無音の会話
「なあ、最近の人間って周りに流されて生きているように感じないか?」
と蛍光灯の明かりの下でいつものように淡々とした口調で須賀先輩が呟いた。
僕もまたいつものようにそんな須賀先輩の格言めいた言葉に耳を傾けながら大きく欠伸をして頷いた。
「・・・ふあ、ええ、そうかもしれません。けどそんな話をする前にこの山のように溜まった課題を今日中に片付けないと確実に単位がもらえませんよ。先輩、分かってます?」
二人が吸った数十本分の煙草の白い煙に染まり、埃が舞った狭い部室に何時間も閉じ込められて何とか仕上げてきた課題を横目に見ながら僕は言う。吸っていた煙草を灰皿に置くと、何枚にも渡るレポート用紙や分厚い参考書、有名著者の文献などが僕の視線の隅に映り、今までの徒労が脳裏に蘇ってくる。
「分かっていないね。お前さ、こんなもんが将来何の役に立つと思ってるんだ?昔のお偉いさんの著作をどれだけ読んだって結局俺たちはサラリーマンになって社会の歯車になって生きていくしかないんだぞ?」
須賀先輩は古いパイプ椅子に踏ん反り返って偉そうに言うと、煙草を取り出してライターで火を点けると、肺一杯に吸い込んだ。ぎしっと所々が錆びた椅子が先輩の重い体重に悲鳴を上げて軋んだ。
「そうは言っても今僕らにできることなんて教授から出された課題をやることしかないでしょう?何の役に立つとかそういうのを考え出しても答えなんか出てこないっすよ。頭が疲れるだけです」
僕も先輩と同じように吸いかけの煙草を灰皿から口に戻して煙を吸う。紫煙がただでさえ白く淀んだ空気を二人分の新しい煙で更に白く染め上げていく。
須賀先輩は煙草を半分くらい吸うと怪訝な顔をし、黒い灰皿に煙草を押し当て、ふんっとそっぽを向いてシャープペンシルを机に放り出した。そして、開いていた分厚い教本を閉じ、手提げ鞄にレポート類を詰め込み始めた。
「どうしたんです?」
「どうせもう間に合わん。俺は家に帰ってゆっくり寝ることにする。お前はまだ無駄な足掻きを続けるのか?」
僕は一度ふうと溜息と一緒に煙を吐いて先輩の顔を一度じっと見た。
「どうするんだ?」
帰りたいですが、何かそうするのもアホらしいのでここで寝ていくことにしますという本音をぐっと堪えて僕は応えた。
「まあ、もう少し頑張りますよ。間に合わなかったらそのときです」
そうかと一言呟くと先輩はじゃあお疲れと言って僕を振り返らずに右手を挙げ、木製の古い横引きのドアを開けて夜の闇に溶けていった。
僕はそれを見送ると、もう一度深い溜息を吐き、左手の煙草の火を消すと、右手のシャーペンをさっきの先輩のようにレポートの上に放り出し、散らかった机に突っ伏した。
現在九月十九日午前一時十六分二十二秒。
白い雪色の折り畳み式携帯電話を開いて、日付と時間を横目で確認する。
あと七時間と十四分三十秒ちょっとで大学二年生の夏休みが終わりを告げる。
ぼうっとした頭で今年の夏休みを思い浮かべてみる。
思い浮かべようと努力してみるが如何せん、何かこれといった思い出は頭に浮かんで来ない。友達と遊んだとか部活で大学に出て来たとかそんな当たり前で普通の出来事しか今年の夏休みには無かった。せいぜい煙草の消費量が増えただけだ。
つまらないとは思わない。けれど胸を張って楽しかったとも言えない。
まるで僕の人生そのものだなという自虐的な結論に至り、僕はゆっくりと目を瞑ると両手で枕を作って突っ伏した。先輩にはああ言ったが僕ももう今夜は寝ることにする。どうせもう間に合わないのだ。ならば徹夜明けのぼんやりとした頭で教授に小言を言われるより、ゆっくりと一眠りしてから説教をくらった方がいい。
そこまで考えると僕の思考は闇に飲み込まれるように甘い夢の中へと沈んでいった。
――――――――重い振動音と軽い着信音で僕は苦い現実世界に引き戻された。
誰だよ、こんな時間にとまだ目覚めてもいない頭で思考しながらまるで習慣のようにずるずると手が携帯電話に伸びていく。僕はこの機械に起こされるのがあまり好きではないので、腕で圧迫されていた右眼の視力がまだ戻っていない状態で携帯を開くと半眼で画面を睨み付ける。
『Eメール 一件』という何の飾りも無い事務的な情報が画面に表示されている。
僕は素早く決定のボタンを押すと、安らかな眠りを妨げた人物の名前を確認するためにメールを開いた。
予想に反して、知らないアドレスからのメールだった。
てっきり須賀先輩のような部活の友達やゼミの友人、はたまた両親からだろうと思ったのだが違うようだ。
何者だろうかと再度アドレスを凝視するが、やはり知らないアドレスだった。
何故だか僕はそのアドレスを見て未知の期待と軽い不安をおぼえた。
自分が会ったことも無い知らない人間とこんな小さな機械で今繋がっている。
そう考えると何だかただのメール一つがすごく大切で尊いものであるかのような気持ちになった。
