タイムトリック・パニック 5
「今日は仕事に行って来るから」
須佐くんはスーツに着替えネクタイを締めながらそう言った。
「…うん」
ひとりきりになるのは心細い。でもわがまま言える立場じゃないことぐらいわきまえている。
「外に出てみるか?」
「ううん、家の中でゆっくりしている。昨日食べ物たくさん買ったし、なんとかなると思う」
「なにかあったら電話しろ」
会議中以外は出られるからと、須佐くんは電話の横にあったメモ用紙をやぶって数字を書き込んでいる。
「…うん」
数字が羅列されたメモを渡されて、須佐くんを見上げる。
「行ってくる」
玄関まで見送ってリビングへと戻った。
ぽてんとソファに身を任せる。見上げた白い天井。
考えなければならないことはいくつもある。でもどこから手をつけていいかわからなかった。天井に向かって伸ばした手。左の薬指には指輪がはめてある。
なぜ私はタイムスリップをしてしまったのだろうか。いや、認めたくないけど15年分の記憶がないのだろう。15年後の私にそれだけの衝撃があったんだろうか。
でも目を覚ましたときどこかから落ちたような感じではなかった。どこも痛くなかった。ソファに寝ていたところをみても、午後のうたた寝をしていたといった様子だった。
記憶を失うというのは相当な衝撃が必要な気がする。それこそ階段から落ちる、とか。ドラマや漫画では事故に遭うとかそういうできごとが起こっている。
それにあの浮遊感を鮮明に覚えているのだ。あれが15年前のこととは信じがたい。
ひとしきり頭をフル回転してみたが、どんなにがんばっても思い出せそうもなかった。やはり中身だけタイムスリップしたとしか考えられない。
須佐くんに渡された、私の「携帯電話」を眺める。
お父さんやお母さんが持っていた形とはだいぶ違う。たしか二つ折りでぱかぱか開くような形だったはずだ。渡された携帯は薄くて平たくてまるで板チョコのような形をしている。使い方もさっぱり分からなかった。勝手にいじって壊したら困るので、とても手を伸ばそうとは思わなかった。
記憶喪失と言ってもいろいろな種類があるらしい。一般生活のことは覚えていて特定の記憶だけ無いものや、一定の年齢や時期までのことしか覚えていないとか。
私の場合生活すべてにおいて記憶が無い。
この携帯電話だってそうだし、テレビだってそうだ。私の知っているものとはだいぶ様変わりしている。他に変わったものはあるのだろうか。
須佐くんはこの家の中のものは好きなように使っていいと言っていた。とりあえず喉が渇いたので水を飲むことにする。キッチンへと移動してコップを手に蛇口をひねる。水を一杯飲み終わったところで冷蔵庫が目に入る。昨日須佐くんと大量に食材を買ってきた。昼はあるもので十分そうだ。
と冷蔵庫にチラシのようなものが磁石でとめられていた。ふと気になって磁石を外して手に取った。
『レーシック手術』
手術という言葉にどきりとしてしまった。これまで健康に育った私は手術とは縁の無い生活を送ってきたのだ。
だけれどもチラシを読み進めるうちにこれは、と手が震えてきた。手術で視力が戻る。もしかしてこの手術を受けたのかもしれない。そうするとメガネが無く、かつよくものが見えるこの状態が納得できる。チラシを裏返すと電話番号のところに赤くまるが付いていた。きっと手術を受けたに違いない。
ひとつ、「30歳の私」について知った。あとはなにがあるだろう。
キッチンはきれいに片付けてある。引き戸を開けると鍋やフライパンが並んでいる。
二人分の調理道具にしては揃っている気がする。私は料理できないし、須佐くんは料理が趣味なのだろうか。
引き戸を閉めて立ち上げる。ふと違和感があった。コンロがない。コンロがあるであろう場所はフラットになっていて、まるが二つかかれている。これがコンロ?どうやったら火がつくのだろう。上から見ても横から眺めてみてもさっぱり分からない。
振り返れば電子レンジがあってほっとした。電子レンジは変わっていない。温めができればなんとでもなる。でもよくみたらオーブンレンジだった。ここにも須佐くんの料理好きが見え隠れしている。
「それにしても」
なんだかひとつひとつのものが値の張りそうなものばかりのような気がする。須佐くんの趣味かな。私の家では100均商品や価格の安いものばかり選んでいたけど。現実的だ。
はたと気づく。
「そういえば須佐くんはなんでマンションなんかに住んでいるんだろう」
噂によるとたしか須佐くんの家は豪邸だとか、家政婦さんがいるとか、大手企業の社長のひとり息子とか。お金持ちのイメージだ。
ここのマンションはたしかに高そうだけど、実際高層マンションだけど、わざわざ家を出なくてもよさそうな気がする。なんかたくさん部屋がありそうなイメージだし。
それにしても本当になぜ私と須佐くんが結婚するような事態になったのか、大いになぞだ。
須佐くん曰く「恋愛結婚」。だけれども付き合うきっかけは「偶然」。わけがわからない。
第一15歳のときの須佐くんは私の好みではなかったし、須佐くんもまた私が好みだったとは思えない。私の名前すら知らなかっただろう。
