八話 「二人のメイド」
「待てって!」
褐色肌の少年との突発的な邂逅を経て、今現在、ミズキは少年との追いかけっこを興じていた。
「すいません、すいません」
おそらくこの世界の人間にはわからない文化だろうけれど、癖で手刀を切りながら人混みをかき分ける。夏が本格的に始まるからか、中央通りは小国から出稼ぎに来た商人でごった返していた。相手は背の小さな子ども、対してこちらは日本の男子高校生の平均身長より高い。いくら年齢のハンデがあっても、間をすり抜けていく少年との距離は縮まらない。
「諦めるしかないか」
ただでさえ一週間前に心臓発作を起こしたのだ。早歩きで追いかけていたが、どうも追いつきそうにもない。このままいけばジリ貧だ。
ミズキは足を止め、建物と建物の隙間に体を滑り込ませた。軽く息を整えて、ポケットから手紙を取り出す。謎の暗号が書かれた手紙だ。
「手がかりはこれだけだからな」
少年とミズキを繋いでいるのは手紙だけだ。これがなければミズキは少年の元へたどり着くことすらできない。聞かなければいけないことはたくさんあるというのに。
そんな風に少年の姿を完全に見失ったミズキに背後から声がかけられた。
「遅いのう」
しわがれた男性の声。今にも死んでしまいそうな、そんな声なのに知性を感じさせる不思議な声だ。杖をついた、腰の曲がった老人が話しかけているのだろうと思っていた。声に振り返るまでは。
「あっ」
振り返り、驚愕に声を上げる。ミズキの目の前に立っていたのは、口角をつり上げた褐色の少年だったのだから。
「遅い。じゃが、お前さんには可能性があるのう」
「何を……」
「来てもらうぞ。グルードの末裔よ」
声とともに、声の抵抗をする暇もなく視界が揺らめき始めた。上が下に右が左に、遠くが近くに近くが遠くに。いずれ三半規管が役割を果たせなくなった時、ミズキの体は舗装されていない地面に向かって傾いで——、
「何回も言うけど……グルードさんとは、関係、ないって……」
笑みを浮かべる少年に向かって捨て台詞のようにグルードとの無関係を嘆いて、ミズキの全てが暗闇に吸い込まれていった。明るさは遮断され、音も途絶え、感覚さえも奪われた世界でミズキは「無意識」で暗闇を舞っていた。
やがて聴覚だけが機能を取り戻し、音を取り込み始めた。無論、無意識は続いたままで思考は停止したままだ。
「ベリートス様。この方がグルード様の?」
「いや、どうだろうか……。そうなのか、そうではないのか……。私にはわからない……」
どこかで聞いたことのあるような女性の声としゃがれた声が、半分ほどしか覚醒していないミズキの鼓膜を震わせた。
「いつまでここに留まらせるおつもりですか?」
「そうだな……。今日までか、明日までか、明後日までか……。そうだな……今日までか……」
淑女、そんな言葉が似合う声だ。丁寧な言葉遣いと、優しげでいて聞き取りやすい話し方。だというのに答える声は、あくまで聞き取りづらく迂遠な話し方だ。
そんな二人の会話が遠ざかっていき、声が音としてミズキの耳に届くようになった時、同時に幾つものガラスコップが割れたような音が彼の聴覚を支配した。痛みが頭を駆け巡り、耳に残る甲高い音がミズキの嫌悪感を促していたが、
「起きてください。ベリートス様がミズキ様のお目覚めをお待ちになっています」
淑やかとしか形容できない呼び声が、ミズキの起床を促した。そこでやっと散らばっていた思考が集まり、形を作り、意識を現実に引き戻す。
「ここは……?」
ミズキはゆっくりと目を開け、眼球の可動範囲だけで辺りを見回した。暗褐色の木——それも加工された人工的なものではなく、自然的なもので構成された天井と壁が印象的だ。ところどころ木の皮が剥がれている部分があったり、変に飛び出ている部分があったり。まさに隠れ家という雰囲気で少年心をくすぐる。
