「もったいない」 too good for us
私は、日本人です。敗戦国の人間です。かつて一億いた同胞は、皆殺しにされてしまいました。以来、孤独に生きてきました。
私も、殺されそうになりましたが、まだ殺されていないと思っています。文化とは言葉であり、私はまだ日本語を話せます。より正確に言えば、文化とは概念であって、私は例えば、「もったいない」というコンセプトをまだ知っています。
つまりその語義のうち、「It's wasteful.」(それは粗末にすることだ)ではない、「It's too good for me.」(私には良すぎる)の意味があることを知っています。
手に入るものは手に入るだけ手に入れる、そして与える自由はありえても与える義務などないとされるのが現代です。だから、そんな概念で動作していた社会がかつてあったことなど、もう誰も知りません。
言語は思考を、そして心を規程します。だから私は、「もったいない」というコンセプトを忘れないことで、自分がまだ生きていると確認します。しかしそうすることは、祖国がすでに滅亡してしまったことも同時に証明してしまうのです。
戦争などしなくとも祖国は滅びずこうして栄えたのに、戦士達は無駄死にだったな、という声を耳にします。そんな冗談にもならない言葉を繰り返し聞いて、真の滅びとは、自覚できないものなのだと知りました。滅びてしまってもむしろ栄えているつもりの国で人々は、死んでしまってもまだ生きているつもりでいたのです。
「もったいない」という言葉の重要な語義は、「It's too good for me.」(私には良すぎる)です。そこにおいて、「too good」(良すぎる)とは、あるべき公正な分配に比して過大だ、という意味です。
つまり、十匹の飢えた犬の皿に限りあるドッグフードを盛ったとき、私に与えられた分は過大だと、自ら申し出る犬の心で働いた概念が、「もったいない」です。つまり、私益ではない公益を念頭に置いた考えです。つまりそれは、チームとしての信頼関係が形成された社会における考え方です。「しめしめ。なんの間違いが知らないが得をしたぞ」と思って黙って全部食べてしまう現代人とは、違います。
しかしさらに言えば、「me」(私)とは私的な概念であって公的な概念ではありません。よって、「もったいない」のさらに高度な語義として、「us」(私達)を用いた、「It's too good for us.」(私達には良すぎる)があります。
取引先に勤めている一人の青年がいて、深くはないが長い縁を持っています。出会った時から、彼の心の美しさを感じて、私は深く尊敬しています。会うたび、すれ違うたびに、頭の下がる思いを感じています。
しかし彼は、世間からは普通の青年の一人として扱われています。若者を、目上の人間としてまで扱わない人がほとんどです。私は、彼の心の美しさゆえに、彼を目上と思って尊敬しているので、私から彼を見る見方と、世間から彼を見る見方は、大きく異なっています。
その青年から直接に親切を受ける時、私は、「It's too good for me.」と感じます。そして、この穢れやすい世に彼がなお美しくあってくれる社会的な現実について、「It's too good for us.」と感じます。
まだ若い青年。
優しい目をしている。感情を偽る裏表が少しもない。
なんて透き通った美しい目をしているのだ。
「It's too good for us.」
思わず、滾々と涙あふれる。
不思議と頭が重くなり、こうべを垂れてひざまずく。
それはまるで、神に出会ったかのように。
南蛮渡来の伴天連達は、神は天に唯一ありと説いて回る。
そうは思わない。少なくとも私達にとっては違います。
「It's too good for us.」
神は童らの心にありふれている。
感謝も尊敬も人に対してすべきものだと私達は信じています。
だから今は帰ってください。何百年後に私達を滅ぼす日まで。
「It's too good for us.」
かつて頭など下げたことのない屈強な男達が、思わず上空から圧されて、並んで自ら膝を折る。
利害に恐怖して強いられて服従するのではなく、義の喜びを感じて自ら進んで服従する。真の神は、契約を必要としていない。私達には、新約も旧約もいらない。
美しいものを前にしたこの感動のうちに、私は真実を感じます。言葉などなくとも、愛の理想に向かって私達は、初めから正しくプログラムされている。
美しいものは存在する。
穢れやすい世を、なぜか穢れずに生き抜いた若い才能は存在する。
問題は、感謝すべきに感謝せず、尊敬すべきを尊敬しない側にある。
だから、善良な人を見ると、苦労するだろうなと悲観してしまう。強さも備えた人を見ると、苦労を越えてきた努力に深く感動する。
そして、力の限りお守りしようと信念する。
「It's too good for us.」
主を見つけた喜びに魂は震える。
「もったいない」
以上がそのコンセプトです。
・それは深い感動を伴っていて、
・美しさを感じさせるものであり、
・とめどなく涙があふれてくるものであり、
・感謝や尊敬を誘うものであり、
・進んで頭を垂れたくなるものであり、
・ありがたい、つまりレア度 rarity を感じさせるものであり、
・目上の魂の主人として相手を認めさせるもの。
そんな感じです。倹約だけの概念ではないのです。
そして、単に対象の性質でもありません。同じ現実を受け止める側の認知のあり方の問題です。だから文化です。もったいないものが存在するのではなく、もったいないと思える心が存在するのです。
「もったいない」はかつて、日本人の生き様でした。感動の原理でした。昔の人は涙もろくて感動しやすかった。悲しくて涙するのではなく、嬉しくて涙することをよく知っていました。そしてそのように感情的なことは恥ずかしいことではなく、適切な感情を持たないことのほうが恥ずかしいことでした。
謙虚な側、頭を下げた側、シャイな側が弱者として侮られる今の個人主義の社会とは、遠く異なっていました。普遍的な価値を知っていて、お金や地位や力ではない、本当に頭を下げるべきものに頭を下げることを知っていました。頭を下げるべきでないものに頭を下げないことを知っていました。
「もったいない」(too good for me)、という言葉があったことが、そのすべての証明です。
「綺麗な心」は、世間にしばしば存在します。釈迦やキリストの転生みたいな。
「too good for us」なものとして、その価値を認めて尊ぶこと。
それが、より優しい世界を築くために、今の私達にできる戦略。
それが私達の教えであり、経典なき民の失われた文化でした。
心が綺麗なことが価値でなくて、何が価値だと言うのだろうか。
綺麗な心を愛さずして、何を愛して喜ぶというのか。
「もったいない」
それは私達の心の底から湧き起こる絶叫なのです。




