ついでに済ませてくるけど」

 声をかけると、母の背中が小さく揺れた。

 家の中が薄暗いとはいえ、勇者の動体視力で見逃すはずないのだが、クラウスはいつものように気付かないふりをする。

 レネのように優しさで見逃しているのではない。ただ、面倒なだけ。

 クラウスの何気ない挙動を、母親は常に息を殺して見つめている。

 それは、猛獣から身を守らんとする小動物によく似ていた。

 ほっそりとした背中が、ぎこちなく振り返る。

「き、気を遣ってくれてありがとう。特に何もないから大丈夫よ。ゆっくりしてきてちょうだい。レネちゃんによろしくね」

 クラウスは無言で首肯を返してから家を出た。

 玄関扉を閉めてから、一呼吸。

 家の中にいると息が詰まる。

 昔からそうだった。

 ぎこちない両親、冷え切った空気。トリエッテで購入した土産を渡した時も、大して嬉しくなさそうだった。

 同じ家という分類なのに、温かくも騒がしいレネの家とは全然違う。

 それは、本当の家族ではないからだろうか。

 彼らは、クラウスの本当の両親ではない。父方の妹夫妻だ。

 実の両親が赤子の頃に死去していたことは、幼い頃に知った。

 クラウスはずっと、なぜ彼らから腫れもののような扱いを受けるのか分かっていなかった。

 怖い夢を見たある夜、リビングにいた彼らの下へ向かった時、偶然立ち聞きをして知ったのだ。

 兄夫婦と共に馬車の下敷きになった赤子。一人だけ生き残った異質な子。

 その時初めて理解した。

 彼らはずっと、クラウスを恐れていたのだ。だからいつも腫れもののような――化けものを見るような目付きをするのだと。

 寂しいというより、腑に落ちた。

 クラウスの体に勇者の紋章が現れてからは、彼らの瞳に覗く畏怖がさらに顕著になった。まるで、同じ人間ではないのだと、常に言い含められているようだった。

 昔から、人より秀でている部分が多かった。時には、なぜ周囲は同じようにできないのかと、疑問に思うことすらあった。

 とはいえ特別だ、選ばれし者だとまつり上げられても――正直いらないのに。

 ようやく、目指していたパン屋が見えてくる。

 白い土壁を見ただけで不思議と安らぐ。

 けれど近付くごとに、目障りなものまで視界に入り込んできた。思い思いにくつろいでいるのは、勇者一行の面々だ。

 ――構うなよ。僕のレネに、誰も興味を持つな。

 最近、彼女の周囲はとても賑やかだった。

 本音を言うなら、全員捻り潰したい。そもそも魔王討伐に関心なんてないし、面倒な勇者という役割も放り出してしまいたい。

 そうしたら、この狭い村の中、レネと二人きり、静かに生きて行けたのに。

 昔のクラウスが落ち着いて穏やかだったのは、ただ冷めていたからだ。

 何かに興味を持つことも、どうしても欲しいと意地になったこともなかった。だからそれを諦める悔しさや悲しみ、挫折も知らない。

 何も欲しないことは、空っぽと同義だ。

 笑みを浮かべて、思いやりのある行動をする。困っている人を助ける。

 心など動かなくても、役割としてそれだけ淡々とこなしていれば周りは安心する。しっかりした子だと褒めそやす。

 さすがに、村中から異質だと思われては生きづらいから。

 レネだってあの当時は、そうやって欺いていた有象無象の一人にすぎなかった。

 おっとりとしていて、同い年なのに遊びについてくるのがやっと。少しからかわれただけで泣きそうな顔をする女の子。

 はっきりと思い出せる。彼女が特別になったのは、六歳半ばの頃。

 クラウスの胸元に勇者の紋章が現れたことがきっかけだった。

 あの時は、村中が大騒ぎだった。

 辺鄙な村から勇者が輩出されるとは非常に名誉なこと。誰もが祝福の言葉と、笑顔をくれた。あの父と母ですら。――クラウスの絶望など気付かずに。

 確かに昔から、人より秀でている部分が多かった。時には、なぜ周囲は同じようにできないのかと、疑問に思うことすらあった。

 だが、それをかさに着たことなど、一度としてなかったのに。

 むしろクラウスははみ出したくなかったのだ。

 人と違うところなんて全然欲しくなかった。だから親切な人間を演じていた。

 けれどもうクラウスの意思など関係ない。もう、選ばれてしまった。

 特別になんてなりたくなかったのに、その見返りを求めるかのように……この先の人生から永遠に自由を失った。

 勇者という運命に縛り付けられ、決められた道を進むしかないのだ。

 誰もいない自宅の裏庭で、クラウスは頭を掻きむしりながら考える。

 そんなの神の横暴だ。

 なぜ誰も疑問にすら思わない。素晴らしいことだと祝福する。

 この心の叫びは、苦しみは、どうして誰にも届かない――……?

 足元に落ちる影に目を留めた時、ふと答えを突き付けられたような気がした。

 ……そうか。

【勇者】という称号が、【クラウス】に成り代わってしまったのか。

 元より、父と母はクラウスの名を呼ばない。

 この先もう二度と、誰かに名前を呼ばれることはないかもしれない。『勇者』がクラウスを示す記号の全て。

 それは――恐怖だった。

 体が芯から凍り付いていくよう。

 自分が自分ではなくなる。自己の消失に怯えているこの自我さえ、なかったことにされてしまう。

 誰にも顧みられることなく消えていく感情、個としての存在さえ。

【クラウス】という人間などはじめから――……。

『――グラウズッ……!!』

 舌足らずに声をかけられ、正気を取り戻す。

 いつの間にか、レネが心配そうにこちらを覗き込んでいた。クラウスがいないことに気付いて捜しに来てくれたのだろう。

 ただ一人レネだけが。

 彼女は柔らかな輪郭を描く頬に、いくつもの涙の粒を落としている。

『グラウズは、ゆうしゃになるんだっで、おがあざんが言っでだ。大ぎぐなったら、おうとに行っぢゃうんだっで……』

 鼻水をすすりながら、不明瞭な声で必死に言葉を紡ぐ少女。

 汚いなんて微塵も思わない。むしろそのどれもが、光のように心を衝いた。

 レネはさらに近付いて、クラウスに必死にしがみついた。

『やだよぉ。ずっどレネのそばにいでよぉ……』

 不覚にも涙が込み上げた。

 彼女はただ、頼れる幼馴染みに甘えたかっただけかもしれない。

 けれどクラウスには、このおっとりとした少女が【クラウス】という存在を世界に繋ぎ止めようとしているみたいに映った。

 絶望も恐怖も、丸ごと救い上げるみたいに。

 クラウスもまた彼女の背中に腕を回した。

 恥も外聞も捨て去り、しばらく全力で泣き声を上げ続けた。


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