帰途
セーヴィンが代表となって憲兵に引き継ぎを行い、事件が無事当事者の手を離れる頃、トリエッテの街並みはすっかり茜色に染まっていた。
乗合馬車が迎えに来る時間も迫っているので、もう街を散策する時間もない。レネが騒ぎに巻き込まれたせいで、散々な休暇となってしまった。
石畳の道をとぼとぼと、前を行く背中にただ漫然とついていく。
誰も口を開かない中で、レネはものすごい気まずさを感じていた。
絶対、あのぶちぎれ案件に引かれている。
粗暴な言葉使いも殺気も、彼らに見せたことのない部分だ。というかレネ自身、自分にあんな一面があったことを初めて知った。
勇者一行は、それぞれが心に折り合いをつけて休暇を楽しんでいるのだ。
彼らが過去に思い悩んでいたことも知っているから、勝手に理想を押し付ける言動に、ついカッとなってしまった。
――いや、だからってあれはなかったよね……。
レネは勇気を出して重い口を開いた。
「……あの。やっぱり、引いてますよね」
誰も、すぐには返事をしない。
これでは完全に、触るな危険の扱い。
泣きそうな気持ちをこらえていると、頭を優しい手付きで撫でられた。
恐るおそる顔を上げると、フルールが笑っている。頭を撫でる手と同じくらい優しい笑顔だった。
「何というか、レネさんとクラウスさんは幼馴染みなんだなって実感したわ」
それは、クラウスが街を震撼させるほど怒っていたところからの発言だろうか。
レネは唇を引き結んだ。
「ほら、引いてるじゃないですか」
「どちらかというと、あなた達の互いへの情の深さに引いているのよ」
フルールの瞳がさらに細まってレネを映した。
「おかしな人。自分が悪く言われている時は、あんなに怒らなかったでしょうに」
彼女のいたずらっぽい笑みに、少なくとも嫌悪感は見られない。
小馬鹿にされている気がしたけれど、レネは安心して笑みを返せた。
「もちろん嫌な気持ちになったし、誤解が広がっていくのも怖かったんですけど……みなさんが、欠片も疑わないでくれたから」
現場にいなかったし、事情も知らなかったはずなのに、ヴェルヌが映像再現魔法を使う前からさも当然のように信じてくれていた。それがどれほど心強かったか。
本当なら傷付いてしまいそうな場面だったのに、どこか客観的に状況を捉えることができたのはそのためだった。
「親しくしてる人達が信じてくれてるなら、誰に疑われてもどうでもいいなって。心がすっと軽くなったんですよね」
おかげで、この街への苦手意識なども一切芽生えなかった。
嫌な人ばかりじゃないこともよく分かっている。
建物の間から射す夕日を美しく感じながら、レネは破顔した。
「色々ありすぎて、全然息抜きにならなかったかもしれないけど……私は信じてもらえて嬉しかったです。ありがとうございました」
見ている側も自然と笑顔になる、満面の笑み。
それは、昼下がりの柔らかな木漏れ日や、バターがとろりと溶けた焼き立てパン、肌触りのいい毛布といった、幸せの象徴のようなものをそれぞれに想起させた。
「わたくしも十分楽しかったわ。レネと一緒だったのだもの。それにこちらこそ、わたくし達のために怒ってくれてありがとう」
感謝の言葉を返すフルールに続いたのは、ヴェルヌとセーヴィンだ。
「まぁ僕は勇者一行に入ったのも嫌々だし、身を削ってまで人を守りたいなんて考えたこともないけどぉ。でもレネは特別に守ってあげてもいいかなぁ」
「私でやっと追えるほどの、尋常ではない瞬発力。やはり手合わせ願わねば……」
「ヴェルヌさんはこんな街中で勇者一行の評判を落とす発言なんて慎むべきだし、セーヴィン様は私をよく解釈しすぎですってば」
誰が聞いているかも分からないと辺りを見回したレネは、ふと気付く。
正門に向かっていると思ったのに、むしろ街の奥に進んでいないだろうか。よく考えると景色にも全く見覚えがない。
先導していたクラウスの背中を見つめれば、視線を感じた彼が振り返る。
「僕も、口が悪くなったレネも最高だったと……」
「今そういうこと聞きたいんじゃないから」
食事店からの気まずさを引きずっているのか微妙に距離をとっているくせに、クラウスは変態発言に対して余念がない。これを彼らしいと捉えてしまうレネも相当重症だ。