実際それは真実なのかもしれない。普段は煩わしいと思う友人からのメールでさえ僕たちがそのありがたみを忘れているだけで実は非常に稀有な体験を僕たちはしてきたのではないのだろうか。
僕はそこまで差出人不明のメールに関して深く考えて、その内容を読み始めた。
『このメールを読んだ貴方。どうかお願いです。どれだけでもいい。貴方が大切だと想える人にこのお話を送ってあげて下さい。少しでも多くの人に彼の痛みを伝えて上げて下さい。そして、このメールを読んで少しでも貴方の大切な人や貴方自身が健康で楽しく生活できたならそれだけで送り主である私がこのチェーンメールを作った意味があったと思います。では、話を始めます』
メールの冒頭はこのように始まっていた。僕は携帯の画面をスクロールさせるとそのメールを読み進めた。
『―――――この話は実際に私の友人に突然起こった出来事の一部始終です。
私は一企業に勤める25歳のサラリーマンです。私にはAという中学からの友人がいます。彼は私と出会ったときからとても歌の上手い好青年で、学校の音楽祭の合唱でも、友達で集まって行くカラオケでも、こう言うのは言い過ぎかもしれませんがアイドル並みの歌唱力でした。実際にそれくらい彼の歌は人を魅了する魅力もあったし、それほどまでに上手かったのです。何より声が綺麗でした。澄み渡るようでそれでいてしっかりと重みがあり、心に染みるような・・・・・、言葉に表すと陳腐に聞こえるかも知れませんが、本当にそのくらい美しい声で魅力的な歌を歌える人だったのです。けれど、私達はもう二度とその彼の歌を聴くことが叶いません。こう書くと誤解を招きそうなので先に言っておきますが、別にAが亡くなったとか、行方不明になったということではありません。Aは今でも私の友人として付き合ってくれていますし、意識が無くなっているということもありません。
ただ、つい数ヶ月前にAは声を永遠に失いました・・・・・・・。
声帯を切除したのです。どれだけ願おうとももう彼は自分の声を出すことはできません。あれだけ美しかった彼の歌はもう金輪際聴くことはできないのです。何故声帯を切除しなければならなかったのかと言うとこれは誰にでも有り得る話です。特に一部の人たちには明日にでも起こる話かもしれません。
原因は喫煙による咽頭部の極度の炎症でした。煙草の吸いすぎが原因なのです。Fは大学の頃から同じ部活の先輩に誘われて喫煙者になったのですが、イライラすると灰皿がすぐ一杯になるくらいに煙草を吸ってしまうヘビースモーカーでした。身におぼえのある人もあると思いますし、身近にそういう人がいるという人も多いと思います。かく言う私もAがこんなことになるまではAほどヘビースモーカーではありませんでしたが喫煙者でした。けれど、Aが声帯の切除の手術を受けた日から私は一本も煙草を吸っていません。しっかりした考えで止めたわけではありません。ただ、情けない話なのですが、私はAのようになるのが怖いのです。自分が心の弱い人間だということをこのときほど実感したことはありません。友人がこんなことになってしまった今でもイライラすると煙草を吸いたくなる自分を私は非常に情けなく思います・・・・・。
手術が終わってからAは会社を辞めざるを得ませんでした。彼の会社は商品の訪問販売の仕事を扱っており、Aは外回りの派遣員の一人でした。会話をすることでお客さんとの交渉を行う仕事なのですから、声が出なければその仕事が出来ないというのは言うまでもありません。声と同時に、職を失ったAに私はかける言葉が思い浮かびませんでした。同時に鳥肌が立つくらい自分自身も恐怖を覚えました。私がAのようになっていても何ら不思議はなかったからです。ただ茫然自失としたAを前にして立ち尽くすことしか私にはできませんでした。
しばらくして私とAは何度か筆談やメールでのやり取りを交わしました。最初のうち、Aがボールペンを持ちながら泣いているところを私は何度も見なければなりませんでした。私自身も泣けてきて、Aから逃げるように病室を後にしたことも、Aからのメールから目を背けたことも、一度や二度ではありません。Aが自分のこれからを考えて涙を零しているのを見るのは私にとってあまりにも辛い光景でした。病室でのAと私との会話を想像できるでしょうか?無音の会話です。音も立てずにただ静かに二人のペンを紙に滑らせる音だけが響いていました。その静かな時間はAの悲しみや後悔を暗示しているようで、私には無念でなりませんでした。メールも同じです。確かに最近では絵文字や顔文字といった感情を表す文字もあります。でも、声から伺える感情とは全く違います。声がどれだけ喜怒哀楽に富んだものかを私は思い知らされました。ほんの少しの感情の機微を私たちは声を聞くことで察しているのだということを私はAと無音で話すうちに悟ったのです。私がこれだけ辛かった無音の会話がどれだけAには辛かったのだろうかと考えると私は胸が張り裂けそうな気持ちになります。
