夜の力。
その本が読み終わってしまうと僕は、なんだかとても悲しい気持ちになった。
枕元にある時計に目をやる。
1時32分。
無機質なデジタル時計とその数字が、余計に僕の心を悲しくさせる。
「さっさと眠ってしまおう」と僕は思い、部屋の電気を消した。
静寂と暗闇が僕の体を包み込む。
僕の身体を包み込んだ驚くほどの静寂は、頭の中にあるノイズをさらに引き立たせ、すべての光を拒んだ暗闇はまた、無限の世界を感じさせた。
僕をいっそう悲しい気持ちになった。
夜。
夜とはそういったものだ。
夜はゆっくりと僕の体の中へ溶けてゆき、まるでタマネギの皮でも剥くかのように、僕の心を一枚一枚と剥いてゆく。
さっきまで読んでいた物語も、部屋の隅に溜まっていた洗濯物の事も、僕の心にある余計なものはすべて剥ぎ取られる。
そしてふと、僕がそんな夜の存在に気がついたとき、月明かりはまるでスポットライトのように、裸にされた僕の心を照らし出すのだ。
その光景はどこまでも純真無垢で弱弱しく、美しく、そしてまた果てしなく悲しい。
どんなに強い人間も悪い人間も、夜には敵わない。
それが夜の力なのだ。
たまらなくなって僕は目を明けた。
相変わらず無限の暗闇が部屋の中を支配し、静寂の中に響き渡る大きなノイズは鳴り止まなかったが、さっきとは何かが違っている。
「誰かがいる?」と僕は思った。
何も見えない暗闇の中に僕は、女の子の気配を感じ取ることができた。
色の白い、すっとした女の子がにこやかに佇んでいる。
暗闇に支配された世界の中で、その女の子の姿を確認することはできないが僕にはそれが--何故だか--わかった。
「どこから入ってきたんだい?」と僕は訊ねた。
「ふふふっ」と彼女は小さく声に出して笑った。
それは静寂の中にあるノイズの奥で、頭に直接響いてくるようなクリアで澄み切った声だった。
「あなたはリョクチャみたい。」と彼女は言った。
「緑茶?」
「そう緑茶。」
「それはトレンディじゃないね。」
「そうトレンディじゃない。」
「少し渋いかな?」
「少しね。」
「そして少し甘くもある?」
「それも少し。」
暗闇の中で、1人暮らしの僕の部屋に知らない女の子がいて、僕はその子とナゾかけのようなな会話をしている。
それでも僕は不快に感じることはなかったし、怖いとも思わなかった。
それよりもなんだか不思議な気分だった。
「つまり……」と僕は言った。
「僕は少しだけ渋くて少しだけ甘くて、飾り気もかっこよさも持ち合わせてはいないけれど、どこにも自然に溶け込める、そんな理解でいいかな?」
「そう。」と彼女は頷いた。
「そして何より、僕はトレンディじゃない。」
「そう。」彼女はさっきよりも少し楽しそうに答えた。
「でもとても落ち着くよ?」と彼女は付け足してくれた。
「じゃぁ君みたいに若い子達には人気がないね、コカ・コーラやオレンジジュースのような華やかさがまったくない。」
「かもね。」彼女は少し考えてから、正直にそう答えた。
「ビールやワインやウイスキーのように、大人たちに歓迎される事もないよね。」
「かもね。」彼女はどこまでも正直だった。
僕はとてもいい気分だった。
「でもアタシは好きよ。」やや間があって彼女はそういった。
「緑茶がかい?」僕は聞き返した。
「緑茶もあなたも。」と答えて彼女は無邪気に笑った。
僕も笑った。
「おやすみなさい」と彼女が言って、僕も「おやすみ」と答えると辺りはまた元の暗闇へと戻った。
女の子はどこにもいなくなっていた。
それでも、静寂の中にあったあのノイズは消え、暗闇は僕の部屋のサイズと同じになって収まっていた。
裸にされていた僕の心はいつの間にかきれいに元通りになっていて、さらに言えば「おやすみなさい」という女の子の言葉がそんな心を優しく包んでくれている気がした。
僕はそのままぐっすりと眠りについて、そしてまた夜も静かに消えていった。