「ねぇ、そろそろデュカス君が迎えに来る時間なのに、私達はどこに向かってるの?」
「レネ、他の男の名前を馴れ馴れしく呼ばないで。それか、僕のこともたまに『クラウス君』って呼んでくれれば……」
「だからこっちの話も聞きなさいって」
こぶしで分からせるしかないかと腕まくりをしたところで、突然視界が開ける。
街並みが途切れ、まるで別の場所に放り出されたような感覚だった。
目の前にはどこまでも広がる海。
昼間は青く澄んでいたのに、今は空も海も燃えるように赤い。どこまでが空なのか曖昧になりそうな境界線で、最後の陽光を弾いた水面がきらきらと輝いている。
空を飛ぶ海鳥の群れが、沖を航行する帆船の周りにぽつぽつと黒い点を落としていた。
沈みゆく太陽は橙色に緑色にと忙しなく色を変え、空にも急速に青と紫がにじんでいく。美しい色彩の洪水だ。
言葉もなく立ち尽くすレネの隣に、静かにクラウスが並んだ。
「さっき僕に群がってた内の一人が、穴場だって教えてくれたから」
「群が……って、あの女の子達か」
それは一緒に行こうという誘いであって、決して他の人と楽しむために教えたわけではないはず。
けれど息を呑むほどの鮮やかさに見惚れてしまったのだから、もうレネも共犯だ。
この場所に来られてよかった。彼らと眺めることができてよかった。
ふと、背の高い幼馴染みを見上げる。
フルール達に出会えたのは、クラウスがふざけた理由でルネル村に帰ってきたからだ。
それなのに、冗談交じりで告げた感謝の言葉を、彼は拒絶した。
瞳の奥に、時折苦しそうな色がよぎることに、気付いてはいたのだ。
あれは罪悪感だろうか。
秘密がある。勝手なことをしている。
それらはレネに関していて――許されないことだと、知られたら嫌われると思っているのだろうか。
あるいは、そんな不誠実な自分から開放すべきなのかという苦悩。
レネはクラウスの手をぎゅっと握った。
驚いて強ばる手の平には固い剣だこがあり、かさついている。手を繋ぐのは子どもの頃以来だが、ずっと大きくて厚くなっていた。
「……あんたが身勝手なのも、卑怯なのも、今にはじまったことじゃないでしょ」
きっと、彼が陰で何をしてきたのか知った時、レネはしこたま怒るだろう。
身勝手で卑怯で、強いのに臆病で、変なところで急に自信をなくす間抜けな幼馴染み。
いつかレネが限界を迎え、離れていくかもしれないと、勘違いしているようだけれど。
逃げ出しそうな手をしっかりと捕まえて、レネは不敵に幼馴染みを見上げた。
「いいよ。あんたがいらないって思う日まで、私がずっとあんたを側で叱っててあげる」
もう必要ないと、クラウスの方から手を放す時が来るまで。
約束する。レネはずっと側にいると。
どこか呆然と宣言を聞いていたクラウスが、くしゃりと顔を歪める。
くっきりと澄んだ青い瞳は、今は夕暮れの色を映して揺れていた。
「レネは……優しすぎる。そんなの、ますます僕の思うつぼじゃないか……」
弱々しい反論と共に、彼の唇が戦慄く。
レネは気付かないふりで海に視線を逃がした。
「引っかかってあげるって言ったんだから、もうちょっと嬉しそうにしなさいよ。……私、あんたの胡散臭くてそつのない笑顔も、嫌いじゃないわよ」
何てことのない理由でルネル村に帰ってきた違和感についても、今だけ目をつぶってあげよう。
意図的に仲間が追いかけてくるよう仕向けたのではとか、世界の命運とか。ただの村娘には計り知れないことだ。
繋いだ手から伝わる振動を不思議に思い、レネは視線を戻した。
空いた手で顔を覆いながら、クラウスが小刻みに震えている。全身赤いのが照れているからか夕日のせいなのか、もはや見当もつかない。
「ちょっと、どうし……」
「あーーーーーー、むらむらする」
ピシ。
今確実に、二人の間に亀裂の入る音がした。
ついでに、レネのこめかみにくっきりと青筋が生じた音でもある。
「レネレネレネレネレネレネ……どうしよう思いの丈が溢れて暴発してしまいそうレネに見られてるってだけで興奮できるレネの匂い嗅いでるだけで性欲が止まらない……」
「っ、頭を冷やしなさいこの変態がーー!!」
「はぁん背負い投げ最高ーー!!」
放物線を描いて海に落ちていく勇者を助ける者は、もちろん一人もいなかった。