そんなミズキに、少し遠くから丁重な言葉遣いの答えが返ってくる。
「ゴルッド・ベリートス様のお屋敷です。と言いましても、小さな家屋ですけれど」
さもゴルッド・ベリートスの名前を知っていることが当たり前かのような淑女の言葉を、ミズキは当然のごとく理解できなかった。異世界に来て一年が経っても「普通」がすれ違うのは、ミズキが「普通」を理解しようとしないからだろうか。
しかし淑女は慈しみ深かった。彼女はミズキが理解していないと感じ取るや否や、説明を付け加える。
「ゴルッド・ベリートス様は、アダント公国に住んでいた上級魔術師です。有名な方ではないので、知らないのも無理はありません」
上級魔術師と聞いて、ミズキはゴルッドの偉大さを知った。上級魔術師という言葉は一般常識というわけではない——だからこそ、誰もが知っている英雄グルードとは違って、ケンジードが教えてくれたのだけれど。
「いや、そもそもなんで上級魔術師の家にいるんだ? 確か俺は路地裏で……そうだ、あの生意気な子どもを追いかけてて……」
記憶がフラッシュバックする。最後の記憶は——少年の、嫌に年季の入った笑みだ。それから何があって見覚えのない天井を見上げているのか。
そこまで考えを巡らせて、ようやく自分が不自然な状況に置かれていることに気がついた。ベッドと呼ぶには簡易的すぎる椅子を二つ並べた寝床から這い出て、首の辺りまでかけられていた真っ白な布を跳ね除ける。整然と並べられていた椅子は雑然と床に転がり、ミズキがぶつかったせいで木目に沿って置かれていた長机が大きくずれてしまった。と同時に人の気配を感じる方向を振り返ると——、
「お久しぶりですね」
見覚えのある女性——頭部に意志を持った猫耳を生やして、幸の薄そうな顔立ちに似合ったメイド服を着た女性だ。
「あの時の……」
あれは確かアカリと出会った日だと、ミズキは目を瞑った。その日の客の一人に目の前の女性がいた。間違えるはずもない、猫耳は珍しくなくとも猫耳が生えた美人はそう多くはない。ミズキの記憶に色濃く残っている。
「どうも、クアラ——ベリートスといいます。どうぞお見知りおきを」
「ミズキといいます……。よろしくお願いします」
「はい。——それで上の名前は?」
世界から音が消えた。——正確には静寂が世界を支配したというべきか。ミズキにとってその質問は青天の霹靂だった。この世界においてミズキが苗字を聞かれたのは初めてのことだったからだ。
「あ、え、っと、アカサトミズキです」
「ミズキ様ですね」
クアラはミズキの名前を敬称付きで復唱して、恭しい態度で頭を下げた。三秒ほど経ってクアラは頭を上げ、アンティーク調の椅子と長机を元の位置に戻して「どうぞお座りください」と、ミズキに着席を促した。それに反抗する理由もなかったので、椅子に腰を下ろす。
「それではミズキ様に私たちについてお教えしなければなりませんね」
言いながら、クアラはミズキの向かいの位置にある席に座って、再び口を開いた。
「まずはこの世界がどこなのかということからでしょうか。それを説明しなければ話は始まりませんからね」
この世界がどこなのか。それはミズキが一番知っていることだ。魔法があったり亜人がいたりと、絵に描いたような異世界だ。むしろ、その世界の知り方はミズキしかできないと言えるだろう。しかし、クアラの言葉は二度目の青天の霹靂となるものだった。
「ここは——死後の世界です」
淡々とした物言いだった。まるで普通のことかのように。それこそ、この世界の人たちにとって魔法が当たり前であるように、クアラは死が当然のことであるかのように言い放ったのだ。——ミズキが死んでしまったと言うことを間接的に伝えているのに。
