タイムトリック・パニック 3
目覚めたら学校だった。
………………ってことはなかった。
何度目をこすってもそこは昨日眠りに付いた場所で。思わず頬をぎゅっと掴んだが、とても痛かった。
慣れない環境のせいかぐっすり眠れた気がしない。こんな状況でぐっすり眠れるほど図太い神経を持ち合わせてはいない。
恐ろしいことにこれは夢ではないのだ。
恐る恐るリビングへと向かうと「30歳の須佐くん」がキッチンに立っていた。そのままそっと近づいていく。
「おはよう」
「…おはようございます」
「いま朝メシ作ってるからテレビでも見て待ってな」
とりあえずソファにそっと座る。テレビでも、という言葉でテーブルの上にあるリモコンを手に取る。あたりを見渡すが、肝心のテレビが見当たらない。
「…テレビ、ないんですけど」
「あ?」
トレイを持ってやってきた須佐くんはくいっとあごで薄型パソコンモニターをさす。まさか。
大型のパソコン画面に向かってリモコンのボタンを押すと、大きな音と共に画面が切り替わった。
「わっ」
驚いてリモコンを落としてしまう。
「なに驚いてんの」
「だってこれパソコンだと思ったんです!」
「…ああ、なるほどな」
なにがああなんだ。
「15年後のテレビはこれなんだよ」
落としたリモコンを拾ってテーブルに置く。目の前に須佐くん。テーブルの上にご飯とお味噌汁などが乗せてられていく。
「意外」
テーブルの上を見て、ぽろっと本音が出た。
「なにが意外なんだ」
だって須佐くんの見た目に和食は似合わない。トーストにコーヒーとか似合いそうだ。というか須佐くんがご飯作るとかイメージに合わない。
「須佐くんって」
たしかいいとこのお坊ちゃんだったんじゃなかったけ。社長の息子とかそんな感じ。噂では家政婦がいるとかそういうドラマみたいなそんなひと。そのいいとこの坊ちゃんがなぜ私のために朝ごはんをつくってくれているのだろう。
「…洋食のイメージがあるんだけど」
色々訊きたいことは山のようにあるけれど、とりあえず当たり障りのないことを言う。いきなり家のこと訊くのは失礼な気がしたのだ。
だってそこまで仲良いわけじゃないし。
「あ?だってお前が朝はご飯って言ってたじゃねぇか」
確かに私の家では朝は和食だ。何で知っている。
あああ。「夫婦」だからか。15歳の私は知らなくても、30歳の須佐くんは知っていることがあるのか。まだそのことには納得していないけど。
「ん、これうちのお味噌汁の味!」
飲んでびっくりした。この絶妙な味、まさに私の家のお味噌汁そのものだった。
「おまえが作ってたんだ、毎日食べてたらそうなるだろうよ。…メシ食ったら、出かけるぞ」
出汁巻きまである。どんだけ料理上手なの須佐くん。
「え、どこに?」
「病院」
「……」
確かに須佐くんからしたらそういう行動をとるのは理解できなくはない。理解できても納得はできないことってあると思うんだけど。
「…おかしいことなんてひとつもない」
おかしいのは周りの状況だ。私は正常だ。それを証明してみせる。だからおとなしく従うことにした。
「…つべこべ言わずにさっさと食え」
つべこべ言わずに食べた朝食は、思いのほかおいしかった。
問答無用というか、いまの私には須佐くんしか頼れる相手はいないから、おとなしく従うことにした。無一文だし。
車で向かった先は何階建てか分からないくらい大きな病院、大学病院だった。初めて来た。かかりつけの病院は町の診療所といった感じのところだったから、物珍しさにあたりをきょろきょろと見渡してしまった。おのぼりさん丸出しである。
待合室で須佐くんの隣に座る。
「須佐さん、須佐佳奈さん」
看護師さんがカルテ片手に名前を呼ぶ。
「はい」
突然須佐くんが立ち上がった。え?
「おい、呼ばれてんぞ」
「はあ?」
呼ばれてませんけど。勘違いじゃないの?