本当に平凡を絵に描いたような生活だったのだ。
確かに通っていた学校は私立で、学費が高いといえばちょっと高い。いいとこのお坊ちゃんお嬢さんが多く通っていた。
スポーツで特待生のひとや、学力で名を馳せているひとのなかで、ぽつんと混じっていたのが私だ。
付き合っているひとも好きなひともおらず、仲のよい男子はとくにいない。女子で仲良く過ごすことに楽しさを感じていたのだ。
その私が、結婚。いまだに信じられない。戸籍とか見たら信じられるのだろうか。いや答えは否、だ。
経験は記憶の積み重ねだ。記憶が唯一の真実だ。それがまるごとぬけている。そのなかでどうやったら、なにを信じたらいいのだろう。
とりとめもなく考え事をしていたはずが、いつの間にか寝ていたようだった。環境が変わったせいか、最近良く眠れない。
慌てて時計を見ると一時を過ぎていた。
朝須佐くんがご飯を炊いてくれたから、おかずを用意すればいい。冷蔵庫を開ければお野菜やお肉、お魚などたくさんの食材がぎゅうぎゅう詰めに入っていた。
だけれども料理なんてほとんどしたことない。せいぜい家庭科の調理実習くらいだ。それにコンロの使い方が分からない。結局電子レンジで温めたレトルトのカレーを食べることにした。
使ったお皿を洗い食器かごに伏せたところで、次にやることを考える。
そうだリビングや寝室を探索するついでに掃除をしよう。いや掃除をしながら色々見てみよう。
姿鏡の横に掃除機があったはず。これは形が変わっていなかったので使い方は分かる。片手で掃除機をリビングに運び、コードを出してプラグをコンセントに刺した。スイッチを入れると独特の音と共に埃が吸い込まれていく。
フローリングのうえを行ったり来たりしながら掃除機をかける。毛が長くもこもこしているカーペットは念入りにかけて、ひとまず終わりにした。
とテレビの横にはがきが置いてあることに気づいた。何気なく手に取ると、あて先は私と須佐くん宛で同窓会のお知らせだった。
同窓会。仲の良いともだちも来るのだろうか。いまの私には記憶の刺激にちょうどいいのではないだろうか。須佐くんが帰宅したら参加するのかどうか聞いてみよう。
寝室にも掃除機をかけて、お風呂掃除をし、キッチンのシンクをきれいに磨いたところで、カタ、とドアが開く音がした。須佐くんだ。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「メシは?」
「…ご飯をつくること以外のことをして過ごしました…」
「あーいい、それで。そのつもりで帰ってきたからな」
須佐くんは寝室へと向かった。スーツから部屋着に着替えて戻ってくる。須佐くんは手際よく夕飯を作っていく。私はその横でお皿を出したり洗い物をしていたりと助手的な働きをしていた。
あっという間に夕飯が出来て、リビングで向かい合って食べることにした。
「ねえ須佐くん、同窓会のはがきを見つけたんだけど」
「ああ、今週末だろ。いまの状態じゃどうかと思ってたけど、行きたいか?」
「うん、行きたい」
ともだちに会いたい。会ったらなにか分かることがあるかもしれない。
「わかった。あとはなにか気になることはあったか?」
「気になることというかわかったことというか。私レーシックっていう手術受けたの?」
「ん、そうだ。つい最近受けてたな」
「それでメガネしていなくてもよく見えるんだ」
それにしてもよくそんなお金があったな、私。チラシを見てその値段に驚いて二度見してしまったのだ。
「ねえ須佐くん」
「なんだ」
「私、仕事に行かなくて大丈夫なの?」
30歳の私は学生ではないだろう。無断欠席がゆるされるのは学校だけだと思う。
「…いまは仕事をしていない」
「専業主婦なんだ」
ならよかった。これで明日から仕事に行けと言われたら困ってしまうところだった。なにひとつ分からないし。
それにしても家事がまったく出来ない専業主婦もいかがなものだろうか。
「…まあそんなもん」
変な間があった。
「どういうこと?」
しばらく考えているふうだったが、須佐くんは続けた。
「…体調を崩して仕事は休んでいる」
「へー」
いまの私には30歳の私は他の人のようなものだから、そう言われてもぴんとこない。須佐くんは言葉を選んでくれたようだけど、大変ね、と思う程度だ。
「働くって大変ね。ところでどんな仕事をしているの?」
「看護師」
「ウソぉ!」
いまの私には想像もできない仕事だ。将来の夢、看護師。ないない。そもそも将来の夢なんてないし。いつ将来の目標を決めたのだろうか。そちらのほうが気になる。
「それは大変な仕事ね」
ひとの命を預かる仕事だもの、そのストレスたるやいまの私には想像もできない。ていうかよくその仕事を選んだな、私。
「まぁな」
私なんかより須佐くんのほうがその仕事の大変さを分かっているだろう。
「須佐くんは?どんな仕事をしているの?」
「…営業」
「ふーん」
これ以上訊いても分からないだろうから、深く訊くのは止めた。何だか訊きにくい雰囲気だったし。
ともあれ週末は同窓会だ