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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

吐き気

作者: nibesaku


 恋愛の延長線上にセックスがあるんじゃない。

 セックスのついでに恋愛があるんだ。


 そんな些細な事実を確かに理解したとき、私は思わず吐き気を催した。

 見てはいけないもの、理性が覆い隠していたものを見てしまった。そういったどうしようもない後悔が、洪水のごとく押し寄せてきた。


 本当にどうしようもなかった。

 私の汚らしい瞳に映るカップル全てが下半身に突き動かされて街中を跋扈しているのだと、自身の柔らかな心にジャクジャクと傷をつけていった。

 テレビに映る幸福を体現したような夫婦も元々は下半身に従った結果なのだと思えて、老夫婦もそうなのだと思えて、そして何より私の両親もご多分に漏れないことを理解して、世間が醜悪に歪められていった。

 当時の私には、潔癖症のきらいがあったようだ。

 恋愛に夢を見すぎだとか生娘じゃあるまいしだとか、後になって考えてみると非難の言葉が尽きないのだが、衝撃的事実に心を割られていった私にそこまで考えることのできる脳内の空きはなかった。


 ここまで嫌悪感を示すのも、その枠組みの中に入っていることの証明だというのに、ひどく滑稽なものだった。


 ともあれ当時の私である。

 そのときには全てのものが一様に汚らしいものに見えて仕方がなかった。漫画やアニメ、小説にはまっていた身にしては尚更である。

 そもそれらというのは、現実の臭い部分に蓋をして理想をそれなりに修飾することによって成り立っている。社会人の規則的で何も起こらない日常を描いたところで誰も手を取らないだろう。逆に非日常を描いた作品はそれだけ手に取られやすい傾向にある。理想が詰まっているからだ。

 悲哀、苦悩、嚇怒、歓喜、快感。

 葛藤に向き合う人々たちが数多にいる世界。

 だけど私はどうせという思いしか抱けなかった。


「どうせこのキャラも性欲には勝てないんだろうなあ」


 最初にそう思ったのはどの作品のことについてだったか。今ではもう覚えていないのだが、恋愛のジャンルに振り分けられるものだったことは確かだ。

 内容は初心でウブな男女二人の恋愛を描いたものだったと思う。

 この男女、幼少期に『将来結婚しようね』などと約束し合った仲である。しかし女の子の引越しが決まり、幼い二人の仲は裂かれることになる。

 時は少し進んで高校生。

 約束を未だ胸に抱えたまま入学するとそこには約束した相手が。しかしお互いにそうだとは気づかない。二人の行く末はいかに。

 うろ覚えの記憶を補完するならば、こういった風だろうか。


 この作品の肝はじれったい二人の関係だろうか。約束を守りたいというのにお互いは意識してしまう。一挙一動に視線が映ってしまう。

 しかし私にとって二人がウブであればあるほど、嫌悪感も一入だ。


 淡い恋心も、儚げな恋心であっても、どんな恋心であっても結局は性欲に還元される運命にある。どれだけ初心であっても一晩越えれば獣である。

 私はその事実を受け入れることができなかった。

 受け入れてしまったら自分が崩れるような気がして、だから私は恋愛ものを見なくなった。

 ただの馬鹿である。


 吐き気は日に日に増していった。

 先ほども書いたが、漫画やアニメ、小説にはまっていた身。娯楽のほとんどが性欲のために汚されて、私の逃げ場はなくなった。

 いや、なくなったというのは語弊があるかもしれない。

 逃げ場は確かに存在していた。だが当時の私にはそう認識できなかったのだ。部屋の片隅に何もするわけでもなく座り込み、テレビから流れる雑音を右から左に聞き流すという、非常に怠惰で無気力を促す逃げ場がそこにあるはずだったのに。

