ちょこっと昔話
どこまでも続く柔らかな空と、遠くでにじむ蒼い山の稜線。
刷毛を走らせたような薄い雲がたなびき、まろやかな日差しがルネル村全体に降り注いでいる。眺めているだけで穏やかな気分になる昼下がり。
パン屋に向かって歩いていたフルールは、同年代の村娘と話しているレネを見つけた。
内一人は、村長宅に滞在しているため顔見知りである、村長の娘。もう一人は誰だろうと観察する間に、彼女達は手を振り去っていった。
レネは友人らに向かって、いつまでも楽しそうに手を振っている。こちらが接近していることにも気付いていないようだ。
フルールは少し拗ねた気持ちになって、意地悪な問いを投げかけた。
「……勇者と親しくしているのに、レネさんは村の方々にやっかまれていないのね」
「あれ、フルールさん!」
ようやく振り返ったレネが、満面の笑みを浮かべる。それだけでもやもやした気持ちは吹き飛んでしまったけれど、放った言葉は取り戻せない。
それに、先ほどの問いを以前から気にしていたことは事実だ。
クラウスは変態だが、そこさえ目をつぶれば恋愛対象として好まれる要素ばかり。
金髪碧眼で見た目は文句なしに整っているし、物腰も穏やかでその上勇者の称号持ち。
幼馴染みへの態度以外は非の打ちどころのない好青年とくれば、たとえ王都であろうと引く手数多の優良物件だった。重ね重ね変態だけれど。
クラウスの幼馴染みというだけで、様々なトラブルに巻き込まれたのではないだろうか。レネが辛い思いをしてきたのではないかと心配になる。
「こんにちは、フルールさん」
「えぇ、こんにちは。そうね、挨拶は大切よね。ところでわたくしの話は聞いていたかしら?」
「やっかまれないかって話ですよね。今一緒にいたソニアとアンは幼馴染みなんです。クラウスも含めてよく一緒に遊んだ仲なので、特に嫉妬されたことはないですね」
ルネル村は人口が少ないのに、やたらと広い。
レネによると、家が比較的近い同世代は、全員が幼馴染みという括りになるのだという。特に馴染んでいなくてもだ。
「久々にルネル村独特の文化を垣間見たわ……」
「え、おかしいんですか? 何かだんだん、勇者として王都に行ってたクラウスが周りから浮いてなかったか、心配になってきた……」
「勇者としては優秀な人だから、そこに限っては心配ないわ。勇者としては」
「わぁ。勇者であるクラウス以外に一切興味がないって思いが如実に伝わってきますね」
冗談と片付け笑うレネに、むしろ心配が募った。
他にも幼馴染みがいるのに、クラウスの口からはレネの名前以外を聞いたことがない。
普段の態度があれなので理由は察して余りあるけれど、問題は彼女が強く拒絶をしないことだ。
クラウスの執着は異常だと、レネだって理解しているはずなのに。
フルールの目には、二人の関係がひどく危うい均衡の上に成り立っているように映った。
「あなたは……逃げたっていいのよ。もし誰にも相談できないなら、わたくしが力になるから……」
「何かすごく深刻な雰囲気をかもし出してもらってるところ申し訳ないんですけど、子どもの頃は今と違って普通でしたからね、クラウスも」
クラウスと普通。
頭の中で単語同士が結びつかない。
フルールは早々に理解を諦め、相槌を打った。
「へぇ、意外ね」
「……私も私で、昔は大人しい方だったので。クラウス達の活発な遊びに、ついていくのがやっとって感じでしたし。むしろソニアとアンにはお世話になってばかりでした」
「へぇ、意外ね!」
「興味の度合いが手に取るように分かる反応ありがとうございます」
それはもう、前のめりにもなるというものだ。
おどおどと人の陰に隠れるレネや、手を引かれて懸命についていくレネを想像するだけで楽しい。
正直クラウスは変態でさえなければ、求心力のある抜きんでた子であったことを想像するのは容易い。頼れる子ども達のまとめ役といったところが妥当だろう。
「……クラウスが変わったのは――勇者の紋章が体に現れたあとでした」
そう告げるレネの声音は、風にさらわれてしまいそうなほどささやかなものだった。
きっと届かなくても構わないと発した言葉。
けれど、今日ものどかなルネル村には、彼女の声を遮るものがなかった。
だからフルールは、僅かに反応してしまった。