だが、彼女はミズキの複雑の表情を見て心境を察したのか、補足説明——もとい言い回しの訂正を口にした。
「いえ、その表現の仕方は少しだけ残酷かもしれません。正しくはベリートス様の精神世界と言うべきでしょう」
「精神世界?」
ミズキは暴れ馬のごとく拍動を続ける心臓に手を当て、やっとの思いで質問を投げつけた。死の恐怖というものは死ぬ直前だけに感じられるものではないらしい。
「はい。ベリートス様は有名ではありませんでした。それでも上級魔術師としては優秀だったんですよ。言うなれば魔法で作った世界、とでも言いましょうか」
理解は——できなかった。感情では理解しようとしていて、その直前まで達しているのに、十数年間培ってきた理屈が邪魔していた。
「気持ちの整理がつかないなら外をお歩きになってください。私の言っていることがわかると思いますよ」
「外……」
ミズキは首を右にひねって、赤々と育った花が飾られている出窓の向こう側の景色に視線を向けた。窓枠に囲まれた世界は、上半分は雲ひとつない青空に塗りつぶされ、下半分は風に揺られる雑草に覆われていた。
——おかしい。
そう感じた。草原というものはどこまでも続くものではない。どこかで道に区切られていたり、あるいは町として姿を変えていたり。だが、空だけは途切れることはないのだ。どこを見たって繋がっているはずなのに——、
「あそこがグルッドさんの世界の端っこってことか」
青色の空が白でも灰色でもなく、黒で途切れていた。いわば地平線に値するように、黒色が空を包んでいたのだ。無論、夜なんかではない。
「はい、そうです。——グルッド、ではなくゴルッド様ですが」
小さな間違いを指摘して、クアラはゆっくりと立ち上がった。その際に少し短すぎるスカートがはらりと舞い上がった。主人の趣味なのか、メイド服はところどころ女性らしさを強調する形で改造を施されていた。ただ、クアラは気にしていないようではあるけれど。
「ところでミズキ様」
クアラはスカートの端を細い手で押さえて、お手本のような笑顔を浮かべた。
「グルード様の逸話についてはご存知ですか?」
三度目の青天の霹靂——とはいかなかった。英雄グルードの逸話、それはミズキがゴルッドの世界に訪れる前に学んだ話であり、記憶に新しかったからだ。ただし、完全にアカリの受け売りで、どうやら絵本の引用のようではあるが。
「知ってますよ。たしか赤軍をいつの間にか追い払ったとかで……」
「——どうやら知らないようですね。これはますますミズキ様を元の世界に帰すわけにはいかなくなりました」
「え? 一応、一般常識的な答えだったんですけど……」
もしかするとアカリに嘘の情報をつかまされたのかと、不安になるが、あの時のアカリの語り口調からして嘘ではないことは確かだ。相当熱が入っていたようで、話が進むにつれて早口になっていたのだから。
「本当に知らない、と。これは私の手には負えませんね」
「それってどういうこ……」
「にゃっにゃーん!」
クアラの諦めたような表情の意味を問いただそうとしたミズキに、不意に後方からグーパンチが浴びせられた。と言ってもそこに悪意も痛みもなく、衝撃だけがミズキを襲った。
「どうもっ! ゴルッド様のお手伝いさんをしているノナちゃんですっ!」
衝撃が霧散する前に、亜麻色の短髪が特徴的な女性——ノナが元気よく自己紹介をした。ミズキの後頭部に放たれた拳を確かめるように開いたり閉じたりしている姿は、無邪気な少女と変わらない。
「ノナに教育係が任されたみたいだね、ミズキちゃん!」
「は、はぁ。よろしくお願いします」
思考の余地を与えずにノナはミズキに畳み掛け、挨拶を済ませたかと思うとクアラに耳打ちをして、ミズキの正面——クアラが座っていた椅子に腰を下ろした。
「まさかミズキちゃんがゴルッド様のお眼鏡に叶うとはねー」
