昼の光 5
「かーこ、おやすみ」
「……うん」
ぱたんという音とともに、後ろでドアが閉められる。振り返らずに、そのままベッドに腰掛けた。スプリングが軋む。目の前には綺麗に整頓された机がある。見上げれば白い天井。昔は、叔父さんの書斎として使われていた部屋だ。
体から力を抜くと、後ろへと倒れた。小さくバウンドして、背中がぴったりと掛け布団にくっつく。布団からお日様の匂いがした。
急に遊びにきたのに、叔母さんは布団を干してくれていた。叔父さんは温かい笑顔で迎えてくれた。
りっちゃんは。
とても、とてもーー優しい。
優しいみんなに囲まれて、鼻の奥がつんとした。
記憶はどこにいってしまったのだろう。
なぜ須佐くんとの思い出を一つも覚えていないのだろう。
りっちゃんはわたしが高校から大学に入るまでを知っていた。
「結婚してからも連絡をもらってたから、つい最近までのことも知っているけど」
順に追っていくほうがいいだろう、と。
叔父さんたちはもう寝室に行ってしまって、リビングに残されたのはりっちゃんとわたしだけだった。
もう寝る時間も近いから、ということで、マグカップに温めた牛乳をいれてくれた。
じんわりとその温かさが両手に伝わっていく。
ソファーに隣同士で座って、りっちゃんが続ける。
「高等部に上がってから、かーこと会う時間はめっきり減ったよ。なぜか、かーこは僕に話をしてくれなくなって。学校では素っ気なかった。たまに遊びに来てくれるときは、それなりに話をしてくれた。かーこのことが心配で、かーこの友だちに話を聴きに行ったこともあったな」
「りっちゃん…」
「かーこの友だちにも過保護だって言われたよ。よくわからないけど、周りの眼を気にしろとも。かーこが大事なんだ」
それはよくわかる。大事にされすぎて、どうしていいかわからないほどに。
わたしにはそんなことをしてもらう価値があるのだろうか。
「かーこは、大学のときに、初めて彼氏ができた。こっそり僕に教えてくれたよ。サークルの先輩だよって。嬉しそうだった。振られると思ってたから、って。でも、その彼がかーこにひどいことをした」
「ひどいこと…?」
「傷つけるようなことをしたんだ。僕は何度も殴りに行こうと思った。けどかーこはそんな最低なやつでも好きで、僕がそんなことをするのは望んでいないって言ったんだ」
好きなひと。想像がつかない。
初恋もまだだった。好きっていう気持ちが分からなかった。
そんなの漫画の中のできごとだと思ってた。
「それからしばらく男のひとと話すのがダメだった。僕ですら時間がかかったんだから」
こんなに大好きで優しいりっちゃんでもダメだったとしたら。
りっちゃんは口にしないけど、どういうことか想像できないけど、とにかく深く傷つくようなできごとがあったんだろう。
「そういえば、須佐くんは、『出会ったとき、ガチガチに武装していた』って言ってた」
あのときは意味が分からなかったけど、もし男のひとがダメだったら、そんなできごとがあったら警戒してしまうのも分かる気がする。
「須佐くんはそのこと知っているのかな」
「僕にはわからない。もし話をしているとしたら」
「したら?」
「僕以上に心を許したんだね」
りっちゃんは、嫉妬するよ、と言いながらマグカップを口元に運んだ。
「りっちゃん…」
どう反応したらよいか困ってしまう。そんなわたしを見て、りっちゃんがふっと笑う。
「かーこは僕が育てたようなもんだもの。大切なお姫様を取られて喜ぶやつがいる?」
「お姫様…」
そうだ、りっちゃんも須佐くんと同じく、こっちが恥ずかしくなるようなことをさらりと言ってしまうのだ。そういうところは似ているかもしれない。
「もしかしたら、毎年プレゼントしてた手帳を使ってくれてたかもしれないよ」
りっちゃんから毎年クリスマスプレゼントとして、手帳をもらっていた。そしてそれを使っていた。
その手帳を。わたしなら、どうする。
起き上がって机に向かう。右側の三段ある引き出しの上から開けていく。一番上には文房具しか入っていなかった。二段目はお菓子の箱などで区切られている。ひとつひとつ開けてみるが、無かった。三段目の深い引き出しにはファイルがたくさん入っていた。
なら。
椅子を引いて、机の下にもぐりこむ。正面にハードカバーの本の間に見覚えのある赤い手帳があった。赤い手帳の横には、同じ形で色違いの手帳が何冊かある。
「これだ」
赤い手帳を引っ張り出して、机の下から出る。机の下にもぐりこむために引いた椅子を左手で引き寄せる。椅子に座って、机の上に手帳を乗せて開いた。
月間スケジュールを飛ばしてページをめくる。一日一ページの手帳。日記代わりに使っていた。
1月の最初はみっちり書いてある。
そうだ、手帳をもらったのが嬉しくて、1月ははりきっていたっけ。
ページをめくっていく。3月までは書いてあったり、無かったり。それが4月になると毎日書いてあった。
そうだ。たしか。
いそいでページをめくっていく。
『明日は卒業アルバムの個人撮影の日。はやく起きたい』
そう、たしかにこう書いた。
次をめくる。
『学校で階段から落ちるが、あの須佐くんに助けてもらい、怪我はなかった。』
一行だけだった。
他の誰でもない、わたしの字で書かれた一行だった。
話を聞いていた。アルバムを見た。理解していた。
けれど。
時間が知らないところで、あたりまえに過ぎているこということ。改めて目の当たりにして。
なぜか泣きそうになってしまった。
ぐっとこらえて、ベッドに横になる。パーカーのポケットに入れていた携帯を握りしめる。ポケットから取り出して履歴の一番上を開く。電話のマークを押す。
長い呼び出しのあと、ノイズ音とともに『佳奈?』という声が聞こえた。
その声にほっとする。
『どうした』
「うん、声が聴きたくなって」
ため息とともに、おまえ、という声が聞こえてくる。
『その無意識なやつ、やめようぜ』
「え?」
『顔見たくなるだろうが』
あと3週間はかかるってのに。と。
『神谷先輩は優しいか?』
「りっちゃんはいつでも優しいよ」
『…まるで俺は優しくないみたいだな』
「そんなこと一言も言ってないじゃない」
『なんだかな。俺ばっかり…』
「ばっかり…?」
『いや、なんでもない』
「なんでもないって、一番気になるんだけど」
『…気にしとけ』
「え?」
『にぶいにもほどがある』
「なによ、もう」
自然と頬がふくれる。そんな姿を見られないから。安心と同時に寂しくなる。
「はやく」
『ん?』
「はやく会いたい」
ぎゅっとしてもらいたい。この湧き上がる不安を吹き飛ばしてほしい。
須佐くんに会いたい。そう強く思った夜だった。




