タイムトリック・パニック 8
人間とは慣れるものである。この異常な状況に慣れてきている私がいる。
だから忘れていたのだ。
「30歳の私」が置かれている状況というものを。
ゆったりと須佐くんと家で過ごしていた土曜日。突然インターホンが鳴った。ここにきてから初めての訪問にびくっとしてしまう。
そんな私の反応を見て、須佐くんは「玄関で対応するから心配するな」と告げてモニターを見に行く。
と思ったら険しい顔で振り返った。
「やばい。台風が来るぞ」
「え?」
「いいか、なにを言われても気にするなしゃべるな。必要なことは全部俺が話すから、ただ黙っているんだぞ」
「え、ちょ、どういうこと」
「時間がない、詳しいことは後で話す」
ロック解除のボタンを押して、玄関へと向かった須佐くん。その様子がいつもと違う。いつもはもっと余裕があって何事にも動じない雰囲気を漂わせているのに、いまは焦りを感じる。
ばたばたと足音がしてリビングに入ってきたのは、50代くらいのおばさまだった。
突然の来客に驚いてしまう。
「こ、こんにちは」
「お久しぶりね。佳奈さん」
まずい、私この方だれか全然分からないんですけど。
とりあえず来客にはお茶、ということでそそくさとキッチンに逃げ込む。お茶の準備をしながら、聞き耳を立ててみる。
「なんで突然来るんだよ、電話の一本も入れるのが常識だろう」
「近くにきたから寄ったまで。それともなに、来てはいけない理由でもあるの?」
「そういうところが迷惑っていつも言っている」
「まあ親に向かってなんていう言葉!」
親!須佐くんの母親ってことか!
「母さん」
須佐くんは私に背中を向けているけど呆れたようにため息をついているのがわかった。
「息子の顔を見に来てなにが悪いの」
「悪いわけではないが、タイミングってもんがあるだろう…」
たしかにいまのタイミングで来られても大いに困る。須佐くんの母親のデーターは全く入っていないのだから。
「この前のお盆のときも顔を見せないでいったいなにをしているの」
「年末は行ってるからいいじゃねえか」
はあ、と大きく息を吐いて片手で頭を押さえている。
「薄情者ね」
「どっちがだよ。さんざん佳奈との結婚に反対しやがって、縁切るって言ったら態度を一遍させやがって」
な、なんだと。私と結婚ができなかったら縁を切るつもりだったのか。それって世に言う駆け落ち寸前じゃないか。えらいことになっている。
お茶を入れる手が震えてしまう。
「縁を切るなんて許すはずがないでしょう。どうしてもというからこっちが折れたのよ」
「その上から目線が感に障るんだよ」
「ま、あいかわらず口が悪いわね。だれに似たのかしら」
「腹黒さは母親譲りだろうよ」
「翔太!」
須佐くんとお母さまの周りだけ何度か下がっていると思う。ひんやりと言うよりも凍えそうだ。
お盆にお茶を乗せてゆっくり運ぶ。できればあまり近づきたくない。お茶を置いてさっさと退散しよう。
「どうぞお茶です」
「ねえ佳奈さん」
「は、はい?」
「まだなの?」
「なにがですか?」
「いったいいつになったら孫の顔を見られるのかしら」
「え」
「母さん!」
孫?
ぽかんとしている私を見てなおも続けるお母さま。
「こどもよこども。結婚して三年、もういいころじゃないの?遅いくらいだわ」
強い口調で言い切られて言葉が出てこない。
強いマイナスの感情をぶつけられたことが無くて、その衝撃をそらすこともできず真正面から受け止めることになった。心を揺さぶられる。
「その話はもうしただろ」
須佐くんが割って入ってくる。
「いいえ、まだ終わっていません」
「この話は俺と佳奈の問題だ。母さんには関係ない」
「関係がないとはどういうことですか。関係あるに決まっています。将来うちの会社を継ぐ子なんですから」
こども…。
そうか私と須佐くんは「夫婦」なんだ。
あたりまえといったらあたりまえのことだけど、いまの私には頭になかった。そういえばここ数日の生活で須佐くんとの間にはこどもはいなそうだ。
「そういう考えが古いって前から言ってるだろ。俺たちには俺たちの考えってもんがあんだよ」
「まあそれではその考えを聞かせてもらおうかしら」
「……」
とりあえずこれ以上巻き込まれないためにもキッチンへ避難しよう。
「…わかりました。今日はこれで帰ります」
ほっとしたのは私だけではないはず。
お母さまを玄関まで見送って、一気に疲れが来た。
「……本当に台風だったね」
「……だろ」
お互い無言になる。
お母さまが言われたことが頭をよぎる。こども。はやく孫の顔が見たい。こども、ね…。
お茶を入れなおして、ソファでぐったりしている須佐くんの前に置く。
訊きたいことはたくさんあるけど、なにから話していいかわからない。
「…ねえ出会ったときの私ってどういうひとだったの」
「……そうだな。隙を見せたら負けってガチガチに武装してたな」
「どういうこと?」
須佐くんの言葉からではイメージができない。
「両親亡くして頼れるのは自分だけだって思ってたんだろ。だからだれにも頼らず生きていく術を身につけてたんだろな」
「ふーん」
確かに両親がいなくなったら、誰にも頼れるはずがない。親戚にお世話になるような歳でもなかっただろう。少し早くひとり立ちしたと考えると納得がいく。
思い出したかのようにくくっと須佐くんは笑った。
「一枚一枚その武装した鎧が外されていくさまを見るのは楽しかったな」
「なにそれ」
なんだかその言い方だと引っ掛かりを感じるのは私だけだろうか。
「ふ、いまのお前は隙だらけだな」
「なっ、失礼な!」
まるでおばかさん扱いされているような気がしたので叫んでしまった。
15歳と30歳だ。倍の人生を生きているんだから、私の手の内なんてお見通しなんだろう。
それにしても腹が立つ。ぷりぷり怒っていたら「そう怒るなって、褒めてんだぞ」と言われた。その口元がまだ笑っているところから素直に受け取ることはできない。褒めているならそれなりの言葉を選んで欲しい。あと態度も。
「褒めてくれたのってこのあいだの同窓会で会った伊藤くんぐらいだし」
どうせ褒めるところもないような平凡な人間ですよ。
「はぁ?なんでそこに伊藤がでてくるんだ」
「きれいになったって褒めてくれたの」
ふふん、胸をそらせて自慢をしたら、須佐くんは機嫌が悪そうな顔になった。
あ。それとも15歳の私は全然いけてなくて、25歳でようやく人並みになったってことかもしれない。そう思うと気分が沈む。
自慢なんてするんじゃなかった。平凡が売りの私だった。
「すみません調子に乗りすぎました」
謝ってみるが、須佐くんは不機嫌な顔のままだった。
…須佐くんみたいなイケメンで常に賞賛を浴びているひとにはわからないだろう。平凡な私が褒められたらどれだけ嬉しいかということを。
分かるわけないんだ。
そう思ったら急に気持ちが風船がしぼむように小さくなってしまった。