伍子胥 ~死者を鞭打った男~
伍子胥 属性:激情家 策謀家 成り上がり 復讐 非業の死
伍子胥とは春秋時代の政治家であり、紀元前500年頃を中心に活動した人物です。
紀元前500年頃と言われてもさっぱりわからないと思いますが、中国史で見た場合では儒教の創設者である孔子と大体は同年代にあたり、秦の始皇帝の統一のおよそ300年くらい前になります。
日本史としては文章としての記録が無く、歴史学よりも考古学の範疇に含まれますし、西洋史で言えば紀元前480年にスパルタが頑張ったことで有名なデルモピュライの戦いが起こっています。
要はそれくらい昔の人物だという事です。
なお、春秋時代とは中国史における時代区分の一つで、小さな国が乱立して相争っていた時代を指します。
これらの小国が統廃合の結果、大体七つぐらいの国にまとまった時代を中国史では戦国時代と呼びます。
以上、閑話休題。
さて、伍子胥は春秋時代の比較的強国である楚の貴族階級の一員として生まれついたと伝わっています。
伍子胥の一族である伍家は謹厳実直な家として名高く、君主と言えども間違いを犯せば容赦なく諌言を行うことで知られていました。
ある時、時の王が王太子の妻となるべき女性を奪って自らの側室とし、しかも王太子を廃するという事件が起きました。
(以下、全くの余談ですが「長恨歌」で知られる玄宗皇帝も息子の妻の一人である楊貴妃を奪った挙句にその息子の王位継承権を取り消して、安史の乱の遠因を作っています)
王太子の教育係を務めていた伍子胥の父親はこれを激しく非難しましたが、それを疎んだ王は父親を捕え、しかも伍家の人間を皆殺しにするため王宮に出頭するよう伍子胥達に命じます。
兄とともに家にいた伍子胥は危機に気づき、父親を助けるために逆に王宮に攻め込むよう兄に提案しますが、無駄に死ぬことを恐れた兄の手により、兄を囮として一人逃がされました。
結果として伍子胥は助かったものの、父と兄は処刑され、伍子胥は復讐を誓います。
楚に居たままでは復讐が叶わない考えた伍子胥は国外へと逃亡を図り、呉という国にたどり着きました。
伍子胥という人物の凄まじいところはここから始まります(実は逃亡中の逸話も凄いのが多いのですが、割愛します)。
伍子胥の目標は父と兄を殺した楚の王家への復讐ですが、一人の人間の力だけでは成し様がないので、呉で権力を握り、呉を強大化させて楚に攻め入らせようと画策します。
まず伍子胥は国王の信頼を得ようとしますが、外国人である伍子胥はそう簡単に用いられることはありません。
それで諦めるような伍子胥ではなく、王族の一人が国王の座を狙っていることに気付くと、暗殺者をその王族に紹介し、自身は野に下って生活することを選びます。
およそ九年もの間、表舞台には立たず、一介の農民として生活していた伍子胥ですが、かつて王族に紹介した暗殺者が首尾よく王を暗殺すると、新しく王となった王族によって側近に迎えられます。
側近となった伍子胥は王に孫武(『孫子の兵法』で知られる孫子のこと)を紹介し、更に戦争に逸る王を二度に渡って諌めることで国力を充実させます。
十分な戦力を整え、また楚の地理に明るい伍子胥の手引きもあり、楚に攻め込んだ呉は遂には首都をも占領しましたが、既に伍子胥の家族を殺した王は没していました。
そこで伍子胥はその王の墓を暴き、その遺骸を引きずり出し、王宮にてその王の罪を改めて裁くと、鞭三百を罰として下したと歴史書には記載されています。
すなわち死者に鞭打つとは比喩でもなんでもなく、実際の行為だったと伝わっている訳です。
さて楚の首都を占拠した呉ですが、その支配を確立することはできず、楚を滅ぼすまでにはいきませんでした。
更には新しく強大な敵国が勃興し、そことの長い戦争に陥ることになります。
その敵国の名前が越。「呉越同舟」、「臥薪嘗胆」といった憎悪と敵愾心に関する故事を生み出すことになる国です。
伍子胥は越との戦争中も権力の中枢にいましたが、戦争により王が死に、その子供が王位を継ぐと徐々に疎まれるようになります。
特に伍子胥自身は越を滅ぼすことを主張しますが、越の政治工作により王は越を属国として支配しようとし、その対立は決定的になります。
また家族を殺されたことへの報復として、一国を滅亡の淵まで追い詰め、墓を暴いてまで死骸を痛めつけたことは、伍子胥を危険視させるのに十分な理由でした。
結果として伍子胥は王から剣を送られ、自死するように求められます。
これに対して伍子胥は次のように家族に言い遺します。「私の墓に木を植えよ。その木が王の棺となるだろう。私の眼をくり抜いて門に掲げよ。呉の終焉を見届けるだろう」
この遺言を聞いた王は激怒しますが、結局は越によって滅ばされ、伍子胥の正しさを証明することになりました。
伍子胥という人物は激情家です。そして同時に策謀家でもありました。
彼の復讐心と、それに支えられた思考は、ただ個人の命を奪うのではなく、相手の権威そのものを殺しました。
仇の命を奪ったのではなく、国を滅ぼしかけた原因を生み、死後に鞭打たれた愚王という永劫の不名誉を歴史に残させました。
ですが、彼の復讐心は彼自身を殺させる理由にもなりました。
業が深い、と評するのであれば、その業は底なしの深さでしょう。
しかしその業の深さを筆者は羨ましくも思います。少なくとも、その業の深さによって自身の人生を支配したのですから。
その一点において、伍子胥を人生に勝利した者と讃えたい、と思うのです。