一体何がいけなかったのでしょうか?A自身が一番悪いことは彼にも私にもよく分かっています。しかし、Aも私も周りの人間にもこんなことになる前に考える時間もやれることもあったはずなのです。それなのに何もやらなかったのは明確に私たちの罪であるように思います・・・・・。
私からは口が裂けても煙草を吸うなとは言えません。煙草によってストレスを軽減している方もいますし、大学や会社の付き合いで飲み会に行ったときなどは吸っていないと何だか自分が取り残されてしまったような気持ちになるのは私自身がそうだったので重々分かるつもりでいます。けれど、煙草には意識するにせよしないにせよ身体には悪影響を及ぼします。酷い場合にはAのように声を失うことや、肺の病気が発症してしまうことも決して少なくはありません。そのことをどうかもう一度よく考慮してみて下さい。貴方の身体が蝕まれれば、周りの人は私のように悲しむ人が出てくるでしょうし、何より自分の人生に大きな障害を残すことにも繋がります。
この話を聞いてくれた貴方の中に何らかの考えや思いがほんの少しでも浮かんできていて欲しいと思います。周りに流されるのではなく、自分の考えで行っていることならばきっとAや私のように後悔はしないと思います。もう一度自分や周りの人についてよく考えるきっかけになればと思ってこのメールを私は送ります。
画面の向こうの貴方へ。貴方の人生が貴方の満足できる生き方になりますよう心から応援しています。
私の無音の話にここまで付き合って下さってありがとうございました。
どうか、自分の一度きりしかない人生を大切に―――――――。』
そこでメールは終わっていた。
しばらく何も考えずに携帯の画面を眺めて、僕は視線を机の上の煙草に向ける。僕は今年の五月頃から喫煙者になった。僕の誕生日は四月だったので、部活の飲み会のときに須賀先輩が煙草を薦めてきたのをもう未成年ではないからいいだろうという軽い考えでそのときに最初の煙草を吸ったのだ。
最初は頭がクラクラするだけで何のメリットもないように思えて特にもう一度吸おうとも思わなかった。けれど、そのうち部室で先輩が吸うのを見て、その度にもらい煙草をしていて、何だか煙草も悪くないように思えて、自分で購入するようになった。それから僕が煙草を常用するようになるまでそう大して時間はかからなかった。テストの後や部活の後、寝る前や食事の後などの煙草の煙に染まったときの喫煙者にしか分からない一種の快感のような脱力感に僕はすぐに虜にされてしまっていた。
別に何か特別な理由があったわけじゃない。ただ煙草の煙に染まる自分にある意味陶酔していて、流されてばかりいる自分を煙に巻こうとしてただ煙草に逃げていただけだ。
僕は携帯を閉じると、新しい煙草に火を着けた。喉を通して肺一杯に吸い込み、ゆっくりと吐く。
確かに身体に悪いことは承知している。けど、そんなのは若いうちに考えることじゃない。いつか声を失っても、肺の病気にかかったとしても、それは何十年も先のことだ。
僕はそう考えていた。僕に煙草を教えた須賀先輩だってそう思っているに違いない。なのに、このメールの最初の送信者の友達のAさんは若くして永遠に声を失った・・・・・。
いつの間にか煙草が半分くらいまで灰に変わっていた。僕はゆっくりと灰皿に煙草を押し付けるとまだ煙の昇っている煙草を見つめた。
いつかは特に決めていないけど、いつか煙草は止めようと思っていた。
それはいつなのだろうと僕は自問自答する。
大学が終わるまで?会社に入るまで?医者から止められるまで?それとも声を失ったときにようやく止めるのか?
そこまで考えると急激に僕は怖くなった。声を失うなんて考えたこともなかった。そんなことがあるのをこのメールで初めて知った。煙草がそんな怖いものだということを知らなかったのだ。
Aさんも同じだったように思う。自分が声を出せなくなるまで知らなかったのだろう。だから、泣くほどに後悔しているのだ。
僕はもう一度煙草の箱を見た。僕は今吸うのを止めて二度と吸わないと誓えるだろうか?須賀先輩に薦められて断れるか?寝る前やテストの後に味わえるあの何とも形容し難い快楽のような脱力感に浸るのを我慢できるのか?
そう考えると止めるのが凄く億劫で止める理由が霞むような気がした。
それでもこのメールを読んだ今、僕はこの先の人生を筆話だけの無音の会話で生きていく勇気も自信も無かった。
須賀先輩ならメール一つで流されるなよと言いそうだが、僕の心は間違いなく石を投げ入れられた水面のようにゆらゆらと揺れ動いていた。
僕は随分と長い間煙草の箱を睨むように眺め続けていた。それは数秒のことかもしれなかったし、何分も経っていたのかもしれなかった。
―――――――僕はゆっくりと煙草の箱に手を伸ばすと、両手でグシャグシャに煙草の箱を丸め、両手で再び枕を作るとそのまま元のように机に突っ伏した。そうして、携帯を開くと送信者不明のメールを消去し、そのまま瞼を閉じた。