 そう認識できなかったのは、時折聞こえる無神経な笑い声のためか。


 何をするでもなく口を半開きにさせて、天井の木目に沿って視線を移していた。

 電灯がチカチカ、点灯と消滅を繰り返していた。ぐねぐねとねじ曲がった天井の模様も点滅のリズムに合わせて色の濃淡を変化させる。途端、木目模様が蠢いた。

 視界の中央を特異点にして渦を描き始める。奇妙な脱力感が私に襲いかかった。

 世界が歪みに歪んで、諦めと共にまぶたを下ろした。


 真っ暗だった。




■■■■■




『早く大人になりたいな~』


 意識が再び私の元に戻ったきっかけは、性欲のせの字も知らなそうな無邪気な声を聞いたことによるものだった。


 目を開いた。歪みはすでにそこにはなかった。

 テレビの方に首を動かした。

 教育番組の某だった。


 ありきたりな台詞をありきたりな表情で言っている子ども。それが最高に私をイラつかせた。お前は私の理想だっていうのに、なんでそんな不躾な願いを私に言うことができる。ふざけるな。

 私だってできるものなら子どものままでいたい。だけどそれだとこの社会で生きていけないから仕方なく成長して、針の筵になりながらも息をしているというのに。何なんだお前は。子どもは子どもらしく、今を精いっぱい謳歌して友達と一緒に遊んでいろよ。

 私が呪詛の言葉をどれだけ吐き続けていたとしても、笑う姿はどこまでも輝かしかった。

 悲しいことを知らずに生きてきた、そう思えてしまうほどに子どもは正直で楽しそうでわくわくしていて、どうしようもなく無神経で。

 保っていた精神の均衡はあっけなく崩れた。


 まずリモコンを投げた。黒塗りでボタンの多数ついていた長方形が、子どもの顔に寸分たがわず吸い込まれていった。

 子どもは屈託のない笑顔だった。

 次にコップを投げた。麦茶が底にたまっていたが構わずに投げた。コップが割れた、テレビが濡れた。画面に傷がついた。

 笑顔は崩れなかった。

 私は立ち上がった。周囲にものがなくて、投げるのに適した物品を見つけることができなかったから、私は自身の体を使った。

 テレビに突進した。

 どんがらがっしゃん。台の上にあったテレビは高い位置から低い位置へと。画面がひび割れ笑顔にもひびが入った。

 だけど笑顔はそのままだった。輝いていた。

 次に殴った。子どもを殴った。

 生々しい感触が私の右拳に刺さった。硬いものを柔らかいもので包んだような、そんな感触。違和感を感じたけれど私の右腕は止まらなかった。私の意思に関係なく、別の生き物であるかのように振る舞うそれは怖かったけれど、だけどもふるうたびに心に溜まっていたどす黒いものを吐き出してくれた。


 止まらなかった。止めることができなかった。いや、止めたくなかったのだと思う。

 弱者を虐げる快感を間違いなく私は味わっていた。引っ越し用の緩衝材を潰す快感だとか、ミシン目を切り離す快感だとか、そういった類のものでは断じてなかった。

 例えば、誰かが種をまき水をやり肥料をやり一生懸命に育てることでできた色彩豊かな花園を下敷きに泥まみれの体で寝転がったような。

 誰もがため息をつきたくなるような美麗な絵画を無茶苦茶な絵の具で上書きしてナイフでズタボロに切り裂いて悦に浸るような。

 清浄なものを堕とす快感。


 ふと気づけば、真っ赤だった。

 目に映るもの全てが真っ赤に染まっていた。右手が殊更赤かった。鉄っぽい臭いが辺りに漂っていた。赤い水滴がしたたり池をつくる中、純白のエナメル質で覆われた歯が転がっていた。それもまた赤かった。

 そこで私は、私が、本当に子どもを殴っていたことに気づいた。硬い骨を柔らかな皮膚で包んだような、そんな感触。

 子どもは瞳に恐怖や怯えを精一杯に詰め込んで、慈悲を乞うためのうるんだ視線を私に向けていた。下唇を噛んで泣くのをこらえている。その様子がひどく痛ましくて、痛ましくて。

