コーヒーのたしなみ方 6
働くことは生きること。
まだその言葉の意味はわからない。
けれども前進していく先にその答えがあるような気がしている。
前進する。
仕事をしていくことが前進することになるのだろうか。
仕事を始めての初めての週末。須佐くんとともにまったりとした休日を過ごしている。
パートに出るようになって、家とスーパーの往復だった生活が変化した。
朝須佐くんを見送って、お弁当を作って出勤。三時まで働いてその足でスーパーに寄って夕飯を作って須佐くんの帰りを待つ。
最初は疲れて夕飯を作らずうたた寝してしまったこともあったけど、いまでは慣れて一日のサイクルを維持できている。
人間ってタフだと思う。
「ねえ須佐くん、どこか出かけよう」
ソファーに座って雑誌を読んでいた須佐くんに話しかける。
「ああ?どこに出かけるんだ」
須佐くんは声を受けて雑誌から視線を上げ、こちらを向いた。
「水族館に行きたい!」
「水族館?」
突然の提案に須佐くんは眉を寄せる。雑誌をテーブルに置いて私をじっと見つめる。
「いままでどこか行きたいなんて言ったことないな」
「行動範囲が広くなると視野が広くなるね。もっと出かけたいって思ったよ」
「ふーん」
気のない返事をする。あ、あんまり乗り気じゃないのかな。
なら止めておこう。せっかく出かけても、気持ちが乗らないなら面白くないし。
「気持ちが乗らないなら、別にいいよ。家でゆっくりでもいい。須佐くんとならなんでもいいよ」
須佐くんはじっと私を見ている。
「須佐くん?」
「久世は、」
「壱くん?」
「…最近どうしている」
「分からないよ。本社にいるんだよね?なかなかこっちには顔出さないよ」
「連絡とっているんじゃないのか」
「最近はメールも来ないよ」
仕事が忙しいのか、最近はさっぱり連絡がこない。まあそれはそれでいいんだけど。
「…そうか」
「うん?」
「久世の言う通りだな」
「え?」
須佐くんは、ばさり、と雑誌をソファーに置いた。
「狭い世界に居るっていってたやつ」
「言ってたね」
須佐くんはおいでおいでというように手を振っている。その仕草に従って素直に須佐くんの横に行く。
「まあ、座れ」
ぽんぽんと隣を叩く。すとんと腰を落として隣に座った。須佐くんは両手を額の前で組んで床を見ている。
「怖いんだ」
「へ?」
「いまの生活が壊れるのが」
「……」
「いまの佳奈は刷り込みみたいなもんだ。記憶なくして目の前にあったものを信じるしかなくて、疑うことを知らない。俺が好きって言ってもそれが純粋にそうかと言われると疑いたくなるんだよ」
「……」
「久世が現れてからずっと心配だった。俺のことが好きだって言うのが錯覚じゃないかと」
「……」
「情けないよな。そんなこと思ってたんだぜ」
ははっと自嘲気味に笑う須佐くんにたまらなくなって、ぎゅっと抱きしめた。
「佳奈?」
「そんなこと言わないで。須佐くんのこと好きなのは本当だよ」
「……」
「壱くんに心移りするのを心配したの?そんなことありえないから。須佐くんは須佐くん。壱くんは壱くんだから」
「佳奈…」
「須佐くんのことが大好きだよ。錯覚なんかじゃない。刷り込みなんかじゃない」
抱きしめる腕の力が強くなる。須佐くんの肩に額をくっつける。呼吸のたびに体が動く。
「壱くんには感謝している。いままで狭い世界でしか物を見れなかったから。でもそれ以上の気持ちは無いよ」
「……」
「…疑っているでしょ」
「そんなことはない」
「本当だよ。須佐くんが一番だよ」
なんだか恥ずかしくなってきた。これでは熱烈な告白みたいな気がする。抱きしめていた腕を解いて、火照った頬に手を当てる。
「あーもう、恥ずかしいこと言わせないでよ」
照れた顔を見られたくなくて、立ち上がる。ソファーから離れようと体をひねると、須佐くんの腕が腰に絡まった。背後から腰を抱きしめられるような形になる。
「す、須佐くん?」
「悪かったな、疑って」
「……ううん。でも意外だったな」
「なにが」
「それって妬いてくれたんでしょう?いっつも冷静なんだもん。そういう感情がないのかと思っていた」
「……嫉妬ぐらいする」
ふてくされたような声が背中から伝わってくる。
なんだか可愛い。
なんて言ったら怒るだろうけど。ふふっと思わず笑みがこぼれた。
「なに笑っているんだよ」
「なんでもないよ」
「こっち見て言え」
くるりと体が反転して、再び須佐くんと向き合う形になる。須佐くんの腕はまだ腰に絡まったままだ。
「なんでもないよー」
「ちょっと顔かせ」
「なに?」
顔を須佐くんの顔に寄せる。まつげの長さが分かるくらい近く。
「あっちむいて」
指差した方を向くと、頬に暖かい感触が。慌てて須佐くんのほうを見ると意地悪そうな顔している。
「じゃあ出かけるか、奥さん」