長机に両ひじをついて、ノナは意味深に呟いた。お眼鏡に叶うもなにも、件のゴルッドに会ったことすらないのだけれど。しかし、そのことを訴える前に会話の主導権を握っているノナが話を進める。
「ところでミズキちゃんの不思議な力ってどうやって手に入れたの?」
「不思議な力……? ああ、手紙のことか」
質問内容を聞き返して、すぐに手紙をテレポートさせる能力について聞いているのだと気がついた。なぜ知っているのか、それは愚問だ。クアラが聞いていたから——否、クアラに聞き出されたことはミズキが一番知っている。
「どうやって、か。そうだな——」
異世界生活一年。ここにきて、転移について話す必要に迫られるとは思いもしなかった。今までも似たような状況に陥ったことはあった。その回数は少なくない。ただし、全て答えなくても構わないような状況と相手だったのだ。しかし、今は違う。
「ん? ノナの顔ににゃんかついてる? それとも恋しちゃった?」
ミズキはノナの顔をじっと見つめた。猫目と小さな鼻と口。それと起伏に富んでいるとはお世辞にも言えない体型が、少女感を演出している。しかし、それでもノナはれっきとしたゴルッドのメイド。そしてミズキがいる世界はゴルッドの作った世界だ。——水面下で命が人質に取られていることは明白だった。
「気がついたら、って答えだったら、どうだ?」
ノナの表情を伺うように、一節一節を区切りながらミズキは返答を絞り出した。少なくとも嘘は言っていない。ただ、気がつくまでの過程を説明していないだけで。問い質されても反論はできる。説明不足だった、と。
「そっかー。それはびっくりだね。ノナだったらひっくり返っちゃう」
ミズキの邪推は空振りに終わった。絶対に、何があっても、確実に、答えは認められないと思っていた。しかし、実際はその真逆。認められるどころか、冗談まで交えてきたのだ。予想外としか言いようがなかった。——そして次の質問も。
「それならもう片方の不思議な力は?」
「——っ」
ミズキは驚きのあまり声に詰まり、ノナの意地の悪そうな笑顔を睨みつけるが、どうもカマをかけているわけではない。まるでそのことを知っているかのような、そんな表情だった。
「なんでわかったのか、みたいな顔してるね。ま、理由はいろいろあるんだけど、一番はノナの鼻がいいからかにゃー」
理由になっていないことについてはあえて触れずに、ミズキは今までの自分の行動と言動を思い返す。悟られるようなことはしていないか、失言はしていないか。ゴルッドの世界に来てから——それどころか異世界に来てからの自分を振り返っても、その二つは見当たらなかった。
——ミズキが文字の思念を読み取れることなど、ノナが知る由もないのだ。
「大丈夫大丈夫、それ以上は聞かにゃいから。ノナにだって言いたくにゃいことの一つや二つくらいあるからね」
ミズキの歪んだ表情を見て心境を察したのか、ノナは軽くフォローを入れて椅子から立ち上がった。
「——それじゃあ用は済んだね。帰してあげる」
「え?」
ノナの可愛らしい笑顔を見たのを最後にミズキの視界は暗転した。まるで世界から光を奪ったかのように。続いて、爆音が耳元で鳴り響く。大量のガラスを割ったような音——目を覚ます時にも聞いた音だ。
「ノナたちのことを覚えてられるとちょっと困るから記憶は消すね。でも、大丈夫だよ。にゃにかあったらノナが助けに行くから——って言っても忘れちゃうか」
自分を見失い始めたミズキに、淡々と説明するノナの声音はどこか冷淡だった。
体が傾いていくのがわかる。意識と肉体が離れていく感覚だけが鮮明にミズキを取り巻く。意識はより暗いほうへ、暗いほうへと進んでいって、
——あ。
何かを奪われたような感覚を最後に、ミズキの意識は肉体と乖離した。