大姫 ~見るべきは見たか~
大姫 属性:貴種 初恋 悲恋 薄幸
大姫とは、源頼朝と北条政子との間に生まれた娘であり、その長女とされています。
そもそも「大姫」とは長女といった意味の通称であり、現在でも本名が記された公的な文書は発見されていない(妹姫の名前から類推はされていますが)ため、この文章でも大姫の名前で通します。
さて、大姫という方は二十歳を迎えるか迎えないかで亡くなっていますが、その人生で大きな部分を占めていたのは或る男性との恋、そして死別でした。
その男性の名前は源義高。木曽義仲こと源義仲の長男にあたる人物です。
二人が出逢ったのは大姫が六歳、義高が十一歳ごろのことだと推定されています。
日本史をご存じであれば言うまでもありませんが、当時、二人の父親である源頼朝と木曽義仲は共に平家追討の兵を挙げていましたが、勢力としては分かれており、また緊張状態にありました。
同時に平家は京都より追放されされていましたが、依然として西国を拠点として軍勢を維持していて、源氏同士の争闘は平家を有利するだけでした。
よって緊張状態を解消し、軍事同盟を結ぶ手段として義高が表向きは婿として、実態は人質として頼朝の下に送られました。
なおこの段階で義高は元服していますので、当時の社会情勢としてはギリギリで成人相当とみなされる立場であり、結婚すること自体は可能な状態ではありました。
平安時代の末ともなれば女性の結婚の幼年化が進んでいましたが、流石に六歳の子供を実質的な妻として扱うとは考え辛く、また十一歳の少年が社会的な立場を全うできる筈もないので、あくまでママゴトのような夫婦関係であったと想像できます。
しかし義高が頼朝の下へ送られた翌年、木曽義仲は失脚して頼朝によって討たれることになります。
結果として義高の立場は極めて危ういものとなりました。人質としての価値がなくなった以上に、父親を殺された立場になった訳ですから。
身の危険を感じた義高は身代わりを立てて逃げることにしました。一説には大姫も協力したとも伝えられています。
ですが、それが裏目にでました。
逃げ出したのは父親の復讐を企てているからとされ、追手によって殺害。享年は十二歳で伝わっています。
その首は頼朝にまで届けられ、大姫もそれを目撃したためその場で失神し、さらには病に臥せるようになります。
俗説かもしれませんが、結果として娘を傷つけられる事態となった政子の怒りは凄まじく、追手であった武士を殺さしめ、その首を晒させたとも伝わっています。
その後、大姫は生涯に渡って表舞台に立つことはありませんでした。
一年の多くを床に臥せて過ごし、父である頼朝と顔を合わせることはなく。
父である頼朝が入内させようと行動したこともありましたが、それに対しては自死を決意するほど強く反発をして。
およそ二十歳は越えるか越えないかの年齢で世を去りました。
鎌倉市の常楽寺に大姫の墓と伝えられる塚が残っているそうです。
大姫の生涯の幸不幸を論じることは無意味だろうと筆者は考えています。
生涯をかけて愛せる人と出逢えたのは幸福でしょう。
その愛する人を死地に追いやったのは不幸でしょう。
ですが、その人を想い続けたまま世を去ったのは、果たして幸福なのか不幸なのか。
それは観る人によって変わってしまうでしょうから、ただ彼らが生きていたことを覚えていればよいのではないか、と思うのです。
さて、このエッセイの主題は大姫ですが、その父頼朝もまた創作的には興味深い人物像です。
特に源義高の殺害に関する精神や思考の動きは中々に特異なものではなかったか、と筆者は考えています。
忘れられがちではありますが、源頼朝という人物は武家による政治を始めた人物である一方、文化的には平安貴族に属しています。
平安時代末期には崩れつつありますが、婿の援助を妻の実家を行うという文化がありました。
実際の例として、頼朝が自身が(流人の身でありながら)北条政子と婚姻関係になることにより、監視役である北条氏を平家との戦争に引きずり込んでいます。
また、後年の事になりますが頼朝の息子で二代将軍である頼家が廃された時は、乳母の一族であり頼家の妻の出身でもある比企氏もまた滅ぼされています。
つまり源頼朝自身もその側近たる武士集団も、頼朝は婿である義高を庇護し援助すべき義務を有するという認識が、いわば時代背景としてあったものと考えられます。
一方で、実務家としての頼朝にとって義高は殺すべき存在であることは疑いようがありません。
弟義経を廃したことからも窺えるように、天皇という権威に対抗するために武家の権威を一本化する必要性があり、源氏の血統を主張できる義高は邪魔な存在でした。
また、頼朝による平家排撃の根拠の一つとして、父親の敵討ちという側面があったことは否定できません。
流石にそれだけを根拠としたとは考え辛いですが、ある種の大義名分として利用していたとは考えられます。
であるならば、同じく父を殺された義高にもまた、一定の大義名分が備わることとなります。
ここに頼朝は二律背反に陥ります。規範的には義高を庇護すべきであるが、実務的には義高を殺害すべきである。
更に言えば、後世における戦国時代のような人質の処分方法が一定に認識されている環境ではなかったことも殺害への抑止として働いたのではないでしょうか。
戦国時代ともなれば、同盟が反故になった相手は良くて送り返し、大抵はその場で切り捨てられるのが結末ですが、それらが一般の認識となるには先行する幾多の事例があったからです。
逆に言えば、頼朝による義高殺害が先例として後代の人質殺害の根拠の一つとなった、とも言えるかもしれません。
さて安易な殺害、つまりは規範の侵害は自身の権威に対する疑念となりうるため、可能な限り回避したい手段だったでしょう。
この状況を解決する方策は案外単純です。殺害する理由が消えることはない以上、庇護すべき存在でなくしてしまえば良い。
そのために自発的に逃げるよう状況を誘導した。自分の娘の動きも計算に入れて。
そう想像してしまうのは、源頼朝という人物への非礼に当たるのでしょうか。
だとしても、自らの娘をそこまで傷つけることは想定外だったのでしょうが、それでもあるいは、とも考えさせる業の深さを感じさせるのが源頼朝という人物であると筆者は考えています。