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裏の顔

 ルネル村の早朝、パン屋に近付く人影があった。

 デュカスという少年の実家は粉ひき屋を営んでおり、レネの家にも小麦を卸している。

 十三歳になったばかりだが体格が優れているため、重い粉袋を三つ担いでいても足取りにはまだ余裕があった。

 その足が、ぴたりと止まる。

「――やぁ、おはよう」

 朗らかな笑顔で声をかけたのはクラウスだった。

 まだ薄暗い朝の景色の中でもその存在感は鮮烈で、デュカスは途端に動けなくなった。

 今まで一度も話したことがないのに、一体何だというのか。むしろ話したことなどないのに、敵意を向けられているような気がするのはなぜなのか。

「お、おはようございます……」

「朝から家の手伝いをするなんて、君はとても偉いね。僕が手伝ってあげようか」

 クラウスの提案に、デュカスは警戒を解いた。

 パン屋のレネが絡むと奇行に走るという話を聞いていたが、とても親切ではないか。気遣いの覗く笑顔も魅力的で、噂通りの変人にはとても見えない。

 敵意を感じたのもきっと気のせいだろう。

 そう結論付けながらも、デュカスはありがたい申し出に笑顔で首を振った。

「お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫です。これが俺の仕事なんで、きちんと配達しないと父に叱られるんですよ」

 任されたことは最後まで責任をもて。

 耳にたこができるほど聞かされてきた小言だ。

 普段のデュカスは適当に聞き流しているのだが、今日は勇者に声をかけられた興奮のおかげで、いつになくやる気に満ちていた。クラウスには、背筋を伸ばして真摯に向き合わなくてはと思わせる特別な存在感がある。

「俺、大人が言ってるクラウスさんの噂、今日から信じないことにします。だってクラウスさんみたいな人が、レネ姉ちゃんを追っかけ続けてるなんてあり得ないですもん。レネ姉ちゃんって確かに結構可愛いけど乱暴ですぐ手を上げるし……」

「――『レネ姉ちゃん』?」

 爽やかな朝の空気が、ひやりと凍り付く。

 デュカスの少年らしい人懐っこい笑みが、ぎこちなく引きつった。

「ク、クラウスさん?」

「もう一度言うね。……君の仕事、よかったら僕が手伝ってあげようか」

 クラウスはあくまで笑みを浮かべているだけだ。

 山間から差し込む朝日が金糸の髪を照らし、吸い込まれそうに鮮やかな青い瞳を輝かせる。太陽さえも彼の奇跡のような美を称賛しているかのよう。

 それが、寒気がするほど綺麗で――……。

「は、はい……」

 デュカスは蚊の鳴くような声で、彼の求める答えを返した。

 すまん、親父。

 けれどこればかりは、両親だって許してくれると思うのだ。

『独身男はパン屋のレネに近付くな』

 まだ少年と呼べる年齢のデュカスがこの教えに引っかかったことは驚きだが、決して嘘でも冗談でもないのだと思い知った。

 これからは『レネさん』と呼ばせていただこう。

 デュカスは粉袋をクラウスに預けながら、内心で固く誓った。


   ◇ ◆ ◇


「……嫌だねぇ、好青年ぶってるのに、裏でこんなことしてるなんてさぁ」

 家屋の陰に潜んでいたヴェルヌは、そうぼやきながら進み出る。

 早朝に起きたささやかな衝突、その一部始終を見ていた。

 先ほどクラウスに追い払われた少年は、彼の奇行を一度も見たことがなかったのだろう。頻繁に起こる騒ぎを目の当たりにしてこなかったなんて、運がよかったのか悪かったのか。