こちらを見つめる蜂蜜色の瞳が、ゆっくりと細められていく。
普段の快活な彼女からは考えられないほど、静謐な眼差し。
それだけで、己の誤りに気付いた。
――あぁ……ルネル村に来たばかりの頃の、私の心ない言動を、レネはどんな思いで……。
役目を果たせと、傲慢な正義を振りかざして。到底許されるはずがなかった。
勇者に選ばれると人生はがらりと変わる。
それを喜んで受け入れる者もいれば、絶望し悲嘆に暮れる者もいる。
クラウスは――……。
……彼が苦悩を抱える普通の少年だったなんて、考えが及ばなかった。変態だが、どこか超然とした雰囲気があるせいだ。
だからといって慮ったことすらなかったのは、間違いなくフルールの落ち度だった。
そしてレネは、葛藤や苦悩を抱えるクラウスを、ずっと間近で見てきたのだろう。
危ういなんて、とんでもない思い違い。今この瞬間、彼らの強固な絆の片鱗を見た気がした。
フルールは言葉に迷い、逡巡ののち口を開いた。
「……彼の辛さを知れたことはよかったけれど。だとしても、あそこまでの変態に進化を遂げるというのは、やや極端な話だわ」
結局逃げるような話題を選んでしまったけれど、レネはささやかな笑みを浮かべた。
途端に空気が軽くなる。
フルールは、自分がずいぶん緊張していたようだと思い知った。
「たぶん、そもそもクラウスに変態としての素養があったんでしょうね」
「そうね。さっきの幼馴染みだという方々も、当時はずいぶん困惑したのではないかしら」
「あー。それに関しては幼馴染みだけにとどまりませんでしたね。きっと何かの箍が外れちゃったんだって、村全体がざわついてました」
「……目に浮かぶようね」
もはや阿鼻叫喚だったはずだ。
品行方正な頼れる少年が幼馴染みの服を盗んだり、突然抱き着いたり匂いを嗅いだり、やりたい放題。特殊な性癖を開花させたと慄くしかない。
なるほど。
これでやっかみがないことにも合点がいく。
同じ年頃の少女の中には本気で彼を慕う者もいただろうが、軒並み諦めざるを得なかったというのが真相なのだろう。
ただの変態と見せかけて、おそらくクラウスにとっては全て計算ずくのこと。
「納得したわ。この村の人達にとって、クラウスさんはあくまで観賞用なのね。確かにあの態度を見ていれば、嫉妬する方が馬鹿らしいもの」
「そうですね。あまりの変態ぶりに、クラウスに言い寄ろうとする猛者は皆無になりました。もちろん、村の外では憧憬の対象だって分かってるんですけど。同年代の子は、むしろ私に同情的です。変態行為を回避するためにどんどん強くなっちゃって、年頃にもかかわらず知り合いと呼べる男性が一人もいないですから」
既婚者が多い村では肩身が狭いと苦笑するレネを、まじまじと見返す。
「……え? 本気?」
「何ですか、面白いですか。これでも結構本気で悩んでるんですけど。隣街に用事がある時は積極的に若者と話すし、独身男性がいないか目を皿のようにして探してますし」
「違うの、そういうことではなくて……というかレネさん、そんなことをしていたのね」
「いけませんか。恋愛に縁のない平凡村娘の涙ぐましい婚活を馬鹿にするんですか」
馬鹿にはしていないし、婚活というわりに微笑ましい内容ではあるけれど、そういうことでもない。
レネほど可愛く気立てがよければ、本来相手に困らないはずなのだ。
顔見知りばかりの村内、知り合いと呼べる年頃の近い男性が一人もいないというのもあり得ない。
完全に意図的なものしか感じないのに、レネが気付いていないことに驚いたのだ。
「それって……」
この場で暴露してしまおうかと口を開いたフルールだが、ふと口を噤む。
ルネル村の者達も大抵は勘付いているはずなのに、説明をしない理由。
……それは、第三者の介入など、野暮だからに決まっている。
何よりフルールだって、これ以上クラウスが増長し、レネを独占しはじめたら困る。昔からの友人達に嫉妬するくらいには、彼女を好きになっているのだから。
「……とりあえず、全ての原因はクラウスさんということでいいかしら」
「紛うことなき事実ですね」
真剣な顔で頷き合った二人は、示し合わせたように歩き出す。
悪口大会を開催するに適切な、村唯一の喫茶店に向かって。