昼の光 9
「…それ、どこで見つけたんだ」
須佐くんの目が一瞬揺れた。動揺を見せないようにしているのが、明らかだった。こんな須佐くん見たこと無い。記憶が無いって言ったときだって動揺を見せなかったのに。
「パソコンの下に隠してあったの」
その須佐くんをじっと見つめる。険しい顔をしている須佐くんが、ふっと大きく息を吐いた。
「…捨ててなかったのか」
「え?」
「もう捨てたと思ったんだけどな。そうか…」
自分の言葉を噛み締めるようにしている。
手帳をテーブルの上に置く。それを須佐くんは眼で追っている。
再び視線が合う。
「妊娠していたんだ」
「へ?」
「佳奈が、俺の子を」
「…うん」
なんとなくだけど、頭のどこかでわかっていたことだった。りっちゃんの反応、真っ白な手帳。
「だけどだめだった」
「…うん」
「そうとうショックだったんだと思う」
「……」
「気にするな、って言ったんだけどな」
「……」
「俺の親のプレッシャーもあったから、喜びも大きかったんだと思う」
須佐くんの目が、もうこれ以上の話はいいだろ、と言っているような気がして、それ以上聞けなかった。
きっと気を使ってくれているんだろう。傷つかないように。
「さあ、メシにしようぜ」
須佐くんが後片付けをしてくれるということで、お風呂に入らせてもらった。
湯船に体を沈める。肩までお湯につかったところで大きく息を吐いた。
ずっと望んでいた赤ちゃん。喜びも大きかったのだろう。だけどそれがダメだったとしたら。
そっとおなかを触ってみる。ここに新しい命があったということ、なんだか不思議な感じだった。
赤ちゃんがいたら、この生活も違うものだったのだろうか。
よくわからない。だけれども。
もし記憶を失うきっかけがこのことだったとしたら。須佐くんとの思い出を全て忘れたいと思うほどの衝撃だったとしたら。
思い出せないのかもしれない。
なにかわからないけど、初めて怖いと思った瞬間だった。
「佳奈?大丈夫か?」
コンコン、というノックの音と須佐くんの声が脱衣所に響いている。その音がお風呂場まで届いてきた。
「寝てないか?」
「…寝てないよ」
湯沸しの画面を見たら長い時間入っていることに気づいた。須佐くんはお風呂でのぼせていると心配になったのだろう。
「はやく出ろよ」
心配するだろ、という言葉に「うん」と返す。
と突然視界がぼやけた。
「え、え、え?」
ごしごしと目を擦ってみると、ぽろりと水滴が頬を伝った。
水滴はあとからあとからわいてきて止まりそうになかった。泣いている、とわかったのは嗚咽が抑えきれなくなってからだ。
「ふぇっ、うっくっ」
なにが悲しいのかわからない。いや、嬉しいのか悲しいのか辛いのか感情がぐちゃぐちゃしていて、こんな気持ち初めてだった。
わからないけど、ただただ涙だけ流れて止まらない。あんなに須佐くんに会いたかったのに、いまは顔を見たくなかった。
湯船から上がって脱衣所に向かった。
「…かーこ、どうしたの?」
服を着て、携帯だけ掴んで家を飛び出した。
マンションのエントランスで電話をかけた先はりっちゃんだった。
りっちゃんしかいなかった。
りっちゃんは何も言わずに車で迎えに来てくれた。そしてりっちゃんの家に連れて来てくれた。朝、家を出たときはこんなことになるなんて思っていなかった。
薄着を心配してりっちゃんはコートをかけてくれた。りっちゃんの匂い。「部屋が暖まるまで着ていること。じゃないと家に戻すからね」と。
「だいじなこと、なにひとつ教えてもらっていない気がする」
「なにを?」
「赤ちゃんがいたこと、手帳を見つけなきゃ教えてくれなかった」
すごく大事なことだったのに。もしかしたら。もしかしたらだけど。
「記憶を失うきっかけなことかもしれないのに」
そう。そしたらすべてがつじつまが合う。
「ちっとも対等なんかじゃないんだよ」
「……」
「わかった。わかっていたことだけど」
「……」
「わたしは守られるだけの存在なの?」
「……」
「記憶が戻らなかったら、このままの関係なの?」
それまでずっと無言で話を聞いていたりっちゃんが口を開いた。
「かーこはどうしたいの?」
「どうしたいって…」
どうしたいのだろう。わからなかった。いやわかっていたら飛び出してこなかった。
と携帯が鳴る音が響いた。りっちゃんはポケットから携帯電話を取り出して、液晶画面を見て、わたしを見た。
「…はい。うん、そう。ここにいるよ」
相手は誰だって聞かなくたって分かる。
「うん、ちょっと動揺している。大丈夫、明日送り届けるから」
りっちゃんの声は穏やかで、揺れるわたしの心を安心させてくれる。
「…これでよかった?」
大きく首を縦に何度も振る。
「ゆっくりしていくといい。かーこが望むならいつまででも」
その言葉に安心して、また涙が出た。