「…お前はいま『須佐佳奈』なんだよ」
「……………あ」
須佐くんの言い分を信じれば、私は須佐くんと結婚している。つまり「佐藤佳奈」ではなくて「須佐佳奈」になるんだ。
ぐいっと腕を引かれて須佐くんの後について診察室へ入っていく。
「どうぞ」
中にいたのは優しそうな、多分須佐くんと同じ年齢くらいの女医さんだった。椅子を勧められて腰掛ける。須佐くんは隣で立ったままだ。
「お久しぶりです」
……お久しぶり?須佐くんと女医さんは面識があるのか。知り合い?
「その後体調のほうはどうですか」
にこにこと先生が話しかけてくる。その後?
「それが、」
須佐くんが昨日のことを順序だてて話し始める。
帰宅したら様子がおかしかったこと。話を聞くと15年前のできごとをさっき起こったかのように話すこと。15年分の記憶がなくなっていること。
徐々に先生の顔が険しくなっていく。
私もおぼえている限りのことを必死に話す。だっておかしいのはこの状況なんだから。
「……念のため、検査しましょう」
検査でも何でもうけてやる。おかしいことなんてひとつもないんだから。
診察室を後にして今度は脳の検査をする部屋へと案内された。
「ねえ須佐くん」
「なんだ」
「頭おかしくなったなんて思わないでね。おかしいのはこの状況なんだから」
「……わかったから、おとなしく検査を受けて来い」
「脳に異常は見られません。一種の記憶喪失でしょう」
女医さんは検査結果をみてそう言った。
「記憶喪失…」
隣に立つ須佐くんが納得といったような顔でうなづいた。
「なにか強いショックがあって、一時的に脳が混乱しているようです。時間が経てば思い出しますよ」
「思い出す…」
思い出すも何もないものは思い出せない。けれども先生と須佐くんの間で話は進んでいく。
「大丈夫ですよ、こういうことはわりとあるんです」
わりとあるとか、大丈夫とか、いまの私には全然嬉しくない言葉だ。
「普通に生活してください。あと、いつもの薬も出しておきますから、必要なら服用してください」
「…いつもの?」
「必要ならば、なので旦那さんお任せします」
「佳奈、あとで詳しいことは話すから」
「あくまでゆっくりと、でお願いしますね。混乱してしまいますから」
十分混乱していますなんて言えない雰囲気だ。
会計を終えて、車に乗り込む。
いまの状況が信じられない。
本当に記憶喪失なのだろうか。信じたくない。
「……私の家に帰る!帰るったら帰るんだから!送ってって!」
「いまから帰るだろ」
須佐くんが運転席からちらりとこちらに視線を走らせる。
「私の家!お父さんとお母さんに会いたい」
そうだ。私にはお父さんとお母さんがいる。その家に帰ったらいいんだ。
須佐くんや病院の先生からすれば30歳の「須佐佳奈」だけど、お父さんたちにとっては「佐藤家」の娘であることは変わり無い。話をすればきっと分かってくれるはずだ。
「実家に帰らせていただきます」
なぜか須佐くんは苦い顔をした。
「どうしたの?」
やっぱりいい思いをしないのだろうか。「妻」が実家に帰りたいなんていうのは。でもそれが一番いい気がする。
あくまで私からみた須佐くんは他人だ。いくら須佐くんが違うと言っても。他人の家にいつまでもお世話になるわけにはいかない。
「…ねえ、どうしたの?」
黙りこんだ須佐くん。
「やっぱりここは家に帰っていったん仕切りなおしたほうがいいと思うんだよ」
なにを仕切りなおすかわからないけど、とりあえずここはそう言っておいたほうがいい気がした。とにかく家に帰りたい。帰って混乱した頭を整頓したい。
だけどますます須佐くんの顔は険しくなっていった。
「須佐くん?」
「いいか、落ち着いて聞いて欲しい」
須佐くんはいままで見た中で一番真剣な顔をしている。
「佳奈。お前の家は、ない」
「…え?」
言っている意味が分からない。
「…どういうこと?」
「家はないんだ」
「お前の家族は、10年前、交通事故で亡くなった」