 とってもかわいかった。


 左手を使った。立ち上がった。右足を使った。左足も。考えうる限りの暴力を。とってもかわいらしい子どもを愛してあげた。私の動きに反応するその姿がなおさら興奮を誘った。

 かわいい。とってもかわいい。

 私はその一念に突き動かされた。全身が真っ赤になっても構わなかった。むしろ望むところ、だってその方がかわいいあの子をいつまでも覚えていれそうな気がしたから。


 やがてか細い呼吸音だけが聞こえるようになって、飽きた。

 反応があったからかわいかったのだと、私はそこで悟った。

 両手を子どもの細い首筋に添えた。背中がぞくぞくしてきてこれまでの比ではない快感が私の全身を駆け巡った。それだけで軽くイッてしまったほどだ。

 これはフィナーレにふさわしいのではなかろうか。今までに感じたことのないほどの期待感を胸に力を込めた。


 反応は顕著だった。

 力を込めた途端、子どもは私の両手首を必死の表情で掴んで、拘束から逃れようとした。しかし力で私が負けようがないため、私の性的興奮をさらに高ぶらせる結果にしかならなかった。

 力を緩めた。子どもは息を一気に吐き出した。

 吐き出した瞬間をねらって力を込めた。

 驚きでくりくりした目をさらに大きく開く、なおかわいらしかった。もっと悶え苦しんで欲しくて両手の力を強くした。強くした。もっとかわいいを堪能したかった。


 やがて白目をむいた。その表情はひどく間抜けで、かわいくなかった。

 だから腹に肘打ちを喰らわせた。小さな体がビクンと跳ねて次いで小刻みに胸が上下、咳払いを繰り返した。咳と同時に吐き気も込み上げたようで、えづいていた。


 そうして幾度となく行為を繰り返した私は、快感の奔流に流されるままひたすらに自慰を続けていた。相手のことをこれっぽちも考えていない性行為。それはただの自慰だ。

 だけどこれだったのかもしれない、私の性行為というのは。

 妙な納得と共に、子どもの意識は暗闇へと、やがて完全に消え去った。

 物言わぬ瞳はここではないどこか、明後日の方向を見つめていた。その姿を眼中におさめた私はさらなる性的欲求を満たすために、死体を愛してあげた。

 とっても気持ちよかった。




■■■■■




 夢から覚めて最初に私に襲いかかって来たものは、心の底から際限なくあふれ出る自己嫌悪だった。生々しい感覚が未だ余韻として残っていた。

 トイレに急いで駆け込んだ私は便器に向かって大口を開けて、胃の内容物をゲーゲー吐こうと必死に食堂や喉を開こうとした。だけど、一向に吐けなかった。


 さっきまでの記憶を消してしまいたかった。子どもをこの手で殺しただなんて、あまつさえ自慰行為に利用しただなんて、吐き気と共に全てを水に流してしまいたかった。

 そこで私は、はたと気づく。


 目覚めてから、あれほど私を苦しめた吐き気が収まっていることに。


 自身の体によって突きつけられたその事実が、自己嫌悪の念をさらに深めることになった。あれほど性欲を忌避していたというのに、自分のそれの方が他人より下劣であったことに……何を思えばいいのだろうか? 何を考えれば、何をすれば、何かするべき……なのだろう、か?


 何もかもが分からなくなった。

 私はするべきことを見失った。理性で覆われていた醜悪な本能が顔をのぞかせた。

 下着が濡れていた。夢で見た子どもの苦悶する表情が思い浮かんだ。

 下腹部に手を伸ばした。

 どうしようもないほど、思わず涙が出てしまうほど、とっても気持ちよかった。






 私はあの時から変わってしまった。しかしそれは、私の生きる社会から見れば悪と断ぜられるほどに汚くて、醜くて、不潔で、狂気的なものである。

 だから私は、必死に演技を続けていた。


 吐き気がする。

 そうやって私は、なけなしの理性で本能を押さえつけているのである。


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