 普段の穏やかな笑みのまま、ゆっくりとクラウスが振り返る。

「……何のことだ?」

「うわ白々しい。ここまで来て知らないふりができるなんて、本当に筋金入りだねぇ」

 彼の底の知れぬ笑みは、深淵や謎を愛するヴェルヌですら空恐ろしさを感じるものだ。レネよりずっと年下のようだったし、あの少年はやはり不運だったのだろう。

 弾むような足取りでクラウスに近付きながら、ヴェルヌは己の推察を口にする。

「君が変態行為に走る理由、ずっと考えてたんだよねぇ。だってその顔だし、普通に口説いた方が何倍も効率いいに決まってるもん」

 頬をぷにっと突くと、不快そうに振り払われる。

 レネがいない時のクラウスはいつもこの調子なので、特に驚かない。

 そう。彼女は決して信じないだろうが、ヴェルヌから見たクラウスはひどく冷めた性格をしている。達観していると言い換えてもいい。

 どちらが本性かなんて、くだらない議論をするつもりはないけれど。

 ヴェルヌはへらへら笑って彼に対峙した。

「今のやり取りを見ただけで簡単に分かったよぉ。クラウスはずっとそうやって、大々的に周囲の男共を牽制してきたんだ。『勇者の選んだ相手だ。決して近寄るな』ってね」

 レネは以前、一度も異性から誘いを受けたことがないと口にしていた。

 デートさえしたことがないと自虐的に笑ってもいたけれど……あれが彼女の本心からの笑みだとは、まともじゃない自分ですら思わなかった。

 ヴェルヌは少し怒っているのかもしれない。

 声高に権利を主張しながら、レネを平然と傷付けているクラウスに。

 彼が何も反論しないから、ヴェルヌはますます胡散臭く笑った。

「普通の男が安易に言い寄れないくらいにレネが強くなったのは、あくまで副産物かなぁ。でもそれもまた君に都合がよかったんじゃない?」

 クラウスは、いずれ勇者としてこの村を旅立つ運命が決まっていた。

 いつまでも側にいられるわけじゃないから、懸念材料が少しでも排除できるなら万々歳だったのではないだろうか。危険から遠ざける意味でも、異性に言い寄られない意味でも。

 彼の身勝手な理由でレネは自信を失い、居心地の悪い思いを味わった。

 そこに罪悪感はないのか。

 好きなら何をしても許されると思うな。

「ねぇ、今どんな気持ち? レネの全てを縛り付けて、他の選択肢を潰してさぁ。思い通りに進んで満足してるのぉ?」

 挑発的な問いかけを受け、クラウスはようやく口を開いた。

「あんたが何を言っているのか分からないが――この先、あんたが他の選択肢とやらにならないよう、心から祈ってるよ」

 勇者に似つかわしくない、それはあまりに退廃的な笑みだった。

 暗く凝った青い瞳の奥、隠しきれない貪欲な陰が蠢いている。

 だから彼とは、何から何まで反りが合わないのだろうと思う。

 クラウスもヴェルヌも、互いの価値観が他者とは異なることを自覚している。

 だがおそらく、その相違点が絶対的に違う。壊れ方が違うというべきか。

 人としての倫理観とやらが著しく欠如しているのがヴェルヌなら、一般的な倫理観を持ちながらも、あえてそこを踏み越えていくのがクラウス。

 ヴェルヌは人そのものに興味がないから、誰かの心をひどく傷付けるということもない。

 けれどクラウスは違う。

 彼は人というものに好悪問わず何かしらの感情を抱いているのに、切り捨てる無慈悲さをも持ち合わせているのだ。特別な一人以外は勝手に傷付いていろとでも言わんばかりに。

 その時、クラウスが不意に物騒な気配を消した。

 落ち着きをなくした背中がまるで子犬のようだと思えば、その落差に呆気に取られる。

 そうしてクラウスは、ヴェルヌを置き去りにさっさと走り出した。

 彼が向かった先には、当然のようにレネの姿がある。パン屋までそれなりに距離があるのによく気付いたなとますます呆れるしかない。

「おはようレネ! 今日も完璧なびにゅう……」

「消えろこの変態!!」


   どっかーんっっ


「……朝っぱらから飛び蹴りとか、本当にレネってすごいなぁ」

 はた迷惑な大騒ぎを遠くで聞きながら、ヴェルヌは肩をすくめた。

 何度蹴り飛ばされてもクラウスは諦めないし、何度返り討ちにしてもレネからは『変態』と詰る以外の罵倒は出てこない。

『嫌い』と言えば一番楽に傷付けられるのに。

 珍しくも善意から口を出してみたが、何も変わらないことは分かっていた。

 ヴェルヌがいらぬ心配をしたところで彼らの絆は壊れない。

 どれほど歪んでいても、ねじ曲がっていても、それすら丸ごと包み込んでしまうのがレネの『普通』なのだから。

 騒々しさに、村の人達も次々起きだしてくる。

 しかも両者の戦いを仲裁する気もないあたり、これがルネル村の起床の合図なのだろう。

 何もない平凡な村だと思っていたけれど、彼らも大概おかしい。

 ヴェルヌは、置き去りにされたままの粉袋の山をうんざりと見下ろした。

「……難儀だねぇ」

 呟きは誰に届くことなく、風に流されていった。




 

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